望月素新 2
「魔石文明?」
聞きなれない単語に、鸚鵡返しに聞き返してしまった私を見つめながら、ライオットはこくりと頷いた。
「魔石を様々に加工することで発展してきた、全街の文明を総称してそう呼びます。例えば、これ」
彼は、天井から吊るされているランプを取り外し、机にことりと置いた。
昼間から明るい光を放っていたそのランプの、足元あたりにあるスイッチをかちりと切ると、ランプの光はふっと消え、糸のようなものでがんじがらめになった鉱石が露になった。
「この中心にあるのが、作光の魔法を篭めて加工された魔石です。内蔵しているマナが枯渇するまで、魔石は篭められた魔法を放ち続ける性質があるので、それを利用して光源として使っているわけですね。鉄などの金属はマナの放出を阻害させるので、使わないときはスイッチを切り替えて金属を魔石に押し当てることでランプを消すこともできます」
かち、かちと目の前でスイッチを入り切りし、ライオット青年はランプを点けたり消したりしてみせた。間近で見ると光量が強く、とても眩しい。
固形燃料や油を燃やす、昔ながらのランプを使っていると思っていた私は、驚きで絶句する。日本で普及していた蛍光灯などと、利便さの点では大差ないのではなかろうか。
「他にも、冷却の魔法が篭められた魔石――短く冷却石と呼んでいますが、それを利用して食材を冷やして保存する冷却庫、作火石を利用して煮炊きに使う発火台、作風石と冷却石を組み合わせて室温を冷やす送風庫など、身近なあらゆるものに魔石は使われています。魔石は魔力を使いきってしまうと使えなくなりますので、その場合はまた新たな魔石と交換が必要になりますが」
私は心底驚いた。中世ヨーロッパぐらいの文明なのかと思ったら、とても近代的な暮らしである。蛍光灯に冷蔵庫にコンロ、クーラー。この調子だと、洗濯機や電話、風呂沸かし機みたいなものまであってもおかしくない。さすがにテレビやスマホまではないだろうが。
「お風呂? ありますよ、作水石と作火石と組み合わせて、張った水を温める浴槽なら、この店にもあります。設備にかなりのお金がかかるのと、一人二人が入るために高いお金を払うのは敬遠されがちなので、たいていの家にお風呂はありませんが。大浴場に通う人がほとんどです」
「ねえ、ライオットさ――ライオット。電車ってあるの? 他の街に行くときはみんな、どうしてるの?」
「電車? 初耳ですし、似たような役割の設備も思いつきません。他の街に行くときは、馬車を使います。一流の魔道士などは、空を飛び続けることも可能だと聞いていますが」
私がライオットを呼び捨てにしているのは、故意である。本人がそうしてくれと言ったからだ。
雑用の仕事を一通り覚え、あてがわれた仮眠室を自分の部屋にしての生活に慣れたころ、私はライオットに自分の素性を洗いざらい話した。信用できる人物だと思ったからである。
異世界での死、神様から特典を貰っての転生、私がこの世界で生きていく目的。
すべて話し終わると、ライオットは深く納得し、引き続き客分扱いでここで暮らしてもいいと言ってくれた。それだけでなく、何か揉め事が起きたときは、手助けできることは助けようとまで言ってくれたのである。
「それだけですか? もっとこう、嘘を吐いているかと疑ったり、狂人の類じゃないかと思ったりしないんですか? いきなり神様に会ったことがあるって言い出してるんですよ?」
「神様に会ったことがあるのは、さほど驚くには当たりませんね。そこまで大きな力を与えられた人には初めて会いますが。私がソアラを信用したのは、状況から判断して嘘を吐いているように思えなかったからです。一般常識をほとんど何も知らないようですが、仕事は真面目にこなしてくれていますし、早くこの世界に馴染もうとしているのだと考えれば腑に落ちますから。それにあの、作業服。あんなものは、この世界のどこを探しても見つかりませんよ」
全てを打ち明けたときに、せめてもの証拠の品として、私が転生したときに着ていた作業服も彼に詳しく調べさせてあげている。
信用してくれたのは嬉しいのだが、どうも神様のくだりについて話が噛み合っていない気がするので、そのあたり、特にこの世界の宗教について少し掘り下げて聞き返してみた。
すると、驚いたことに、この世界では神様の存在を信じていない人間など一人もいないのだという。
「強大な魔道士のみが使える魔法には、神様の力を借りるものがいくつかあります。大魔法と呼ばれていますが、その際に神様の姿も見えるのだそうです。ですので、神様の実在を疑う人はいませんね。どこか遠い神々の世界に今も神様はおわしていて、機を見て下界に降り、人々を助けたもうのです」
ライオットは、この世界の宗教についても教えてくれた。聖書みたいな一文を暗唱までしてみせてくれた。教会に行けば教えてくれますし、誰でもこれぐらいは諳んじることができますよと彼は苦笑していたが、私にとっては驚き以外の何物でもない。
「初めの神ありき、海と大地と空をお創りになる。次に七柱の神と、生命の源となるマナをお創りになる。七柱の神はマナを使い、世界に彩りをもたらし、多くの生命を産み出された。初めの神はそれに手を加え、マナの流れをお創りになる。マナは海と大地と空の中心へと流れこみ、星の芯より再び大地へと沁み出づる。初めの神は、それぞれの種族が生きていくための土地を分け与え下された。全ての生命が、争いなく生きていけるよう。すべてを見届けた初めの神は、座へと還り、子らを永久に見守り続ける」
「原初の教え」の、ほんの触りの部分だけですが、と断ってライオットははにかんだ。そんな彼に、真実を教えていいものかどうか私は少なからず悩む。
「寝転がりながら煙草を吸ったり、他人のことなんてどうなったっていいって思ってる、中年のおじさんのことをどう思います?」
「突然な質問ですね。煙草を吸っている時点で犯罪者ですし、その話ぶりではだらけた性格なのでしょうから、あまりお近づきにはなりたくない人物ですが――」
ライオットの柔和な笑顔が、少し引き攣る。察しのいい彼のことだから、私が何を言いたいのかすでに理解してしまったのかもしれない。
「えっと、ソアラ。もしかしてあなたの言っているだらけたおじさんというのは、あなたの出会った神様のことでしょうか?」
「残念なことにそうです。この世界を創ったのは自分だって豪語してましたけど」
ライオットの眉間に皺が寄る。初めの神とやらは、美化されすぎているというのが、私の感想だ。あれはそんな立派な人物ではない。
私の言ったことを受け入れられていない様子で、しばらく彼はぶつぶつと何やら呟いていたかと思うと、頭を振ったり天を仰いだりと忙しい。そこまで神様を崇拝しているのなら、私の言ったことなどただの戯言だと切り捨ててしまえばいいと思うのだが、彼は私のことを信じるとも決めているらしく、信教との板ばさみで苦しんでいるようだ。
そんなことが、先日あった。私が出会った神様のことは、他言しない方がいいでしょうねと、ライオットはげっそりとしながら弱々しい声で呟いた。
確かに、神様に会ったこと自体は信じても、神様――それも最高神っぽいのがそんなダメなおじさんだというのは、この世界の人々にとっては受け入れがたいかもしれないから、私は素直に頷いたものだ。
「魔石文明に興味があるみたいですし、発展特区に行ってみますか?」
数日経っているので、ライオットもすっかり元気を取り戻している。
神様の実態を告げたあの日は、数時間自室に篭って出てこなかったというのに。
理知的かつ上流階級のライオットですらこうなのだから、この世界の人々はずいぶんと信心深いようだ。
「発展特区、ですか?」
「はい。うちの事務所があるこのあたりも、区画整理で出来た比較的新しい土地ではあるのですが、ここは商業用の地区ですので、景観にはさほど気を払われていません。最近になって開拓が終了した郊外の土地があるのですが、その一帯を国が発展特区に指定しましてね」
何気なく差し出された手を握ると、ライオットは歩き出した。
はぐれるといけませんから、とライオットは言っていたし、その通りだとも思うのだが、日本で暮らしていたころの常識を引きずっている私としては、異性と手を繋いで歩くのは少し気恥ずかしい。
この世界では男女が手を繋いで歩くのは普通のことなのだろう。早く私も慣れなければいけない。
ライオットは私よりも頭一つ分は身長が高かったが、私に歩幅を合わせてゆっくりと歩いてくれているのだろう。急かされずにのんびりと歩きながら、私は街の景色や行き交う人を物珍しげに観察することができた。
「発展特区は、最先端の魔石技術を使った建物が多いですから、きっと楽しめると思います。ただ見て回るだけでも、飽きませんよ」
そうまで言われては、期待せずにはいられまい。異世界の最先端文明とやらを見せてもらおう。
ライオットと手を繋ぎながら、道行く人々の服装を眺める。男性は一枚布を身体に巻きつけたトーガ、女性はワンピースタイプの簡素なドレスを身につけた人が多い。かくいう私も、入社祝いとして買ってもらったクリーム色のドレスを身に付けている。装飾やフリルの少ない、シンプルなドレスだ。
作業服しか持っていない着のみ着のままを哀れんで買ってくれたのだと思っていたので、雑用の日当として渡された給料の中から代金を返そうとしたが、断られてしまった。ライオット曰く、もう買ってあげたものだから、返そうとするのは失礼だよと言われては、引き下がるしかない。
なお、ドレスのような派手な服を着ることに抵抗はなかった。
道行く人々にドレス姿が多かったため悪目立ちするということがないし、銀紙のような色の鏡で見たところ、前世の黒髪黒瞳ではなく、私のポニーテールは鮮やかな栗毛に、瞳は茶色に、皮膚は白人のように白くなっていて、ほんの少しだけ鼻が高くなっていたりと、顔つきも少しだけ変わっている。
後ろで縛っていた髪を解けば、中世ヨーロッパ風の町娘に早変わりだ。
この白人めいた容姿と、淡いクリーム色のドレスは、我ながらよく似合っていると思う。
「そういえば、昼御飯がまだでしたね。屋台で何かつまんでいきましょう」
空腹は自覚していなかったが、昼御飯と聞いた瞬間にお腹の虫がきゅうと鳴いた。ライオットに聞かれはしなかったかと焦り、頬が熱くなった。
「ごめんなさい、大食いで」
私は小声で詫びる。
成長期である十三歳の身体は、食べても食べてもお腹が減る。シュテファンおじさまに連れられて初めて自宅――カナン商会の事務所に訪れた日に、親睦会を兼ねて晩御飯をライオットが作ってくれた。
バターライスと煮込んだビーフシチューの晩餐だったが、転生してから何も食べていなかったこともあり、並み居る社員たちの前で私は二杯もおかわりしてしまった。しまいには健啖っぷりを拍手されてしまうほどだった。
私には赤面性の気があるので、きっとそのときも顔を真っ赤にしていたことだろう。
「恥ずかしがることはありませんよ。その年頃ならみな、そういうものです。気持ちの良い食べっぷりでした」
ライオットは爽やかに微笑む。口調に揶揄の響きが一切ないのがありがたい。
初めての食事会以来、ライオットは毎日料理を作ってくれるようになった。
それまでは、事務作業の手の空き具合というのは従業員の一人一人で異なってくるために、あまり厨房は使われていなかったのだという。電子レンジのないこちらの世界では、冷えてしまった食事を温めるのにもいちいち火を熾さねばならず、一人前の食事を摂るためだけに作火石で薪に火を移し、その火力調整をしつつ鍋を温めるのは手間と時間がかかりすぎるため敬遠されていたらしい。
夜の七時に全員が手を空け、揃って食事ができるようにと、わざわざ全従業員に通達してまで、ライオットは食事の時間を作ってくれた。大食いの私は、外食では支出がかさみすぎてしまうのではと気を使ってくれたのかもしれない。
余談ではあるが、ライオットの料理の腕前は素晴らしかった。
何かお手伝いしましょうか、と声をかけるのも躊躇われるほど、手際よく調理をしていた。料理など家庭科の調理実習ぐらいでしかやったことのない私としては、ボロが出ずに安堵したものである。
男性陣が外で働き、女性陣は家を守るものという風習は、この世界にも存在するようなのだ。
「あ、何でしょうねこれ。いい匂いです」
広い首都には東西南北四つの区画があり、その区画一つ一つの中に商店街や職人街などがある。
私たちが今歩いているのは、カナン商会の事務所がある西区の商店街のさらに一角、屋台通りである。
自宅に調理器具を持っていない庶民の食生活を支える台所であるところのここ屋台通りで、今までに嗅いだことのない美味しそうな香りが私の鼻腔を襲撃した。
「コンスタンティ家の揚げ鳥――?」
多くの人が足を運ぶ屋台通りの中でも、その店には一際長い行列が出来ていた。
年季の入って色の落ちた、馬車の幌のような天幕を張った屋台や、木棚や編み籠の上に簡素な屋根を付けただけの屋台が多い中で、行列の出来ているその屋台だけとても立派である。
普通の屋台四個分ほどの広さの土地に、艶やかな丸太を形良く組み上げたようなログハウスの店だ。そう、もはや屋台ではなく、店と呼ぶべき大きさである。
屋台の中には店員が四人もいて、うち三人が行列に並ぶ客を手際よくさばいている。
「実は私も気になっていたんですよね。つい先日出来たばかりの店らしいのですが、美味しさと安さで評判なんですよ」
へえ、と上の空で相槌を打ちつつ、私はごくりと生唾を飲み込む。
「珍しいですね、作り方の詳細を載せる屋台なんて。普通は、他の店に味を盗まれないように、レシピは厳重に守るものなんですが」
見れば、コンスタンティ家の揚げ鳥、という銀の題字装飾の横に、美味しさのヒミツ、と題した架け看板が下がっていた。
「新鮮なヤシ油と豚脂を使い、柔らかい若鶏のみを使用してじっくり丁寧に揚げました。海藻から作った隠し味のうま味成分が後を引くこと請け合いです。冷めてもおいしいコンスタンティ家の揚げ鳥、ぜひ一度ご賞味下さい、ヤハウェ・コンスタンティ」
看板の内容を口に出しながら、私は聞きなれない単語に首を捻る。コンスタンティ家とは?
「ここ首都ピボッテラリアの統治を、王家から任されている貴族家です。冒険者ギルドや衛兵など、軍事系の実権は王家が握っていますが、首都の統治に関してはコンスタンティ家に一任されていますね。貴族様が商売を始めたというのも評判を呼ぶ一因になっているみたいですよ」
「本物の貴族なのですか? なんだか、庶民の商売に関わってくるなんて意外です。貴族って、大きな農園とかを持ってて、豪奢なお屋敷で優雅に過ごしてるイメージですけど」
「邪推したくなる気持ちもわかりますが、貴族様というのは、結構大変なんですよ? 他の貴族家と統治の方針を相談したり、それを布告したり、王家にお伺いを立てたりと。覚えなければいけない式典や礼儀作法なんかもすごく煩雑ですし。僕の実家というか、本家の方のカナン商会がコンスタンティ家と商取引をしていますが、その縁でお会いした貴族の方はみな、やり手でしたね」
そこまで説明してから、ライオットは声を潜めて、私の耳元で囁いた。吐息が耳にくすぐったい。
「とはいえ、コンスタンティ家の本家筋として振舞えるのは、当主から近い親族に限られますので、恐らくは何人もいる子供たちのうち、家を継げない末の方の息子とか、従兄弟なんかの遠い親族が始めた商売なんだと思いますけどね。貴族家の名前を騙るのは重罪ですから、未だにあの店が続いている時点で、本当にコンスタンティ家の縁者なのは間違いないでしょうが」
そこまで説明されて、私は得心した。というより、揚げ物の匂いに負けた。
ここまで行列ができるなんて、一体どんな味なのか、早く食べてみたくて仕方がない。
ちゃっかりと行列の最後尾に並ぶ私を見て、ライオットは苦笑する。
「話の種としては面白いでしょうし、美味しければ帰りに店のみんなにお土産として買って帰りましょうか」
ライオットの提案に、うんうんと頷く私である。
行列に並んでいる人々の中には、食事を持ち帰るためにの木の皿や、編み籠を手にした人もいた。なんとお店の方でも用意しているようで、大きなバスケットが一つで100ゴルド、揚げ鳥を十個以上一度に買えば、無料で一つくれるらしい。
「すごいですね、持ち帰り用のバスケットまで売るなんて」
「商売人としては、すごい商才だと感心しますよ。私たちみたいに食器を持ち歩いていなくても、少し余分にお金を出せば持ち帰れるのなら、買ってしまえって思う人もいるでしょうし。まだ揚げ鳥自体を食べていないので何とも言えませんが、よくよく考えられていますねえ」
商人の血に火がついたのか、目を輝かせながらしきりに感心するライオットである。
店員の手際がいいせいか、それとも三列で並ばせているせいか、太く長く見えた行列は見る間に人を減らしていった。長々と待つことも覚悟していたのだが、意外にもさほど待たされず、私とライオットの番になる。
女性店員の制服も可愛かった。黒地のワンピースに、エプロンドレスと、お揃いのカチューシャ。笑顔を絶やさない店員を眺める男性たちの視線には、熱いものも混じっている。
「ソアラは、三つぐらい行っておきます?」
ライオットの声に我に返り、慌てて胃袋と相談を始める。客と応対する店員は三人とも女性だったが、彼女たちの前には揚げ鳥が山盛りにされた銀のトレーが置かれていて、抗い難い揚げ物の香ばしい香りを放っていた。
一つ一つの大きさはケンタッキーのそれと同じぐらいで、この世界の料理として小振りな範疇であるが、値段を見て驚いた。どの部位であっても、一つ100ゴルドなのだという。コイン一枚でお手軽に食べられる価格設定だ。
たとえ味が悪かったとしても、この値段で肉料理の揚げ物を出せる店はまずないだろう。それでいて、すでに商品を手にした他のお客さんの表情を見る限り、味もきっと良いのだ。
「よ、四つで」
小声で呟いてみるも、しっかりライオットは聞き取ってくれていたようで、二人分の注文をしてくれる。頬が赤くなっているのが自分でもわかっているが、三つだと少し食べ足りないだろう。
本当は五つでもいけてしまうのではないかと思っていたが、そこはぐっと我慢である。
かしこまりましたあ、と明るい声とともに、店員の女性は銀のトングを取り出して、山のような揚げ鳥のトレーから一つをつまむ。
笹の葉っぱのような、一メートル近い立派な葉っぱに揚げ鳥を乗せていき、円のようにくるりと丸めたかと思うと、葉っぱの両端を持って店員は揚げ鳥を差し出してくる。
この丸めた葉っぱの頂き、葉と葉の重なった部分を持てば良いようだ。
「落とさないように気をつけてお持ち下さーい」
店員の声に見送られ、私とライオットはそれぞれ手に葉の容器をぶらさげながら、店を後にする。
「冷めないうちに食べてしまいたいですね。そこの店に入りましょうか」
言いつつ、ライオットは手近な喫茶店に足を向ける。オープンカフェスタイルの、日傘に机と椅子が何組か用意してあるだけの簡素な店だ。椅子や机が少し薄っぺらいように感じてしまうが、これも驚いたことに屋台の一つで、いざというときには椅子も机も折りたたんでしまえるので、荷車に積み込んで屋台を丸ごと持ち運べるのだという。
「珈琲を二つ。牛乳はいる?」
聞かれたので、私は頷く。コーヒーをブラックで飲めるほど、私は大人ではない。
私がこの世界に来て驚いたことは数多くあるが、そのうちの一つが、このコーヒーの存在である。地球では割と最近になって飲まれるようになったと聞いたことがあるが、この世界では昔から親しまれた飲み物だそうだ。他には液体状のホットチョコレートを扱う屋台もあり、嗜好品には事欠かない。
うちの豆は毎朝焙煎しているからね、と柔和な笑みを浮かべるおじさんの店主が、挽いたコーヒー豆の粉を入れた陶器のコップに熱湯を注いでいく。たちまち、コーヒーの香りがあたりに広がった。あとはこれを金網のようなザルで濾して完成らしい。
さすがにコーヒーフィルターはないので、どうしても細かな粒が残ってしまうため、飲み終わるときに底の方を少し残すのがマナーというか、主流なんだそうだ。
「ね、食べていい?」
待ちきれなくなったので、上目遣いにライオットに聞くと、苦笑しながら彼は頷いた。
笹のような葉っぱの包みを開くと、揚げ鳥は出来たてというわけにはいかなかったが、まだ温もりを残していた。目の前で調理していたわけでもないのに、この温かさは驚きである。
私はあんぐりと大口を開けて、脚部分の肉に噛みついた。
ざくっ、とぱりっ、の中間のような音を立てて、かじりついた部分の肉からじゅわっと肉汁が溢れでてくる。ここまでジューシーだとは予想していなかったので、肉汁が口元からこぼれてしまい、私は大いに慌てた。
私が懐布を取り出すよりも先に、ライオットが懐からハンカチを取り出して机を拭いてくれる。まだ鶏肉が口の中に入っている上に右手にはチキンを持っているので、私は空いた左手でごめん、と空を切った。
「気を付けた方がいいよ、ライオット。すっごく肉汁たっぷりだから」
「ええ、見ていればわかりました。ひどい慌てっぷりでしたから」
苦笑というか、うつむき笑いをするライオットである。ぼんっ、と一瞬で顔が茹だる。
そんな私の姿を見て、話題を変えようとしてくれたのか、彼も揚げ鳥を口にして、驚愕に目を見開いた。
「これは、すごいですね」
言外に、この味が100ゴルドでいいのか、という響きがあった。
「すごいよね、これ」
私も、賛意を示す。これまで食べてきたこの世界のどんな料理よりも美味しい。いや、下手をすれば地球で食べてきたものよりも美味しいかもしれない。少なくとも、ファーストフードのチェーン店やコンビニで売られているようなフライドチキンとは一線を画する味わいだった。
まず、かなり冷めてしまっているのに、皮はぱりっぱりで香ばしい。私が思わずこぼしてしまったことからもわかるように、肉汁もたっぷりだ。塩と胡椒、あとはよくわからないが香辛料の効き具合が絶妙で、肉にかじりつくと舌の上で旨味が爆発するように広がる。
特筆すべきは、料理の仕上げの見事さだ。日本のファーストフード店でもそうだったが、ぱりっぱりの衣を目指すと、どうしても衣は薄くなってはがれやすい。衣を厚くすると、油を吸いすぎて重たくなる。衣のはがれたチキンの見た目の残念さといったらない。
しかしこの揚げ鳥は、程よい厚さの衣で、冷めてもぱりっぱりであるにも関わらず、余分な油をほとんど吸っていない。油ではなく、純粋な皮の旨味が楽しめるのだ。
私は育ち盛りということもあり、しつこすぎない程度であれば油っぽいものは好きである。しかし、私の両親はもはや歳だから、などといって、あまり重たい揚げ物を好まなかった。
これは、そんな両親であっても喜んで食べるだろう軽やかな揚げ鳥である。あっさりしているとまでは言わないが、鳥があまり油を吸っていないので、揚げ物としてはくどくない仕上がりなのだ。
「はっ!?」
ことり、と珈琲のカップが置かれた瞬間、私は我に返った。
気がつけば、黙々と三個もの揚げ鳥を食べてしまっていた。手元に残っているのはわずか一つである。
またしてもすごい食べっぷりですね、などとライオットに揶揄されてしまうと思いきや、ライオットも黙々と揚げ鳥を食べ進めていた。美味しいものを食べたとき、人は無口になるのである。
「すごいなあ、これ。この質の料理を100ゴルドで売って、儲けは出るんだろうか。油もすごい上質だし、衣の付け方とかや熱の通し方も完璧だし、腕の良い料理人を雇ってるのかな? 薄利多売で利を出すにしろ、限度がある気がするが――でも、店の外装からしても商売を知っている人が手がけてるみたいだし、利益、出るんだろうなあ。ううん、不思議だ」
どうやら私とは違って、食事の味ではなく、商売の方に興味を持ってしまったようである。
ライオットは眼鏡をかけた涼しげな男性という第一印象の通り、紳士的な人ではあるが、商売のことになると目元がきりりと引き締まって真顔になる。料理をしているときもそうだったが、一度物事に没頭したときの集中力はすごいのだ。
「ああ、失礼。食事の途中でしたね、僕としたことが」
ライオットは公私の区別はしっかり付ける人のようで、事務所にいるときは自分のことを私というが、外での一人称は僕である。
「これを考えた人にお会いしてみたいですね。この流行り具合でしたら、二店舗、三店舗目もすぐでしょうし、カナン商会として食い込める余地があれば取引相手にしたいものです」
噂をすれば影が差す、というが、ライオットの台詞が皮切りになったのか――人々がざわつきだす。
一体何事かと人々が指差す先に目をやれば――料理帽らしきものをかぶった若い男性が、こちらの方へと空を飛んできていた。
(うわあ、ほんとに人が空を飛んでる)
両手に何やら金属の箱のようなものを持ちながら空を飛んできた彼は、先ほどの揚げ鳥を売っている店のそばに降り立つと、勝手知ったるといった風に裏口から店に入っていった。ここからでも、その様子が遠目にわかる。
店の中で彼が金属の箱を開けると、それぞれ三段になったトレイが入っており、その上には出来たてと思しき揚げ鳥が湯気を立てていた。どうやら、揚げ鳥はあの店で作っているのではなかったらしい。
「風属性魔法の浮遊――属性級の高位魔法です、あの歳で使える人がいたなんて」
半ば呆然としながらライオットが呟く。どうも、空を飛ぶというのは凄い魔法らしい。確かに、日本だったらほんの高校生ぐらいにしか見えない、幼さの残る顔つきだった。
日本だったら――?
いくつかの符号が重なる。弾かれたように、私は彼を凝視した。
今まで気づかなかった自分はどうかしていると思った。この揚げ鳥は、この世界の原住民であるライオットすら驚くほどに規格外の料理だったではないか。フライドチキンのファーストフードは日本でもありふれたものだし、それに、店員がしている服装はいわゆるメイド服というものであろう。
この価格でどうやって商品を提供し、利益を上げているのかわからないと言ったのは、いわばプロの商人であるライオットだ。それほどまでにこの揚げ鳥は異常なほどに質が高い。何らかの秘密やからくりがなければ、実現できないほどに。
そう、例えば――神様から貰った、特典スキルといったような。
【種族】人間(転生者)
【名前】ヤハウェ・コンスタンティ
【レベル】77
【カケラ】1
パブリックステータスを見ることにも、すっかり慣れたものである。
彼は――果たして、同郷の転生者であった。
「ライオット」
難しい顔で店の方を凝視しているライオットに、私は囁くような声で告げた。
「あの人、私と一緒だ。転生者だよ」
私の台詞に、ライオットは心底驚いたといった体で目を見開いた。私を見る目が、今までとはまるで違っている。真剣な、強い眼差しだ。
「ソアラ、あなたでもああいった店を作れるということですか?」
少し考えて、私は首を横に振った。ファーストフード店の真似事なら、私でもできる。しかしこの味わいは、私には出せない。
「ううん、恐らく私ではダメだと思う。元いた世界の商売を参考にして、似たようなものなら作れるけど、味がどうしても及ばない。きっとあの人、神様から料理の特典スキルを貰ってる。そうじゃないと説明が付かない」
私は自衛のために、戦闘系のスキルしか貰っていないから、と聞くと、腕を組んでライオットは考え込んだ。もう、笑顔なんて浮かべていない、鬼気迫るような真顔だ。
「それに私は、自分のためには特典を使わないって決めているから。もし私にも同じようなことをさせようとしてるのなら、ごめんなさい」
「違います、ソアラ。そうじゃないんです――」
口を開いたライオットが全てを言い切らないうちに、それは訪れた。
ぐらり、と世界が揺れた。
がたがたと、コーヒーの入ったコップが揺れる。机も、日傘も、空いている椅子も、道を歩いている人も、数多く並んだ屋台たちも、すべてが揺れていた。
「地震――」
私は机にしがみつきながら、口の中で呟いた。日本にいるころは慣れっこだった、地震。こっちの世界でもあるなんて、聞いていない。
しかし、様子がおかしい。道行く人々は、悲鳴を上げて逃げ惑っている。体感だと、震度四強ぐらいだろうか。そこまで大きい地震ではないというのに、街の人々のオーバーリアクションは、見ているこちらが引いてしまうほどだ。
慌てて走って転ぶ人、机の下に隠れる人、道端にうずくまって何かに祈る人、泣き叫ぶ人。一体何が彼らをそうさせるのかというほど、人々の狼狽は凄まじい。
ほんの二十秒ほどで、地震は収まった。付近で多少なりとも物が落下したりはしたようだが、家が崩れたりするような気配はない。まずまず、落ち着いたというところだろう。
ふとライオットの顔を見ると、彼の顔も真っ青になっていた。その様がちょっとおかしくて、私はふっと笑ってしまう。
「ライオットももしかして、地震が怖いの? みんな、すごい驚き方だったね」
面と向かってからかわれるようなことはないが、いつも赤面してばかりいるのは私の方なので、ちょっとした意趣返しも兼ねて、いじわるそうににやっと笑ってみる。
しかし、ライオットはそんな冗談に付き合っている暇はないとばかり、切迫した声色だった。
「この世界には、自然に起きる地鳴りなんてありませんよ」
「へ? じゃあ何で今――」
私の台詞を、途中でライオットは遮った。すでに椅子からは立ち上がり、いつでも走り出せるようにと身構えている。私も半ば強引に手を握られ、立ち上がらされた。
「これは、攻撃魔法です。それも、土属性の最上級魔法による、攻撃です」
ライオットが余裕のない声で説明をするのと、やや遠くの広場から黒煙が立ち上るのが、同時だった。