@Miya
「じゃ、ここに署名して」
「うん……」
あたしはいつものように軽く言った。のだけど、今日は彼の反応がおかしい。
「どうしたの、了?」
「あ、いや、さ……」
了は曖昧な返事しかしなかった。
「?」
不審に思った私が口を開こうとした時、了が先に口火を切った。
「この署名活動止めない?」
「え?」
「……」
了は黙り込んでしまった。
「なに? どういうこと?」
あたしが問い詰めようとしたその時、彼の携帯が鳴った。
「ちょ、ごめん」
了はそう言うと携帯電話を持って、いそいそとワンルームマンションの外へ出た。
あたしはもの凄い不安に襲われて、ドア越しに耳をあてて会話を盗み聞きした。
うん、うん、と相槌を打っている。なんだか親しげにしている。悔しいかな、会話はとぎれとぎれにしか聞こえなかった。
「じゃあ、あとでな、ナオ」
最後の『ナオ』だけが聞きとれた。
どうやら電話が終わったらしい。
ドアを開け、了が悪びれもせず入って来た。
あたしは、渾身の力を込めて了を引っ叩いた。
「つっ! ……美也……」
了があたしを睨んだ。
「ナオ? って誰? 新しい人?」
「聴こえたの?」
「聞いたわ、しっかりと! 署名が嫌になったのも、その女のせい?」
あたしは、まくし立てた。
了は、ふうっと溜息を洩らすと、真面目な顔になった。
「落ち着けよ、美也。座れよ」
あたし達は取りあえず座った。
しばらく沈黙が続いた。
「美也……俺たち、付き合って二年になるけど、おかしくないか?」
「なにが?」
「美也が過去にもの凄い卑劣な振られ方した事は知ってるさ。だけど、そればっかりに振り回されたまま、この先やっていけるのかな、俺たち」
「署名が嫌になったの?」
あたしは酷い不安感に襲われた。
「だって、約束したよね? 了は裏切らないって。だから、今までも署名してくれてたんでしょ?」
「美也は履き違えてる。大切なのは『署名』のことなんかじゃない。君みたいに何かする時や、何かあった時、何でも誓約書を書かされて署名を求められると、俺ってそんなに認められてないのか? って言うか、自信が無くなって来るんだよ。俺に限らず男は疲れるよ」
そこまで言うと了はあたしから視線を外した。
「待ってよ、了。付き合う時に誓ったよね? あたしが前の男に浮気されて、しかも妻子持ちだったことが原因で恋愛が怖くなってしまったこと。それで嘘が嫌になってしまったこと!」
「分かってるよ。だけど、いつまでもそれに拘ってたら……苦しくない? そういう悪いことはなるべく忘れ去った方が良いんだよ。君みたいに『署名』という束縛でしか愛を確認できないってのは、切なくて、さ、見てられないよ。これだって意味分かんないよ」
了は机の上に置いてあったさっき渡した紙切れをひらひらさせた。
その紙切れは、あたしが書いたものだ。
『今から、タバコを買いに行って来ます』
と書いてある下には、了のフルネームと印鑑を求める印が記されていた。
あたしは黙り込んだ。
「これに俺が署名して出掛けたら、安心なワケ? じゃあ、署名を断ったらどうなるの?」
「……」
あたしは泣くことも出来ずに、黙ったままだった。
了の言葉はまだ続く。
「美也、人の心は操れないよ。君は本当に俺を愛してるの? それは愛なんかじゃなくて、署名をして、安心させてくれるだけの存在になっていないか?」
「!」
あたしはキッと顔を上げて、了を見据えた。
「あ……」
言葉が出ない。
「あたしは……了を愛してないワケじゃない。むしろ愛しいから不安なだけ。って、これってオモイ?」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
了はしばらく考えてから、
「重いよ」
とだけ言って、立ち上がった。
「何処に行くの?」
あたしの声は不安で震えていた。
「ちょっと、距離を置こう」
「え?」
あたしが訊き返した時、突然、インターフォンが鳴った。
あたしたちはドアの方を見た。
「メール便ですぅ」
やけに甲高い声で配達員が言った。
「あ、はい……」
あたしはドアを開けて、メール便を受け取った。
忙しかったようで、配達員は印鑑も求めずに去って行った。
「なに? 誰から?」
あまり興味もなさそうに了が訊いて来た。
「うん……あ!」
「どうしたの?」
驚くあたしに了が訊いた。
「これ、間違いだ。田山美耶さん宛てになってる」
「え?」
あたしの名前は田川美也という。
「同じ町内だけど、番地が違うよ。どうしよう」
あたしが困惑していると、了がため息交じりに言った。
「まずいよ、美也」
「え?」
「君、薄くなってる」
了が言った。
「うそっ! ヤダっ!」
あたしは自分を両手で抱きしめた。
「落ち着いて、さ。君は昂ぶると透明になってしまうから」
そう言って、了はあたしの手から封筒を受け取るとまじまじと見た。
「これ、速達だ! 中身は……どうやら指輪の様だぞ」
「え? そんな貴重品をなんで間違えるかな?」
あたしが言うと、了は言った。
「俺が行くしかないだろ」
「持ってってあげるの?」
「だって、これ速達だし、差出人の名前からして、きっと恋人かなんかだろ?」
「ホントだ」
差出人は男の人だった。
「じゃあ、あたしが行く」
「その状態で?」
あたしは鏡を見た。そこにあたしの姿はなかった。
「じゃあ、行くか」
「う、うん」
あたし達は、急いで出掛ける用意をすると、宛先に書かれた場所へと向かった。
そこは瀟洒な高級マンションだった。
「いいとこのお嬢さんかな?」
「了ったら!」
そんな会話をしながら、5階でエレベーターを降りると、あたし達は田山美耶さんの部屋を探し当て、インターフォンを鳴らした。
「はい」
透き通るような上品な声が聞こえた。
「あの……」
了が口を開こうとするのをあたしは遮って口を開いた。
「あの、私、田川美也と言います」
「タガワさん?」
女の人は訝っているようだった。
あたしは続けた。
「はい、同じ町内のマンションに住んでいるものです」
「はあ……何か?」
「実は今日、間違ってウチに田山さん宛てのメール便が来てしまって」
「まあ!」
「届に来ました」
田山さんは、確認のためか聴いて来た。
「どちら様からでしょうか?」
「えっと」
あたしは差出人の男性の名前を伝えた。
「そ! それは……!」
田山さんは急いでドアを開けて来た。
なので、あたし達は困ってしまった。
何故なら、声の主のあたしは透明で見えないので、了が応対するしかなかったから。
「キャッ!」
田山さんは了が立っているので、驚いたようだった。
「……幸雄君」
そう言うと田山さんはヘタっと座りこんでしまった。
「あのっ?」
了が心配すると、田山さんは思いもよらないことを話しだした。
「私は、田山さんじゃないんです。訪問看護師の内野と言います」
そう言えば、出てきた内野さんと名乗るこの女性は、制服らしい服を着た50代半ばくらいの女性だった。
あたしはと言えば、言い出す機会を完全に失ってしまい、黙って聞くことしか出来ないでいた。
「ごめんなさいね、余りにも幸雄君にソックリだから」
内野さんはそう前置きしてから不思議そうに訊いて来た。
「さっき名乗った田川美也さんとおっしゃる方は?」
咄嗟に了は答えに困ってあたしの方を見たけど、
「あ、すみません、ちょっと所用で帰りました」
なんとか頑張って答えた。
「そうですか」
「あの……」
困惑する了に内野さんは何かを決心したようで、
「実は、お願いがあります」
と、事情を話しだした。
話はこうだった。
田山美耶さんは、現在寝た切りの病で、視力も聴力も失った89歳の女性だという。
昔、田山さんが若い時に旦那さんが浮気をしたあげく、家を去って行った。
家に残されたのは、旦那さんが外した結婚指輪とお腹の中の子供、幸雄さんだけだった。
田山さんは一生懸命働きながら息子の幸雄さんを育て上げた。
けれど、その幸雄さんも母親の愛情に押し潰されるのが嫌で、田山さんの元を去ってしまった。
田山さんは、幸雄さんが家を出るとき、お金に困った時に、と、旦那さんが残して行ったプラチナの指輪を持たせたらしかった。
「常日頃から、うわ言のように田山さんがお話しされて、枕元には幸雄さんの出て行った時の写真が置いてあるの。
貴方は幸雄君にそっくりだわ」
そこまで言うと、内野さんはつらそうにうつむき加減になって続けた。
「田山さん、あとどれくらい持つか分からないの」
「それは……」
了は言葉に詰まってしまった。
内野さんは力を込めて言った。
「本当の幸雄君は何処にいるか分からないけれど、探し出す時間が無いの。だから……貴方、幸雄君になって田山さんに会ってあげて欲しいの」
「えっ!」
「大丈夫。田山さんは目も見えないし、耳も聞こえない。ただ……ただ、そっと手を握って、この指輪を渡してあげて、ね?」
内野さんは泣いていた。
「僕で良ければ」
なんと了は快諾したのだった。
あたしは了の方を見た。
了もあたしを見つめると、『大丈夫』とばかりに小さく目配せした。
あたしは心配ながらも、透明の姿のまま、了と一緒に内野さん案内され、田山さんの部屋へと入った。
部屋の中は内野さんの計らいだろう。綺麗な花が沢山花瓶に活けられていた。
ベッドのそばに近寄ると、気配を感じたのか田山さんが口を開いた。
「内野さん、今日はなんかそわそわするわ」
目はつむったままで、耳も聞こえない田山さんは一方的に話す。
「内野さん、今日はお天気が良い? それだったら肩を二回叩いて頂戴」
内野さんは、私達に目配せしながら、田山さんの肩を優しく二回叩いた。
「そう……」
安心したのか、田山さんは再び黙った。
内野さんの合図で了が田山さんの元に座り、田山さんの手を握り締めた。
その瞬間、了は何故か酷く驚いた。
すると、田山さんが口を開いた。
「幸雄……?」
了は静かに頷いた。
「幸雄ね? 私には分かるわ。貴方が家を飛び出したのは、25歳の時だったわね」
了はうんうん、と頷く。
「幸雄、母さんね、貴方には幸せで居て欲しかった。ずっと貴方の幸せばかり願って来たの。いつか、貴方がひょこっと素敵なお嬢さんを連れて帰って来てくれるような気がしていたわ」
了は泣いていた。
あたしも静かに泣いていた。
内野さんは居たたまれずに部屋の外へと出て行った。
「今頃、貴方はいい人を見つけて子供も大きくなり、孫だっているかもしれないわねぇ」
田山さんは続ける。
「幸雄は、何でも見通せる力を持っていたわ。きっと、今こうして会いに来てくれたのだって、母さんのことを見通して帰って来てくれたのね。ありがとう」
田山さんは休み休み静かに語った。
「母さんはね、もう長くはないの。だからといって、私に謝らなくてもいいのよ。私の愛情は変わらないわ。貴方が出て行ったことも、何もかも、恨んでなんかいないのよ。それがきっと貴方にとって一番良い選択だったと思うから。だから、裏切られただなんてこれっぽっちも思っていないわ」
そう言うと田山さんは優しい微笑みを浮かべた。
「人には色んな人生が用意されてるわ。一度や二度の裏切りなんて当たり前よ。前に進むには必要不可欠なことなの。だから、嫌なことは一度もなかった。むしろ、一度や二度の裏切りに縛られてしまっては、人生台無しだわ」
そこで、了は涙を拭きつつ、封筒に入っていた指輪を取りだして田山さんに渡した。
「まあ、貴方この指輪を大切に持っていてくれたのね?」
嬉しそうに田山さんが言った。
と、その時封筒の中から一枚のメモが出てきた。
了はひらりと舞ったメモを拾うと読み始めた。
「お母さん、お母さん、貴方に会えて良かった……」
了が読んでいるのが分かったのか、田山さんは涙を流した。
「幸雄……」
「お母さん!」
了が泣きながら言う。
「ありがとう、ありがとう、幸雄……」
そのまま、田山さんは眠ってしまった。
あたしは嗚咽を堪えながら泣いていた。それしか出来なかった。
あたしには、田山さんの気持ちが伝わっていた。
田山さんは、旦那さんや息子さんに去られても、恨んだり嘆いたりせずに前に進んだのだ。いや、そうしないと前には進めないのが、人生なんだよね。
あたしの心の中には、田山さんの声が響き渡っていた。
「眠ったようね」
背後から内野さんがあたし達に声をかけてきた。
あたし達はそっと部屋を後にした。
透明人間のあたしと了は手をつなぎながら歩いていた。
「美也が羨ましい」
「なんで?」
「透明だから」
「え?」
「君はいくら泣いても大丈夫だけど、俺はさっきから視線が痛いよ」
そこで、初めてあたしは気がついた。
「25歳の大の男が泣きながら歩いてると変じゃん?」
言われてみれば、すれ違う人々が後ろを振り返っている。
了は恥ずかしそうに下を向いていた。
「アハッ、大丈夫だよ、あたしがいるじゃん」
あたしは了の手をぎゅっと握った。
了もあたしの手を握り返してくれた。
あたし達は真っすぐにワンルームマンションに戻った。
二人して、しばらく静かに泣いていた。
沈黙を先に破ったのは了だった。
「美也は気が強いけど、案外鈍感なところがあるよな」
「え? どういうこと?」
「まだ気付かない?」
「なにが?」
「ダメだな」
一瞬、了は不敵な笑みを浮かべてから、私にキスをしてきた。
「二年も付き合って、全っ然、分かってないから、ほっとけない」
「?」
「俺には君が見える」
「だから?……あっ!」
あたしは大きく驚いた。
だって、だってあたし、今気がついた。
「美也は俺のこと凡人だと思ってた? そう、おれは君の全てを見てたんだよ。いかなる時も。田山さんの息子さんと同じく何でも見通せる」
「……気付かなかった」
「今まで俺たち何回キスしてきた? 君が透明の時でも、君の目を見つめて、ちゃんとキスしてたんだよ」
「そっか」
そうだったんだ。あたしは不覚だった。
今まで、彼のことを愛するあまり失いたくなくて、必要以上に自分のエゴで縛って来た。バカみたい、あたし。
あたしは急に田山さんの言葉を思い出した。
裏切られたって、前に進むことが大切だと。そして、人を信じることの大切さを。
そんなあたしを見てか、了が意外なことを言った。
「美也、田山さんは何もかも知ってたんだよ」
「えっ?」
「いや、幸雄さんのお母様だからね、多分同じ能力を持っている」
「ウソっ!」
「本当」
そう言って、了はタバコに火をつけた。
「目も耳も不通になってたけれど、全部見通してたのさ。もちろん美也のことも見えていたと思うよ」
「うっ!」
あたしは、あたしは不覚にも今気がついた。
田山さんは、あたしのことを見通して、それで語りかけてくれてたんだ。
あたしは激しく嗚咽した。
そこに追い打ちをかけて、一枚のメモを了が私に渡してきた。
「これは……?」
「封筒の中に入ってたメモ」
「!」
なんと、それは同封されていた指輪の鑑定書だったのだ。
指輪はプラチナではなく、鉛だったのだ。
あたしはもう何も言えなくて了に抱きついた。
了もあたしを抱きしめてくれた。
「了、よく言ってくれたね」
「でも、田山さんは全て見通してた。俺の言った嘘の言葉も」
「いいんだよ。それで良かったの!」
そのまま、あたしはしばらく泣き続けた。
「美也」
泣きっ面のあたしに了が話しかけてきた。
「美也は少し、考えが偏るところがある。俺は、今日、美也に最後の署名をしに来たんだよ」
「え?」
「これ」
「これは……」
「俺のところにはもう署名してあるから」
「……」
「美也も前に進もうよ」
「うん!」
あたしは心から嬉しかった。
彼はずっと生身のあたしのを支えてくれていた。なのに、あたしは……。
これからは彼のために進もうと思った。
もう、署名はいらない。
あたしはもう一度人を信じてみようと思った。
あたしたちはしばらくそのまま静かにお互いのぬくもりに身を寄せ合っていた。
結婚が決まった私は、第一に幼馴染の親友に電話した。
「サイ? あたし、美也! 来週そっち行くんだけど、会えない?」
あたしは浮かれていた。
あたしは本題は言わずに、早々に電話を切ると仕事に戻った。
あたしの仕事は、ショップの店員だ。
今日は了に頼まれて、大切なお客様が見えることになっている。
と、そこへ可愛らしい女の子が入ってっ来た。
彼女だ。
私は直感で分かった。
「あの」
どうやら、彼女も気がついたらしい。
「菜緒ちゃん?」
「美也さん?」
「はじめまして!」
あたし達は握手をした。
初めて会うのになんだか懐かしい感じがした。
「兄がお世話になってます」
「こちらこそ」
あたし達はすぐに打ち解け会った。
あたしは思った。
絶対、上手くいく。
あたしはもう、縛られることなく前に進める! と。
色々あって、人生なんだって、分かった。
怖いもの?
そんなの今のあたしには何もない。
あたしはただ、前に進むだけ!




