オラクル Ver. ヘラ -6-
アルが深くため息をついた。未練は大いにありそうだが、ショウに反対する気もないらしい。
「ちぇー、せっかくここまできたってのに……」
「仕方ないよ。さすがに放っておくのは、ちょっと」
「やめるって“オラクル”を?」
アヤノは散漫だった意識をあわてて引き戻した。
「どうして。それに、幻想症候群って」
「ちゃんとした医学用語じゃなく、ネットスラングなんだけどね。VR――ヴァーチャルリアリティにあまり長い時間浸りすぎると、ごくまれに、現実世界の記憶がぼやけることがあるらしいんだ。一時的な症状でログアウトすればすぐ治るって話だけど」
ショウはそこで息をついだ。
「とにかくね、アヤ。ここは“ゲームの世界”だよ。それはわかる? 思い出せる?」
言われてアヤノは目を閉じた。
ちくりちくりと頭が痛む。意識の底の方で、わずかに何かが動いたような気がした。
「今のこの姿は“アバター”、ゲーム内での分身だ。テオス・クレイスではプレイヤーの好みによって、顔から体型から、どんな風にもデザインできるのを売りにしてる。購入できる衣装や装飾もかなりのバリエーションがある」
「性別だって選べるんだぜ。男が女のアバターを選んだり、その逆だったりよ」
「そのアバターを介して仮想空間を体験するわけなんだけど。一応、連続プレイ時間が一定を超えると運営会社から注意メッセージが送られてくるはずなんだ。アヤはそれを無視したんじゃないの? それか気づかなかったか……ろくにルールブックも読んでなかったみたいだしね」
「は? ダメじゃん! ルールは守れよ、基本だろ!」
よりによってアルにまで怒られた。むっとして口を開きかけたとき、ふと、脳裏に浮かんだ名前があった。
「……あやの……」
「うん?」
「あやの。――“綺乃”だ、わたしの名前」
口に出すとすんなりなじんだ。間違いない、と思う。おそらくは。
と、ショウがほっとした表情になり、ようやく手を離した。
「本名でやってたってことか。とにかく思い出せたならよかったよ」
「あの、だから」
「じゃあ早く帰ろうか。ここに来る機会はまだいくらでもあるから――」
アヤノは1歩、うしろへ下がった。
「……やだ」
「え?」
「まだ、戻らない!!」
叫びながら駆けだした。
壁の向こうにはまだ敵がいる。まだ。
だから。
「戦わなきゃ……敵を倒さなきゃ……!!」
追いかけてくる呼び声は無視して、最終フィールドに飛び込んだ。
その瞬間、獣の咆吼が空気を震わせた。
「……こいつが」
ぽっかりと、円形の広場が広がっていた。そこで待ちかまえていたのは人の背丈の2倍ほどもあるイノシシだ。紫がかった土色の体毛を逆立て、巨大な牙をふりかざす。
アヤノは剣を構えた。まずは動きを見ること。それくらいは覚えた。
それと前後して、イノシシは前足で石畳を蹴った。
「!」
突進。犬よりも早い。アヤノは横に跳んで転がった。さっきの花の時よりは余裕がある。さらに転がって、離れたところで素早く身を起こした。
「――へー、なんだよ! 意外と上達してんじゃん!」
入り口にアルとショウの姿が見えた。2人は互いに目配せをして左右に分かれる。アルが撃った。イノシシは1度よろめいてからアルの方へ向きを変えた。
その隙をつくように、ショウがこちらへ駆けてきた。
「アヤ……!」
当然ながら何か言いたそうだった。しかし、結局言わずに軽くため息をつく。
「仕方ないから……ここは片づけよう。“仕方ない”から。ただし! 終わったら即ログアウトしてもらうからね!」
いつになく強い口調だった。アヤノはぐっと詰まり、「だって」と上目にショウを見上げた。
しかし、ショウはアヤノを見ていなかった。
小さく背筋が震えた。獲物を見据える青い目にはかすかな笑みが浮かんでいる。
「それから。サポートはもちろんするけど、ここは僕も本気で攻めにいく。せっかくの機会だし確実に仕留めよう」
「……」
「けっこう久々だな、こういうの。……“紋章”、獲るよ」
ふるふると頭を振り、アヤノも剣を握りなおした。
「当然!」
「おぉいお前ら!! もうそろそろ手伝えってー!!」
アルの悲鳴と共にイノシシが長く吼え、蹄を地面にたたきつけた。
と同時に、敷石が盛り上がった。その中央から細い円錐状の石が突き上がる。ドン、ドンッと地面が揺れた。わずかによろけたアヤノの目の前でもそれは突出した。
「これは真上にいなければだいじょうぶ。予兆もある」
「わかる」
「オーケー。それじゃあ――」
ダンッ
ショウが飛んだ。
アヤノには飛翔としか見えないような跳躍だった。そのまま空中で左手を振り切った。手元から光が走る。ダメージ表示が飛ぶ。あれはおそらく短刀だ。ショウと初めて会って、花から助けられたときを思い出した。
負けじとアヤノも前へ出た。まだ確定ではないが、どうやらこのイノシシは後ろ足に隙がありそうだ。回り込み、立ち止まったところを見計らって、水平に斬りつけた。