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盤台哲雄 1

 仰向けに寝転がった僕の正面には、鮮やかな空の青。

 僕を覆わんとする、たくましい翠色の雑草。

 半身を起こせば、周囲三百六十度に広がる、野放図な原生の草原。


 僕が眼を覚ましたのは、そんな場所だった。


「そっか。転生したんだったな」


 転生する街は、自分で選んで良いらしい。

 七つの候補地のうち、僕が選んだのは草原の街だ。


(首都はいかにも人が集まりそうだしね。転生者同士の揉め事はごめんだ)


 僕の目的は、紅葉切と落ち着いた日々を過ごすことである。

 魔物を倒すことでお金が稼げるらしいので、紅葉切の切れ味を楽しみつつ生計を立てられたら言うことなしだ。


 僕は立ち上がって、ワイシャツに付いた枯れ草を払おうとして――僕の懐にある、一本の短刀に気が付いた。


 黒漆の鞘に、金蒔絵で紅葉の絵が擦り込まれた、刃渡り八寸の懐刀。

 

 ベルトに差し込まれたそれは紛れもなく、前世において僕を絶命させた、愛刀の紅葉切だ。


 思わず、顔がにやけてしまった。我慢しきれず、声をあげて笑い出す。

 

 紅葉切の、きめ細やかな地鉄を思い出すと、刀身を眺めたいという欲望を抑え難くなった。いそいそと紅葉切を鞘から払おうとして――僕の両手が、草の汁で汚れていることに気が付く。

 

 僕はため息を吐いた。汚れた手で紅葉切に触るなど、論外だ。


「手を洗いたいな――」


 立ち上がってから改めて周囲を見回すと、遠くに壁が見えた。左右に大きく広がる、巨大な石の壁だ。歩いて二十メートルほどの場所には何の舗装もされていない、踏み固められた土の道もある。それは、石壁の方へと続いていた。

 あの壁は、もちろん人工物であろうから、壁を越えた向こうには人が住んでいるに違いない。


「なるほど。あれが草原の街、グラスラードか」


 出発地点が街の中になるのか外になるのか、神様は言わなかった。聞かなかったから答えなかったのだろう。僕の出発地点は、街までの道を見失いようもないこの草原というわけか。


「まあ、行ってみようか」


 僕は粗末な道を歩き出した。草原の真っ只中を通る、幅にして二メートルもなさそうな細い道だ。ところどころ石が露出していて、馬車などの通行に耐えるとは思えない。


 道すがら、自分の状態を確認した。

 紳士服の量販店でネクタイ付き二着セットで購入した、長年着ている安物のワイシャツ。百円ショップで買った、すぐに壊れる安物のベルト。夏物スーツのズボン、通勤用の革靴。これだけだった。


 ガラケーと呼ばれて時代遅れと見なされていた愛用の携帯電話も、大事に使っていた人工革の長財布も、管理費込みで家賃二万五千円のボロアパートの鍵も、何一つポケットの中には入っていない。空だ。

 

 着のみ着のまま、持ち物は紅葉切だけ。そんな人生の始め方も、悪くない。


 考えてみれば、ここ数年は常に借金を抱えているような気分だった。

 紅葉切を買い、節約生活が終わったところで、駆け足で僕は自殺してしまったので、こんなに伸び伸びとした気分で散歩を楽しむなど、本当に久しぶりだ。


「大きな壁だな」


 近づくにつれ、木々で遮られて見えなかった街の外観がはっきりと見えてくる。


 真っ先に僕が思い出したのは、学生時代に世界史の教科書に載っていた万里の長城だった。あれは森や丘の頂に作られていたが、この城壁は平地に建っていて、高さが横一列に綺麗に揃っている。


 それは、城壁と表現できるほどの威容だった。壁の高さはさほどでもなく、せいぜい十メートルほどであるが、問題はその長さである。左右にどこまでも伸びている城壁は、もやで霞み、果てが見えなかった。


 兵士らしき人物が僕の歩いて来た方角、つまり外側に向かって立っている以上、やはりあの壁の向こうは街であろう。恐らくこの長大な城壁は、街のすべてを覆い隠すように建っているのだ。


「まずいな、通行税があるのか」


 僕が歩いてきた道の先は、関所めいた門へと続いている。悠々と馬車が通れるほどの大きな門には、十名を越える鎧姿の兵士が立ち並び、列を成す人々から通行料を取っていた。彼らの持っている槍の穂先が、陽の光を反射してぎらりと輝く。

 

 六名の兵士が、横一列に机を並ばせ、硬貨らしきものを一人一人から受け取っている。残りの四名の兵士は、城門をふさぐように立っていて、支払いの終わった者だけを通していた。


「綺麗だなあ」

 

 僕の視線は、兵士たちが持っている武器に吸い寄せられた。


 下っ端の兵士が持っているということは、量産品の、安物の槍なのだろう。十文字槍のような鎌刃の付いていない、本当にただ刺すだけの直槍だ。穂先も短く、全長は150センチほどで、分類としては短槍になるだろう。


 しかし飾り一つない無骨なそれは、博物館に展示されているような大名道具とは違う、日常的に使う刃物としての存在感があった。思わず顔が綻ぶ。


「おっと、つい見入ってしまった。あの関所をどうするか考えないと」


 一番最初の選択として、あの街に入ることを諦めるかどうか。

 あの街に入ることにしたならば、合法的に入るか不法侵入するか。

 合法的に入るのであれば、金銭をどのようにして用意するか。

 身分証明が必要かどうか、もし必要ならばどのようにして誤魔化すか。


 街に入るというただそれだけで、これだけの悩みが出来てしまう。なるほど、出身選択という特典がわざわざ用意されているわけだ。何の変哲もない庶民の出身であっても、今の僕の立場よりは格段に動きやすいだろう。

 

 神様から貰った特典を使って、この状況をどうにか切り抜けられないか考える。

使えそうな特典は、闇属性魔法と身体能力強化ぐらいだろうか。


(無理、かな)


 少し考えて、僕はそう判断した。ここはレベル制の世界である。兵士たちは少なくとも、庶民よりはレベルが高く身体能力も高いだろう。ゲームで例えるならば、レベル1の勇者でしかない僕が、彼らから逃げ切れるとは思えない。不法侵入を試みて捕まったが最後、牢屋行きぐらいは覚悟しておくべきだし、この世界が現代日本のように犯罪者に甘いという保障はどこにもない。


 何より、僕は法に背くことが嫌い(・・・・・・・・・)だ。


「おや?」


 僕は一人の男性に注目した。遠すぎて何を喋っているかはわからないが、兵士の前で、言い訳をするような身振り手振りをしつつぺこぺこと頭を下げている。兵士も兵士で、やれやれといった表情だ。やがて、兵士は彼を連れて、城壁の外壁沿いにどこかに連れていった。


「多分、男の方は、金がなかったんだよな。そして、どこかに連れて行かれた。でも、牢屋にぶちこむってほど剣呑な雰囲気でもなかったし――別の場所で労働でもさせるのかな?」


 僕の予想が間違っている可能性もあるが、あの様子では、そこまで的を外してはいないと思う。少なくとも、手ひどい扱いはされなさそうなので、素直に金がないと申告するのも一つの手だと思えた。


「でも、街の中に入ったところで、金がなきゃ何もできないよなあ」


 食事をする。宿を取る。たったそれだけのことが、無一文では思うに任せない。では野宿をするかと自問自答するが、それも否だ。野外で水や食料を確保するのも、寝床を探すのも難しいし、魔物や危険生物の類と出くわさないとも限らない。それに、いつまでも野宿をしていても埒があかない。


 やはり、街の中で何とかして生活拠点を確保しなければならないのだ。


「行き当たりばったりだが、行ってみるか」


 この世界の常識がないせいで、どう行動するかという指針を立てにくい。情報を集めるという意味でも、やはりあの城門のところへは行かざるを得まい。まさかいきなり殺されはしないだろうから。


 僕は歩きながら、遠くの物がよく見えたことについて考えを馳せた。


 僕は目が悪い。近視である。


 にも関わらず、城門まで軽く百メートルはあったというのに、兵士の表情から顔の皺までがくっきりと見えた。身体能力強化とセットで取得した、視力強化の特典のおかげだろうか。


(メガネ、かけてるよな)

 

 自分の顔面に触れると、メガネの感触はあった。

 取り外してレンズの分厚さを確認したところ、驚くことに度が入っていない。


「伊達メガネか、これ」 


 つまり、今の僕は裸眼でこの視力ということになる。

 世界が一新されたかのようだ。物の隅々まで見える目というのは良いものだ。新たなメガネを買ったときの感動を、何倍にもしたような嬉しさである。


 うきうきしながら歩いていると、いつの間にか城門の前に着いていた。

 

 ざっと三十人ほどの列に並び、順番を待つ。一見するとただの無駄な時間だが、

僕にとっては情報を集めるための貴重な時間だった。


(魔物の死骸が、売れるのか。素材の買取は、街の中か?)


 街の外で魔物を狩っていたらしい、見たことのない生物の死骸を抱えている鎧姿の一団が、列に並んでいる。槍に斧が付いた長物の武器は、ハルバードだろうか。血糊を乱雑に拭いた刃先がぎらぎらと光って僕の心を惹きつけてやまない。彼らの持っている武器を凝視したいという欲求に必死で抗う。


 一方では、顔見知り同士らしい商人が二人、世間話に興じている。


「そういえば、光の日に護衛料を安くする冒険者ギルドの試みは、上手く行っているようですな」


「らしいですな。安息日に仕事がない冒険者への配慮から始まったそうですが、中々どうして、よく考えられているものです。わたしらみたいな小さな商人には休日なんて元々ありませんし、安く済ませられて願ったり叶ったりですよ。後を付いていく大手さんに事欠きません」


「いつか、たくさんの護衛を雇って先頭を行く身分になりたいものですなあ」


 だっはっは、と笑いあう商人たちの会話から、いくつかの情報を整理する。


(光の日が、日曜日みたいなものかな。護衛とかを斡旋する冒険者ギルドという集団がいる。多くの商人は自分で護衛を雇わず、護衛持ちの商人に便乗して移動する、ぐらいか。街から街への流通網もしっかりしてそうだ)


 僕の後ろにも、かなりの人数が並び始めていた。あと数人で、僕の番だ。

 

 しかし気になるのは、兵士たちが隣の兵士と目配せし合っていることである。先ほどまでそんな仕草はしていなかったし、何より先ほどから僕を見る視線が濃かったので、ワイシャツにズボン、ベルトというこの服装が彼らに不審を抱かせているのかもしれない。そういえば、紅葉切を懐に差したままでもあった。


「止まれ――手荷物だけか、500ゴルドだ。行っていいぞ」


 いよいよ、僕の前に並んでいた人物が街の中へと入っていき、僕の番になった。僕をこれから担当するであろう、列の中で一つだけ空いた机の若い兵士は、やけにどんよりした顔をしている。


「お付きの方や、馬車などはお連れですか? 通行料は500ゴルドになります」


「いえ、私一人だけです。お金はまったく持っていません」


 肩を落とす目の前の兵士が、僕から見えない位置で肩を叩かれているのがわかった。他の通行人と違い、僕のときだけやけに言葉遣いが丁寧であったのも不思議である。


「貴族様といえど、通行料をお持ちでない場合、一時間の労働をして頂かなければなりません。新たに作っている城壁の石を積む、かなりの重労働です。街の中に頼れる方はいませんか?」


 疑問が氷解した。この服装を見て、僕のことを貴族だと勘違いしているのだろう。何とか、この勘違いをうまく利用できないだろうか?


「街の外にも中にも、頼れる人はいません。家を出――いえ、旅をしてきましたので。労働ですか。興味がありますので、案内して頂けますか?」


 アドリブで言ったにしては、上手い台詞だと我ながら思う。嘘は吐いていないし、家出貴族だと思わせることができただろう。みるみる顔を青ざめさせる若い兵士であった。


「わかりました。では、こちらへ」


 持ち場の机を離れ、ゆっくりと歩きながら僕を先導する兵士である。

 さて、どこまで案内されるものやらと思っていたが――道から少し離れた木陰で彼は立ち止まり、懐をまさぐって、僕に一枚の硬貨を両手で差し出してきた。


「硬貨を持っていたことに気づかなかったということに致しましょう。今から受付に戻り、その硬貨を差し出して頂ければ、お通し致します」


「なんと、これはあなたのお金ではありませんか。このような恩を受けるとは――

いずれ返しに参ります。お名前を聞かせて頂いても?」


 わざと動作をゆっくりさせ、鷹揚に硬貨を受け取る僕であった。可笑しみを感じていたが、ここで笑い出してしまっては元も子もない。さぞ、感じ入っているかのように見せなければ。


「いえいえいえいえ、私のような兵士の名前など恐れ多いです。貴族様のお役に立てれば結構ですんで、お家騒動にはどうか巻き込ま――いえいえ、その、お気になさらずとも結構ですんで、はい」


 なるほど、面倒事に巻き込まれたくなかったというわけだ。僕の対応をつつがなく終わらせて、一刻も早く列に戻りたがっている素振りを見せる彼には悪かったが、残念ながら彼にはまだ用がある。


「ふむ、良くして頂いているついでで申し訳ないのですが、宿のあても、働くあてもないのです。読み書きができますし、魔法も少しだけ使えるのですが、私を働かせてくれる場所に心当たりはありませんかな?」


「ええええ、いきなりそんなこと言われても――いえいえ、失礼しました。ええとですね、少々お待ちください」


「難しく考えないで結構です。皿洗いや雑用など、仕事は厭いませんとも。寝食が確保できれば、それで良いのですが」 


(俺の顔が効く場所――行きつけの酒場――だめだ、あんな場所に連れてったら打ち首にされちまう――幼馴染みのあいつん家はだめだ、売れねえ――ごめんよ母ちゃん)


 聞こえていないと思って独り言を呟いているのだろうが、丸聞こえである。大丈夫かこの兵士。


「失礼しました。私の実家が、宿を経営しております。貴族様に泊まって頂くには粗末な宿ですが、そこぐらいしか私が紹介できるところがありません。それでよろしいですか?」


「構いません。あなたのご厚情に深く感謝致します」


 ぺこりと頭を下げると、いえいえ顔をお上げくださいと慌て始める兵士であった。







「おお」


 兵士の先導に従い、門を通って街の中に足を踏み入れると、街並みが視界に飛び込んできた。漆喰やレンガの壁で出来た三階建てほどの家々が立ち並び、道路はでこぼこしていない石畳である。

 きっちりと区画割りされて建てられた家々や、馬車が二台並んでも悠々と通れるほどの石の道。遠くには、先端の尖った教会のような建物も見える。ヨーロッパの街並みに似た、綺麗な街だった。


「貴族様は、グラスラードにお越しになるのは初めてで?」


「ええ。良いところですね」


「南の門からいらしたってことは、出身は首都ピボッテラリアですか? 50キロはあったはずですが、歩いてお越しになったのですか?」


「恩のあるあなたに、私は詫びなければなりません。出身は申し上げられないのです。道中は、親切な方に送って頂きました」


 うん、嘘は言っていない。神様に送ってもらってことには間違いない。


「私は恩知らずにはなりません。あなたのご実家に迷惑は決してかけませんので、ご安心下さい」


 力強く言い切る僕の台詞を聞いて、兵士は少しほっとしたようだ。


 会話もなく、そのまま歩くことしばし。僕は、兵士とは違う理由で、胸を撫で下ろしていた。もちろん寝床にありつけそうだというのも理由の一つだったが、それ以上に、道が清潔なのだ。

 ヴェルサイユ宮殿が実は糞便だらけだったという、特定世代の女性が知りたくなかったであろう事実もあるし、日本で育った僕としてはこの異世界の衛生面での懸念をしていたが、どうやらその心配はなさそうだった。

 ゴミが道端に散乱していたりしないし、異臭の類もしない、良い街である。


「着きました。外壁にレンガを張っていないんで見栄えは今一つですし、少々古い宿屋ですが、居心地のいい宿だと思いますよ――母ちゃん、ちょいといいかい」


 大通りから路地を二つほど曲がった細道に、兵士の実家である宿屋はあった。

 家々の隙間にこじんまりと納まった、年季を感じさせる控えめな宿である。ここまで来ると人通りはまばらで、大通りの喧騒もどこか遠い。


 入り口である飴色の木の扉には、呼び鈴がわりなのか、黒ずんだ鉄製のノッカーがついていて、横には石に文字を彫り込んだ看板が貼り付けられていた。放蕩息子の里帰り亭というのが、この店の屋号らしい。


「四代続いた宿屋なんですがね。おかげで、子供時代のあだ名はドラ息子でしたよ――ささ、どうぞ」


「あれまあいらっしゃい。むさい所ですが、よかったら」 


 扉をくぐり、店内に足を踏み入れた僕を出迎えてくれたのは、天然パーマで背が低い、初老のおばちゃんの笑顔だった。人を落ち着かせる湿った声に、わずかに弾んだ若さが残っている。


「母のパルマです。ドルタスによれば、旅をされている貴族様だとか――ええと、お名前は何と?」


「申し遅れました、テツオと申します。持ち合わせがなく、街の入り口で途方に暮れていたところを、彼に助けられました。ご厚意に甘えて押しかけてしまいまして、申し訳ございません」


「一人息子の連れてきた大事なお客様です。ある時払いで結構です、いつまでもお泊りください」


「それじゃあ、母ちゃん。俺は仕事中だから、悪いけどよろしく頼むよ」


 パルマの見送りを背に、ドルタス青年は駆けていった。城門の任務に戻るのだろう。


「ご覧の通り、一階は酒場になっています。お部屋は二階になりますので、足元ご注意なさってくださいね」

 

 宿の一階、酒場部分は小さいコンビニ程度の広さで、中くらいの木机が四つ、中央に置かれている。壁際にカウンターがあり、横倒しになった大きな酒樽がどんと二つ置かれていて、カウンターのすぐ横には暖炉があった。

 小さめの暖炉であるが、突っ込まれた薪がいまも細々と燃えている。カウンターの中が台所を兼ねているようで、いくつもの鉄鍋が置いてあった。この暖炉で煮炊きをするのだろうか?


「お足元、気を付けてくださいな。階段が急ですから」


 床も柱もすべて木製で、歩くと少し軋む。色々なところに細かな傷があり、この宿が重ねた年月を思わせた。


「こちらがこの宿の一番良い部屋でございます。お気に召しますかどうか」


 カウンターとは反対側の壁が階段になっていて、そこを上がった二階の一番奥の部屋に、僕は案内された。


 広さは十畳ぐらいだろう。明かり取りのために二箇所に窓がついていて、部屋の角には観音開きになるクローゼットが置かれていた。そして――


 いわゆる、天蓋付きのベッドが、部屋の中央にどんと鎮座している。


(これは、さすがに予想外だった) 


 思わず絶句する。表情に出さないようにするのが一苦労だ。 


 四つ足のベッドに屋根を付けただけで、余分な装飾や彫刻などはないものの、飴色の木目が美しい、どっしりとした天蓋付きのベッドである。大の字になっても手足の先がはみ出ないであろう。

 枕が二つ並んで置かれているので、本来は裕福な夫婦が泊まるための部屋に違いない。


「素晴らしいお部屋です。野宿も覚悟しておりましたのに、このようにお持て成し頂くとは」


 こんな部屋を僕一人が占有するのは恐れ多いぐらいだったが、今の自分は貴族ということになっているので、もっと安い部屋に変えてくれとも言い出しにくい。


「貴族様に泊まって頂くような部屋ではございませんのに、恐れ入りますわ。お食事は朝九時と夜十八時から前後一時間に、下の酒場へお越し頂ければお出しするようになっています。それ以外の時間でも、いつでも声をかけて頂ければご用意しますので、お腹がすきましたら下までお越しくださいな」


「重ね重ね、ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きます」


「一階の酒場には常連客しか参りませんが、時間帯によっては酔客もおります。この部屋は壁を厚く作ってありますが、お騒がせ致しましたら申し訳ございません」


「商いの邪魔は決して致しません。普段通りになさって頂いて結構ですので」


 お辞儀の後にパルマ氏が去り、部屋に一人残された僕は、椅子に身体を投げ出して一息ついた。


(第一段階、終了っと)


 最悪、どこかの店で雑用をして食事だけでも恵んでもらおうと思っていたので、

ドルタス青年の実家がたまたま宿屋だったというのは僥倖だった。詐欺に嵌めているようで申し訳ないが、有難く宿は使わせて頂こう。


(さて、第二段階は)


 もちろん、生活の基盤を作ることである。具体的には、魔物を退治して金銭を得る、ここまでのサイクルを軌道に乗せたい。これは急がねばなるまい。


 寝食がただというのは大きいが、人はパンのみにて生きるにあらずである。


 僕はそこそこ宗教について詳しいので、聖書本来の意味とは違う使われ方の言葉であることは知っている。日本人はそのあたりの来歴や宗教を細かく気にしないかわり、身の回りの品や衛生面には殊の外に気を使う民族なのだ。


 下着。着替え。風呂。歯みがき。最低でもこのぐらいはないとストレスが溜まるだろう。それらを手に入れるには無論のこと金が必要で、僕が金を稼ぐならば魔物を狩らざるを得ない。

 この世界の住民にどれだけ読み書きが浸透しているか次第では、代筆などの仕事に就く選択肢もあるが、せっかく戦闘用の特典をもらって異世界にやってきたのであるから、魔物の討伐で生計を立てるべきだろう。


(戦闘用の特典といえば――) 


 せっかく人目に付かない寝床を確保できたのである。紅葉切との精霊契約を済ませてしまうべきだろう。


 ステータスと念じると、何もない虚空にパソコンのブラウザ画面じみた窓が現れる。その中の精霊契約の欄をさらに開くように念じると、ツリーの詳細が表示された。



【精霊契約】――物体を媒介に精霊と契約し、使役するスキル。


 (契約コントラクト:消費MP25)

 (操作マニピュレイト:消費MP2/2分)

 (可視化ヴィジュアライズ:消費MP5/1時間) 

 (実体化マテリアライズ:消費MP4/2分 戦闘時は消費量増大)

 (物質化オブジェクティブ:消費MP1)

 

 いくつもの呪文名が並ぶ属性魔法の欄と違って、たった五行だけのシンプルなスキルである。僕の最大MPは補正値込みで28だから――うん、契約できる。

 さらに詳しいやり方を知るべく、契約という項目を開く。


 (契約:消費MP25)――精霊契約の媒介となる物品に触れ、マナを流しながら契約と唱える。


 早速やってみよう。ご丁寧に机の上には水を張ったフィンガーボウルと布が用意されている。丹念に、手垢をこそげ落とすように濡らした布でがしがしと擦り、水分を丁寧に拭ってから、僕は鞘に入ったままの紅葉切を手に取った。


『魔法の使い方は簡単だ。魔法名を思い浮かべると、身体をめぐるマナが特定の箇所に集まっていく。例えば火弾ファイアボールだったら、両手の先にマナが集まっていくのが体感でわかるはずだ。集まりきったら、魔法名を宣言することで詠唱が完成する』


 神様の助言を思い出しながら、僕は頭の中で、契約、と唱える。

 すると、今までは特に意識をしていなかった、身体を巡っていた血液のようなものが――どんどんと僕の両手から紅葉切へと流れこんでいく。まるで血を吸われているような感覚だ。

 失血と違って、身体がだるくなったり精神的に不調になるようなことはないが、身体の中に元々あった何かが急速に失われているのはわかった。これが、マナなのだろう。


 僕の中のマナが紅葉切にどんどん流れこんでいき――空っぽになる寸前で、ぴたりとマナの流れが止まった。これは、詠唱の準備が終わったということだろうか。




契約コントラクト




 ぼそりと僕が呟いた瞬間、鞘に入ったままの紅葉切が、眩しく輝いた。

 明るい光は、何も見えなくなるほどに部屋中を白く染め――ややあってから、その光は収まった。

 

「これでいいのかな?」

 

 あまりの眩しさに思わず尻餅をついてしまったが、光が収まった後も、僕の手には相変わらず紅葉切が握られている。特に、どこが変わったようにも思えない。契約自体は完了したはずだから、この後にスキルを使って精霊を呼び出せばいいのだろうか。


「ええと、それじゃあ――」


 可視化と実体化の二つがあるが、マナがほとんど空っぽの僕には、二分間に4というMP消費は大きいので、実体化は使えない。まずは、こっちから試すべきだろう。




可視化ヴィジュアライズ




 僕が言葉を発し終えるなり、紅葉切が再び輝いた。今度は先ほどよりも弱く、あたたかな光である。等身大の光がやがて収まった後には――少女が、立っていた。


 前分けにされた黒髪が、肩までさらさらと流れ落ちている。

 

 彼女は、和服を着ていた。紅葉色の小袖に、黒の羽織。小袖と合わせた紅葉色の帯を、ふっくらと蝶々結びに締めていて、真っ赤な楓の葉が一枚、帯に縫い取られていた。


「哲雄様」


 なめらかで、やわらかな、聞いている者を落ち着かせる声。

 彼女は、目尻に涙を滲ませながら、僕に語りかけた。


「わがままな女子で、申し訳もございませぬ。今ひと度――今ひと度でよろしゅうございます。前世の最後のお言葉、仰って頂けませぬでしょうか」


 前世の最後の言葉――あの安アパートで、紅葉切を天井に吊るして眠る前の、最後の言葉。


「何度でも言うさ」


 僕は言葉を切って、深呼吸を一度挟んだ。膝を揃えて、正座をし、深々と頭を下げた。


「紅葉切、僕と結婚して下さい」


 僕が頭を上げたとき、彼女は閉じた瞼から、一筋の涙をこぼしていた。

 彼女は三つ指をついて、やはり深々と、僕に頭を下げた。


「ふつつかものですが、末永くよろしくお願い申し上げます」

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