盤台哲雄 生前
盤台哲雄の死因は、自殺である。享年は三十二歳であった。
盤台哲雄は、刃物マニアであった。彼は、包丁の刃や、日本刀などを好んだ。そこまでであれば、ギリギリ趣味の範囲に含まれていただろう。
しかし彼は、異常人であった。
一点目の異常性は、手に入れた刃物の切れ味を、人で試したいという強烈な欲望を持っていたこと。
二点目の異常性は、刃物で他人を殺害した妄想を行うとき、性的に興奮する対象は刃物自身であったこと。
三点目の異常性は、彼には倫理感が欠落しておらず、それら法に反した行為を自ら戒めていたことである。
彼は、突き抜けていた。刃物に性欲を抱くことが頻繁にあった。
むしろ彼は、生まれてこの方一度も、生身の女に劣情を催したことはなかった。
例えば、見目麗しい妙齢の女性が全裸で横たわっていて、哲雄の手にはナイフが握られているとしよう。
哲雄の性欲は、女性には向かない。女性の喉をナイフで突き通し、その鋭い切れ味と手ごたえを感じ、血を滴らせる刃物自身にこそ、欲情するのだった。
彼が溜まった性欲を抑えきれなくなり、同級生を誰彼構わず刺し殺す妄想をしながら、通販で買ったボウイナイフの腹に彼自身をこすりつけて絶頂に達したのは、彼が十三歳のころであった。
以来、彼は自分が刃物を愛していることをはっきりと認識し、さほどの抵抗もなく受け入れた。
健常な男性にもどのような女性がいいかという好みがあるように、哲雄にも、刃物に好き嫌いがあった。
哲雄は、無駄のない刃物が好きだった。実用のために、長い鍛冶師の研鑽を経て洗練された刃物を愛した。日本刀などはその最たるものであったが、別にそれだけが好きなわけではない。海外の短剣やロングソードと呼ばれる武器だって、哲雄は愛していた。
ただし、武器として作られていない刃物には、さほどの愛着を抱かなかった。包丁やステーキナイフなどの料理器具や、農具として洗練された鎌などの刃物は、哲雄の性欲を刺激しなかった。
また、彼は過剰な装飾が嫌いだった。鞘ならばともかく、武器としての機能を損なわせる装飾を憎んだ。
刺し殺す妄想の対象は、誰でも良かったが、暴れまわる相手は好きではなかった。男女は問わず、動物でも構わなかったが、よりしっかり、ゆっくりと刃物を突き立てる感覚を味わうために、妄想の対象は専ら少年や少女、あるいは老人、拘束して身動きできぬ大人など、抵抗する術を持たぬ相手だった。
凶刃を突き入れてその手ごたえを感じるとき、彼は深い悦びを覚えるのだ。
弱者を虐げて優越感に浸ろうとする心情とは、少し違う。家庭環境は普通でいじめを受けたこともなく、哲雄の内に劣等感は巣食っていない。多少のサディズムは混ざっているものの、あくまで哲雄にとって愛を注ぐ対象は握った刃物であり、殺す相手は性欲の対象にはならなかった。
自慰行為というものは、年月を経るにつれより深い快感を得るべく進化するものである。どのようなシチュエーションを妄想しながらの行為がより深い喜びをもたらすか、実益を兼ねて哲雄は自分の性的嗜好を分析していった結果、一つの結論に達した。
身動きできぬ獲物を刺し貫いて刃物の鋭さを確認したとき、彼は自らの相棒とも言える刃物に深い信頼を抱く。それは、性欲とも直結する濃い愛情であった。男性としての彼と対になる女性として、刃物を見ているのだ。
生前、彼は自分の異常性癖がどういう名前と症状なのか色々と調べて回ったのだが、似たような例はついぞ見つけられなかったので、哲雄は自らの性癖に名前を付けた。刃物性愛である。
彼の最も賛美されるべき性質とは、自身の性癖が社会から忌避される類のものであることを自覚し、それを生涯誰にも明かさず、罪も犯さず、抱えきったことであろう。彼は孤独と欲望に耐えきり、前科のないまま死んだ。
彼が中年になり、社会人としてそこそこの年数を働いたころ、彼は会社を辞めた。
彼は、給料のありったけをはたいて、紅葉切の銘が入った短刀を買ったのだ。鍛えた刀匠の名はなかったが、出来映え、姿からしてほぼ間違いなく粟田口吉光の作であるという。
まさに一目惚れだった。刀が偽者かどうかなど、刀身を見れば彼には一目瞭然であったので、迷いなく銀行に駆け込み、ありったけの金を降ろしてきて、この刀を自分に売ってくれと刀剣商の店主に頼み込んだ。
根負けした店主が、取り置きを許してくれてから、数年はかかったが、とうとう彼は満額を払い終え、短刀を受け取ったのである。
短刀の値段は数百万であったが、全く惜しいとは思わなかった。数年間、粗食に耐え、服も買わず、生活はなるべく切り詰めた。その短刀が、ようやく手に入ったのだ。
しかし彼は、紅葉切で性欲を発散することを潔しとしなかった。触るのすら、躊躇うほどに彼は純情で、そして深く恋をしていた。
刀身を抜いて眺めるときも、息がかからぬようにマスクをし、金だわしで念入りに手を擦って清め、手脂が付かないよう布で包んでからおそるおそる抜いた。
彼は、その短刀を愛しすぎた。この短刀で死にたいと思ったのである。
現世において、彼の欲望が真に満たされることはない。どれほど強烈な性欲に苛まれていようが、人殺しを彼は忌避していた。性癖が異常なだけで、真っ当に生きてきた大人の社会人なのである。
しかし、この短刀で自殺をするのは、果たしてこの短刀の望むことであろうか?と彼は自問自答した。
贔屓目を抜いても、美術品として、高い価値を持つ彼女のことである。美術館などに飾れば、多くの人々の目を楽しませることができるだろう。彼自身はその行為を、公衆の面前でストリップを始めるような行為だと蔑んではいたが、短刀自身がどうなりたいかは、また別の話である。
彼は、答えを短刀に聞くことにした。自室の天井から、抜き身の短刀をぶら下げ、自分はその真下に寝た。
短刀は、刀身に巻いた、細い一本の紐だけで固定されている。もし俺を受け入れてくれるなら、短刀は自ら紐を切り、己の胸を刺して答えを示してくれるだろう。
紅葉切、僕と結婚して下さい。
声に出しながら、物言わぬ短刀に深々と頭を下げた哲雄は、布団もかぶらずに、刀身の真下で、寝た。
じっと刀身を見つめていたものの、なかなかに落ちてくる様子がなかったが、哲雄は待った。極度の興奮で寝付けなかったが、いつしか眼だけは閉じた。
夜半、哲雄は急に眼を開けた。刀が、彼に応えたような気がしたのである。
じっと彼が刀を見つめる中、地震も空気の揺れもないのに、紐を断って真っすぐに紅葉切は落ちてきた。わずかな落下距離でありながら、肋骨を避け、短刀は深々と哲雄の胸に突き立った。
哲雄は、歓喜した。己の皮を、肉を、内臓を、ほとんど何の抵抗もなく刺し通した短刀の鋭さと、己の気持ちが刀に届いた嬉しさに。
両親は、すでに他界して、親戚づきあいも希薄な男に、思い残すことは何もなかった。遺書だって、念入りに準備してある。安アパートの管理人には迷惑をかけることになるが、近々取り壊す予定の木造建築だし、そこは勘弁してもらおう。
哲雄は、満面の笑顔で死んだ。
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