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望月素新 5

 夢を、見ていた。


 日本で住み暮らしていたころの、夢。

 

 私は鉢割れのおじさん――土建屋の社長の下で、髪を染めててちょっと気が荒いけど気の良いお兄ちゃんたちと一緒に仕事をしていて、それでも会社の制服を着せてはもらえなかった、あの頃の夢だった。


 夢の中で私は、一生懸命働いていた。

 社長はちょっと厳しかったけど、でもしっかり仕事をこなせたときは、頷いてくれた。私が来るようになってから身の回りが整頓されて綺麗になったと、お兄ちゃんたちはお世辞を言ってくれた。男所帯でクソ汚いところだったからな、とがはがは笑うみんなのことが、私は本当に好きだった。


 働くのは楽しかった。覚えることは一杯あったし、知らないことも一杯あったし、嫌なことだってあった、こっそり助けてくれるお兄ちゃんもいた、初めて給料を貰ったときの喜びは忘れない。


 本当は買いたいものが一杯あった。携帯電話を持っていなかったから、スマホが欲しかった。近所の社会人のお姉さんが休日に来ているような、さっぱりと垢抜けた大人の服も着たかった。いつも私はジャージ姿だったから。

 食べ盛りの上に、私はちょっと大食いだったので、いつもお腹を空かせていた。私が遠慮容赦なくガツガツご飯を食べたら、食費が跳ね上がってしまうから。

 私の実家付近は栄えた町ではなかったので駅前の商店街も寂れたものだったが、それでもぽつぽつと点在する料理屋の、ショーウィンドウの中に飾られたトンカツやスパゲッティなんかが私には眩しかった。手持ちのお金があれば、あれらを自由にとまでは言わないまでも、何度かは心行くまで食べられるに違いない。


 それでも私は、給料を全額、郵便ポストの形をした貯金箱の中に入れた。

 親戚や両親から貰ったお年玉を長年に渡って入れておいた貯金箱で、私が自由に使えるお金ではない。

 困窮してから、母がこっそり、そこからお金を抜いていることを知っていた。正面きってお金を渡しても、母は受け取らないだろう。私が学校に行かずに働いていることも知らないのだ。

 

 いつも腹の虫を鳴かせていた私を見かねたのか、社長が奢ってくれたラーメンの味を今も忘れない。私に気遣いをさせまいという配慮なのか、私だけでなくお兄ちゃんたち全員を軽トラの荷台に乗せ、社長はラーメン屋に連れていってくれた。


 お兄ちゃんたちが自分の好みに合わせて食券を買っている横で、社長が何も言わずに渡してくれた食券は、大盛りの上に具のトッピングを全部載せという豪華なものだった。

 色気の欠片もないラーメン屋で、麺を啜りながら私はこっそり泣いた。優しさが沁みたのだ。




「ソアラ? 起きているか?」


 ノックの音で、私は眼を覚ました。 

 まだ慣れていない、私の新しい部屋、新しいねぐらだ。


 私を起こしてくれるライオットは、ここにはいない。代わりにシブが、たまに訪ねてくる。


「ん、今行く」


 顔に手をやると、頬が濡れていた。寝ている間に泣いていたらしい。

 布団に顔を押し付けて、涙を吸わせた。


 心が少し弱っていた。気合を入れるべく、深呼吸をする。

 下っ腹に力を入れて、弱気の虫を追い出す。


(――私は凄腕の暗殺者)


 軍の第二位、鋼身のベアバルバの護衛すらかいくぐって貴族を殺害したアサシン。気が乗らないことはしない、暗殺依頼なんかも受けない、飄々と気まぐれに生きる、つかみどころのない危険人物。

 

 路地裏と敵対はしない、でも積極的に関わろうともしない、ただの食客。


 自分に何度もそう言い聞かせ、表情を自己暗示で鎧っていく。


「すまんな、少し時間をいいか?」


「構わないよ、どうぞ?」


 シブを迎え入れながら、作光石の留め鉄を外して、部屋を照らす。

 茶ぐらい淹れようかと思ったが、そもそも茶葉も茶器も持っていなかった。


「贅沢は嫌うのだな。殺風景な部屋だ」


「居候だし、永住するわけでもないからね。物を増やしてもしょうがないよ」


「ソアラさえその気なら、いつまでもいて構わないのだぞ? この部屋だって、貴族の暗殺報酬としては安すぎるぐらいだ。正式に依頼してなかったとはいえ、私たちが失敗した任務をソアラが代わりにやってくれたことを我々は深く感謝しているからな」


 ヤハウェさんを殺害した後、私はカナン商会からは離れることにした。

 前々から決めていたことだ。ライオットに迷惑をこれ以上かけたくなかったのだ。

 どこに行こうかと考えたのは束の間で、ヘリオパスル教会で早とちりして私にナイフを投げてきたシブの顔がすぐに思い浮かんだ。「借りにしておく」と彼女は言ったのだ。私でも住める不動産の紹介でもして貰えればいいと思っていたのだが、いざ行ってみると諸手を挙げて歓迎された。 


 貧民街のうらぶれた酒場でシブの名前を出すと、すぐに彼女はやってきて、マンションみたいな集合住宅の一室を好きに使っていいと言ってくれた。この界隈では上質な住居らしい。


「しばらくは、居させてもらうよ。それで、今日は何の用?」


「ん。コンスタンティ家に動きがあったのでな。それをざっと告げに来た」


 目下の懸念事項だった。

 ヤハウェさんの暗殺まで、路地裏と一切関わりがなかった私だったが、私の素性が知られていないために、実行犯は路地裏の人間だと思われているのだ。

 彼女たちに罪をなすりつけているようで、いい気分ではなかった。


「元々、我々はあの貴族を暗殺しようとしていたのだ。失敗したが、人をやって襲わせもした。濡れ衣などではないさ」

 

 シブはそう言ってくれたが、気は晴れない。

 ヤハウェさんがこれ以上貧しい人々を搾取しないようにと思って、彼を手にかけたのだ。新たな死者を生む争いの火種になるのは望むところではない。


「今すぐ襲ってくることはないだろう。しかしコンスタンティ家の当主が頑なでな。いずれ争いは避けられまい。今頃は、どうすれば我々に痛撃を与えられるかを考えつつ、軍から兵を出してもらうために王家に陳情に行っている頃だろうな」


「コンスタンティ家の一存では兵は出せないんだ?」


「ああ。あくまで首都ピボッテラリアを統治しているだけだからな。軍権は王家――正式には皇家だが、みな王家と呼ぶ――が握っている。衛兵に指示を出すぐらいはできるだろうが、大々的に軍を動かしたければ王家を通す必要がある。鋼身のベアバルバが護衛につくという情報は、個人に対しての働きかけだったから事前につかめなかったがな」

 

「ふうん」


 ヤハウェさんのお父さんであるという、コンスタンティ家の当主を暗殺すれば、

路地裏への襲撃は止められるだろうか。おそらく、無理だろう。逆に、大貴族の当主までが暗殺されたということで、その王家とやらが本気になりはしまいか。


(参ったなあ)


 私が殺害するのは、この世界の人々に迷惑をかける転生者だけと決めていた。

 しかし、その転生者を暗殺したことで、この世界の人同士で争う事態へと発展している。争いを止めたいが、私にはその手段がない。

 

「襲撃に携わった七人中、生きて帰ってきたのは一人だけだ。ソアラがあの貴族をやってくれなければ、もっと手間をかけて再度襲撃する必要があっただろう。被害がこれだけで済んでいるうちに事を成し遂げてくれたお前には、とても感謝しているのだ」


(本当に、良かったのかなあ)


 シブが帰ってしまってから、私はベッドに身を投げ出して天を仰いだ。


 私がヤハウェさんを殺害したのは、この世界の貧しい人々を助けようと思ったから――ではない(・・・・)

 転生者が(・・・・)この世界の人々を搾取しているのが許せなかっただけで、元からいた人たちがどういう理由で争おうと私は関与するつもりはなかった。

 仮にヤハウェさんが転生者ではなく、この世界生まれの貴族で、貧しい人々を搾取していたとしたら、私は手を出すことはなかっただろう。正義漢(私は女だが)を気取るつもりはないのだ。


(――この世界の人々がどう生きていくかは、この世界の人々が決めることだ)


 私はそう思っている。人は、自分の決めた生き方をする権利がある。

 仮に貴族が弱者を搾取しているからといって(実際はそんなことはないけれど)、それはそれでこの世界の持っている一つの形で、関与するつもりはない。


 ただし、転生者が関与し、この世界の在り方を歪めるのは許さない。


(けど、実際は争い、起きちゃいそうなんだよね)


 この世界を歪ませる転生者を殺害したことで、新たな争いの火種になる。止めたくとも、どうしようもない。私の中に生じてしまった矛盾が、解消されない。

 もやもやがぐるぐると心の中を駆け巡って、身体から出ていかない。


(私は、間違っていたのかな?)


 ヤハウェさんを殺害したことは、後悔していない。

 ジンって人も、フヒトって人を手にかけたことだって、後悔していない。


 彼らは私にとって、わかりやすい悪だった。

 特典を駆使して、この世界の人々に害を与えたからだ。


 フヒト氏に関しては、特典で貰ったお金で奴隷を買って抱こうとしただけだが、それだって十分な罪だ。女の子の人生を大きく歪めてしまっている。奴隷売買がどうこう言うつもりはない。日本育ちの倫理感では良くないことだが、この世界では合法だからだ。この世界に元からいた人が同じことをしても、私は手を出さなかっただろう。だが、それを転生者が行うのは許さない。


 要は――転生者がこの世界(・・・・・・・・)に関わること自体(・・・・・・・・)が、私は嫌なのだ。


(その理論で行くと、テツオさんやキョーシャ君とかも殺さないとダメなのかな)


 例えばキョーシャ君は、貧しい人々を救おうとしている。

 ヤハウェさんの尻拭いだと本人は笑っていたが、それだって転生者がこの世界の在り方を歪めてしまっているということには変わらない。良い方向にであったとしても、だ。


 転生者が特典を駆使してこの世界に過度に干渉することを許さないのだとしたら、キョーシャ君も殺害するべきなのだろうか。

 彼によって救われた人々は多いだろう。そしてこれからもっと増えるだろう。教会に集まる貧しい人々が、彼の考えた事業のおかげで死なずに、あるいは身を売らずに済んだ、そういう事例がどんどん増えていくはずだ。


 それを、私は奪わなければならないのだろうか。


(テツオさんだって、そうだ)


 彼の居場所は、かなり初期のころから掴んでいた。

 ヤハウェさんの同盟会議では、転生から一ヶ月ぐらい経ってからカナン商会の協力を取り付けたと言ったが、本当はもっと前からライオットは私に協力してくれていて、カナン商会の情報網を使えたのだ。テツオさんの居場所だって知っていた。


 だから、フヒト氏を殺害して私の持つカケラの数が増えたとき、それを誤魔化すために彼に会いにいったのだ。カケラを複数持っていると、他の転生者に会ったとき、好戦的な人物なのではないかと思われてしまうだろうから、カケラを押し付けるために。


 初めて彼に会ったとき、彼のカケラの数は一つだった。

 ヤハウェさんが首都に彼を呼び出したときは、三つに増えていた。誰かを殺したのだろう。死亡ログのアナウンスの順番からして、恐らくはシェルという人物を。


 その後にもたらされる情報で、彼が山賊狩りに注力していることを知った。

 かなりの数の山賊を討ち取ったらしく、彼の名前は草原街グラスラードではそこそこ知られるようになった。賊狩りといえば彼のことだと通じるぐらいには、彼は目立っていた。


 悪党を殺害することは、この世界の人々にとっては歓迎すべきことだろう。

 しかしそれでも、特典によって得た力を使ってこの世界の人々の人生を歪めていることには変わりない。


(うーん)


 ごろごろと、私はベッドの中で転げまわった。

 頭がうまく整理されない。考えても考えても、結論が出てこない。


 こうすれば上手くいく、というさっぱりした答えが見つからない。八方塞がりだ。得体の知れない焦りみたいなものが内からどんどん湧いてきて、私を苛む。


(ご飯でも、食べにいこう)


 自慢ではないが、私は頭がそれほど良くない。

 そんな私が起き抜けに頭を酷使したので、お腹がきゅうと鳴った。


 空腹では、考えもまとまらないだろうと自分に言い訳をして、私は部屋を出る。



 かつん、かつんと音を立てて、石造りの階段を降りる。

 私が貰った部屋は三階建ての集合住宅で、三階の一番奥の部屋だ。同じ階の部屋はほとんど物置きとかに使われていて人が来ない、静かなフロアで、考えようによっては三階を独り占めしていると言えなくもない。

 

(ボロっちいけど、これでもマシな建物なんだよね、ここ) 

 

 石造りとはいったが、厳密には土を焼き固めたような、名前もわからない材質だ。階段も、外壁も、室内外の壁だって、焼いた粘土と砂の中間みたいなそれで作られている。煉瓦でも、ちゃんとした石材でもない。触ると、風化した表面がぱらぱらと削れ落ちる。手には、石膏を削ったような赤茶けた粉が付いた。


 この貧民街の建物は、みんなこの良くわからない焼いた土で建てられている。

 小さいものだと、犬小屋より一回り大きいだけで人が寝泊りできるとは思えないようなものから、大きいものだと私が住んでいる集合住宅のような何階建てかの建物まで、この焼いた土だ。石膏やちゃんとした石、煉瓦などで造った立派な家に住めるような人々は、そもそも貧民街に住まない。


「ん? 木や布で作った家がない理由か? 簡単だ、我々が禁止しているからだ」


 入手の簡単なそれらの材料なら、もっと楽に家を建てられるのではないかと不思議に思い、シブに聞いたことがある。その返事は簡潔かつ明瞭なものだった。

 

「土地が狭いので家はどうしても密集せざるを得なくなる。そこで不審火でも出されてみろ、あっという間に一帯が全焼だ。このあたりには、水属性の魔法を使える衛兵もいないしな」


 要は火事対策らしい。

 立派な屋根を持った家などなく、庭や玄関すらもない四角い小屋がずらりと並ぶそれは、サイコロステーキの密集地みたいだ。もちろんどの家も、例の焼いた謎の砂で作られていて、勝手なイメージだが、エジプトの街並みみたいに見える。


(家を持てないような人々はどうするの――)


 その質問をシブにする必要はなかった。

 両隣をサイコロステーキハウス(私が勝手にそう名付けた)に挟まれた細い道には、あちこちに浅黒く肌の焼けた人々が寝転んでいた。

 

 地面に寝転がっているから、当然服は汚れる。

 シャツに短パン、あるいは寝巻きみたいなすり切れたローブを着込んだ彼らの身なりは、一様にみすぼらしい。


 そんな中、簡素ながらも汚れていないまともな服を着て歩く私の姿は、多いに目立つ。下着の上から長袖のシャツと足首あたりまであるロングスカートを着て、なめした革のベストを羽織る。ドレスを余所行きの服だとするなら、この服装は平均的な町娘の普段着だ。


 この何の変哲もない服ですら、この貧民街にあっては浮いているのだ。


(ドレスを着ることは、もうないかなあ)


 ライオットに買ってもらったクリーム色のドレスは、カナン商会の自室を出るときに手紙と一緒に置いてきた。使用済みの品を置いていかれたところで処分に困るだろうが、今後もうカナン商会とは関わらないという、私なりの決別のつもりだった。

 あのドレスを着てライオットと街を歩いた時間は、楽しかった。綺麗な思い出だ。だからこそ、あのドレスはあの部屋に置いてきた。

 私に、ライオットと共にいる資格はもうない。


(やっぱり、見られはするよね)


 あちこちから、じろじろと全身に投げかけられる視線を感じる。良い身なりの人間なのだ、カモに見えていてもおかしくはない。しかし、実際に誰かが近づいて声をかけてきたり、襲われたりすることは今まで一度もなかったのだ。


 最初は怖かったし、なぜ襲われないのか不思議にも思ったものの、シブに訪ねてみたらあっさりと答えが返ってきた。


「ここに連れてきたときに、私が自らソアラを案内してきただろう? あれで、ソアラは路地裏にとっての客だということが住民に伝わる。私は路地裏の幹部だからな。お前を襲おうとするやつはいるかもしれんが、ここに来て日が浅く、仲間がいなくて情報が回ってこなかったり、ここの規律を知らん阿呆だけだろうな。余所者を炙りだすのに一役買っているというわけだ。そういう奴には、我々は容赦しない」


 なるほど、ヤクザの連れだと思われて手を出されていなかっただけらしい。

 もし襲われたら自衛しなければならないと、表情には出さずとも内心ちょっと警戒していたのだ。


 ちょっと細い路地に入りこむと喧嘩をしていたり、怪しげな葉巻をやり取りしている人たちがいたりするので、けっして治安がいいわけではなく、警戒をするに越したことはないのだろうが、ひとまず私はシブたちのおかげで暢気に暮らさせてもらっている。


 ここに来てから実感するのは、路地裏という組織の影響力の強さだった。


 外から眺めている分には、そういう非合法な組織があるのだなあぐらいの印象だったが、いざ貧民街で暮らし始めると、彼らの決定と通知は絶対であることがよくわかる。


 なまじ揉め事が耐えない区画だからこそ、強固な掟と力で住民を縛らねばならないのだろう。


(あまり、美味しくはないなあ)


 僅かな肉と、野菜を煮込んだスープを啜りながら、内心で閉口する。

 道端で焚き火をしながら大鍋で具を煮ているだけで、風や雨を除ける布を張っておらずもはや店どころか屋台とすら呼べないスープ売りの人から、一杯の椀を買ったのだ。


 値段はたったの10ゴルド。二十円だ。

 ヘリオパスル教会にお土産として持っていった串焼き一本で、これが四十杯飲める計算になるが、味も塩っけも何もかも薄い、お湯と大差ないようなこのスープを二杯以上飲もうとは思わなかった。キロカロリーに換算して100を超えているかすら疑わしい。

 そんなスープ売りを遠巻きにして、数人の子供たちが指をくわえながら眺めている。屑野菜のおこぼれにでも預かろうとしているのだろうか。


(それに、やっぱり、不便ではあるね)


 公衆浴場はおろか、お金を払って個室でお湯を使える施設すらこのあたりにはない。最短で徒歩十五分ほどかけて歓楽街の連れ込み宿に行くか、三十分近くかけて

首都中央付近の公衆大浴場まで行かねばならないのだ。


 トイレに至っては何と、壷である。

 床に、口の広い壷がでんと置かれているだけだ。そこに出せというのである。

人目に付きにくい街角などを選んで壷置き場は作られているが、仕切り板などはないので、見ようと思えば誰からも排泄行為が見られてしまう。下水が通っているまともな住宅街とは違うのだ。


(トイレやお風呂のたびに、いちいち出かけなきゃいけないのがなあ)


 私は狭い路地に入り、人目がないことを確認してから、隠身スキルを発動させる。空気に溶けるように、私の身体はすうっと透明になった。


 そびえ立つ家々の柱や壁、窓などを蹴って屋上へと跳ぶ。

 手に何かが触れてしまうと隠身状態は解けてしまうので、足だけで移動する。慣れたものだ。そうして屋根の上に登ったら、今度は屋根から屋根へと飛び移る。気分はキャッツアイだ。


 でこぼこしている屋根を手を使わずに飛び移るのはそれなりに難易度が高いので、本家と違って距離をしっかり測って慎重に飛んでいるので格好はつかない。

 それでも、地上の道をゆっくりと歩く人の群れに混ざって移動するよりかはずっと早い。足を踏み外して屋根の上から落下したところで、レべル500――筋力値だけでも常人の十倍以上の強度を持つ私の身体にはかすり傷一つ付きはしない。


(まずはトイレに行こう。ちゃんと洗浄用の作水石が置いてあるまともなところへ。それからご飯は何食べようかな。お腹がふくれたら、お風呂にも入ろう)


 少し浮かれ気分で屋根の上を跳びまわっていたら、ふいに子供たちの顔が脳裏に浮かんだ。スープ売りの店の前で、指をくわえて残飯を狙っていた痩せぎすの子供たちだ。


(私は、贅沢者なのかな?) 


 罪悪感が、ちくりと胸を刺す。


 これから使う私のお金は、彼らの何日分の食費になるのだろう。

 彼らは果たして、一日一杯でもあの薄いスープを飲めているのだろうか?


 大食いの私が、屋台広場でお腹一杯食べたら、安くとも1,000ゴルドはかかってしまうだろう。教会へのお土産で持っていったような高級店で食べたら、その倍は固い。

 私の一食が、貧しい子供たちの百食分のお値段と等しいのだ。


 庶民のように、一斤100ゴルドの堅焼きパンをシチューか何かで柔らかくして食べたとしても、大盛り一杯食べたら500ゴルドにはなるに違いない。


(日本でも、同じような問題はあった)


 格差問題、というのだろうか。

 ユニセフなんかがやっている、アフリカとかの貧しい人々への寄付を思い出す。

 あれと、貧民街の子供たちの状況はそっくりだ。


 彼らの姿を実際に見てしまうと、高級な食事をするということにどうも気が進まない。日本とアフリカでは距離がありすぎて、対岸の火事だと傍観することもできるだろうが――間近で彼らの姿を見てしまうと、何とも言えず、もやもやする。


 彼らは現に目の前にいて、ちょっと財布の紐を弛めたら救える距離にいるのだ。


(何もかも、すっきりとしないなあ)


 私だって馬鹿ではない。

 ちょっとしたおせっかい心を発揮して、彼らに食事を奢ってあげたところで彼らの生活が根本的に改善するわけでもなく、たまたま目に留まった子供だけを贔屓するのは不平等であるという見方だってできるだろう。 

 あるいは彼らが他人の力を当てにして生きていくことに慣れてしまい、人としての強さというか、生命力みたいなものが損なわれてしまうかもしれない。


 しかし――現に彼らは餓えている。良心は彼らを助けるべきだと訴えている。

 

 助けるか、助けぬべきか。十四歳の私ですら知っている、普遍的な議論の一つだった。

 あまりにも意見が分かれるので、中学校でやるディベートの授業で先生がわざわざ挙げたほどである。


(キョーシャ君の案は、すごくいい)


 みんながみんな幸せになれる、魔法のような案だ。

 孤児の子供たちは安定した衣食住が提供される。私たちはそれを見てほっこりする。初期資金を出すカナン商会は、将来的に家畜や農作物を取引することによって元が取れるだろう。


 だが――転生者が、この世界の人たちの在り方を歪めているということには、変わりない。例え、いい方向にであろうとも。

 

 それを私は、認めたくないのだ。


(他人に自分の人生をいじられるなんて、真っ平ごめんだ)

 

 私が経験してきた苦労も、その過程で手に入れた人々との繋がりも、小銭でじゃらじゃら言う給料袋も、全部ぜんぶ、私のものだ。

 

 ある日突然見知らぬ人がやってきて、豪華なお屋敷に住まわせてくれて、良かったですね裕福になって、とにこにこしながら言ってくる。

 そいつは、善意でやっているつもりなんだろう。私でなければ、生活が改善したと喜ぶ人もいるだろう。

 でも、私はいらない。土建屋の人たちと過ごしたあの貧しい日々のことを、汚されたくない。


 転生者がこの世界の人々の人生を歪めるということは、この世界に無数にいる土建屋の私を勝手な都合で踏みにじることと等しいのだ。私は、それが許せない。


(じゃあ、キョーシャ君を殺す?)


 暗殺はたやすいことだ。居場所も見当が付く。

 ただし、彼を刺し殺すということは、これから彼が救うであろう多くの人々を共に殺すことだ。私はその刃を突き立てられないでいる。

 

 そもそも、悪党を殺したことで、私もこの世界の人々に影響を与えてしまっている。転生者がこの世界の人々に影響を与えてはならないという理論に従うならば、私は今すぐ自首でもして死ぬべきだ。


「へぶっ」


 考え事をしながら跳びまわっていたら、足を滑らせて顔面から屋根に落ちた。

さすがに、鼻の頭が少し痛んだ。

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