5匹目 豹変 - 消えゆく灯火-
6月23日6時
警視庁───
この日警視庁に、正確には全警察署に戦慄が走った。
四名本が意識不明のまま都内の病院に運ばれたのだった。
「すぐに現場の状況を報告しろ!! 所轄は昨晩現場付近で四名本を見た人がいないか聞き込みだ!!」
田沼の声が飛ぶ。
「現場ってどこですか!?」
所轄の刑事[青柴]が質問する。
「ここより北西に1㎞、4-81地点だ!! 私は病院に向かう!!」
田沼は後は任せたと言わんばかりに会議室を飛び出した。
こんなに落ち着きのない会議は久々だ、と1人の刑事が漏らす。
「行きましょう、[和木]さん」
先程の所轄の刑事が横に座っていたベテランの先輩刑事の腕を引っ張って出ていった。
病院前───
私はここで刑事の勘を感じとり、足が止まった。
刑事2人(井ノ部巡査長もこっちに転院していた)が入院しているにも関わらず、警備が誰もいない。
あまりにも静かすぎる。
「あれは……!?」
病棟を眺めていると血がついた窓を何枚か発見した。
私は拳銃を抜き弾を確認し、両手でしっかりと握り正面玄関から侵入した。
院内───
私は自分の目を疑った。
受付の女性2人は胸を引き裂かれている。脈を確認したが、遅かった。
私は物影に身を潜め、本庁に連絡を入れた。
「グォォォーーー………」
携帯を閉じた時、上の階から獣の雄叫びが響いた。
「いったい何が起きているんだ……!?」
院内をよく見渡してみると壁に獣の爪でできたような傷跡や銃弾の跡をいくつも見つけた。
階段の方に目をやると下半身を露にした男性(医師)が俯せに倒れていた。腹の辺りから血が広がっている。
「まるでゲームの世界だな」
額に溢れだす汗を拭い、私は静かに階段を登った。
院内の床や壁は常に紅く染まっている。
(ファンファンファン)
パトカーのサイレンが近づく。
私は2階への階段を登りきり、通路の様子を伺っている。
2人の刑事が入院しているのは3階だが1階の様子からして、私は何が起きてもおかしくない状況だと判断していた。
「ガァァ……!」
獣の声がさっきより近い。おそらくこの階にいる。
私は自分の警備を割き、1人で来たことを後悔していた。
(ファンファンファン!!)
そんな事を考えている間に仲間のパトカーが到着したようだ。
私は一度1階に戻ることにした。
パトカー内───
「何で神奈川県警の自分達が?」
俺は西川に異義を唱えた。
「本庁の刑事は出払っているらしいの。そこで病院に近い私達が呼ばれたの」
どうやったらこのメンバーがパトカーに乗るのだろう?
運転席に河浦、後ろに西川警視長と井川、助手席に俺。
井川は緊張のあまり顔色が悪い。
「到着しました」
河浦はパトカーを停めて誰にも気づかれないほど小さな溜息をついた。
「行くぞ」
西川は真っ先に車を降りて玄関に向かう。
俺達はすぐに後を追った。
「今回、発砲を許可する。責任は私がとる」
彼女は血のついた窓を見るなりそう言った。その声に震えはない。
院内───
「……西川警視長」
玄関をくぐると田沼が柱に身を潜めていた。
「田沼警視正、これは一体……?」
俺達は動揺を表に出しはしなかったが、目を丸くしていた。
「私にもサッパリです」
彼は下半身露の男性をチラ見しながら続けて言う。
「ただ……犯人はおそらく、熊でしょう」
田沼は上を指差している。
「四名本警視と井ノ部が……!!」
河浦は銃をしっかりと握り直す。
「急ぎましょう」
西川は顎で俺達に"行け"と指示した。
俺達は小さく頷き、井川を先頭にして俺が続き、河浦は一番後ろに回った。
2階───
「熊はこの階に?」
俺は後ろの田沼に尋ねた。
彼は低い声で返事をし、階段を登りきった左側の廊下に目をやった。
奧からは呻き声がする。
「生け捕りですか、それとも……?」
井川が言葉を濁らす。
「殺して構わん……ですよね?」
西川は田沼の横に立って言った。
「自分達の命を優先しよう。……熊を殺しても構わない」
彼は鋭い目付きになり銃を構えた。
俺達は足音を消して廊下を進む。
「グォォォーーー!!」
右側の病室から咆哮がした。
井川は素早く手鏡を利用して中を見る。
「熊が……息耐えた患者を、その………犯しています」
井川は手鏡を引っ込めて深呼吸をして言葉を続けた。
「その熊なんですが……左腕がないんです」
「それがどうし……!!」
俺は言葉の途中で理解した。
「そこにいる熊の正体は………井ノ部です…!!」
井川は声を押し殺して叫んだ。
俺達は俯いて歯を食い縛って考え込んだ。が、彼を助け出す答えは出なかった。
「井ノ部博貴巡査長はもういない。そこにいるのは……大量殺人犯だ」
西川は銃を構えて俺達の顔を見回る。
「了解……!!」
返事をしたのは井川だった。銃を構え、もう一度深呼吸をし、病室に突入する。
「動くな、井ノ部!!」
井川は銃口を熊と化した男の頭に向ける。
「グルゥゥゥ!!」
熊を動きを止めず、視線だけをこっちに向けた。
井川の腕は微かに震えている。
「止めるんだ井ノ部!!」
俺も声を上げた。
そこで熊は患者を放り投げ、体をこっちに向けた。既に衣類は身につけていなかった。
「グワォォォーーー!!!!」
熊は叫び声とともに井川に襲いかかる。
井川は引き金を引くことができなかった。
代わりに俺が放った銃弾は熊の左足を貫いた。
「グゥゥ……」
熊はその場に倒れた。
「死ぬ気か、井川!?」
俺は井川を見つめる。
彼の顔は哀しみで曇っていた。が、何かを決心したように緊張が切れた。
「お前も苦しいんだよな、井ノ部?」
井川は銃口を逸らしてゆっくりと熊のもとに歩く。
熊は左足を押さえながら立ち上がった。
「俺には分かるぜ……何年間コンビ組んでたと思ってんだ?」
「ダメだ井川!!」
俺が駆け寄ろうとした時……。
「ガァァァーーー!!」
熊は井川の首を両手で絞め、首に噛み付いた。
鮮血が遠く飛び散る。
「お前が……死ぬ時は……俺も一緒だ………そうだろ?」
井川は熊を抱き締めるよう背中に手を回し銃口の向きを逆にして、熊と自分の心臓が重なる位置にあてがい……。
(パァァァン!!)
親指で引き金を引いた。
渇いた銃声が世界に響き渡り、1人と1匹は重なったまま床に倒れた。
「そんな……」
俺は銃を床に落とし、膝をついた。頬を悲しみが流れる。
西川は携帯を開いた。
「……西川よ。………えぇ、死亡者多数、生存者はおそらく0。それと、井川巡査長、井ノ部巡査長の死亡を確認。………分かったわ」
彼女が携帯を閉じ、口を開こうとした時……。
「小口、河浦、しっかりしろ! 四名本を捜すぞ!」
田沼が2人の肩を揺する。
「……井川と、井ノ部は……どうすれば………?」
俺の声は震えていた。
「生きている可能性がある方を優先する。行くぞ」
俺は田沼に腕を引っ張られ、病室………いや、現場を後にした。
3階───
俺達4人の顔は暗い。さっきまで先頭を歩いていた戦友の姿はもうないんだ。
「ちょっといいすか?」
─最後尾の河浦が言った。
「耳を澄ましてみてください」
俺達は言われた通り"音"に神経を集中した。
すると……。
「グォォーー………」
熊の声がした。この階からだ。
「熊がもう1匹!?」
銃を握り締める俺の手は汗ばんでいる。脳裏にはさっきの光景が焼き付いている。
「もしかしたら……」
「四名本……だろうな」
西川の言葉の続きを田沼が奪った。
「ガァァァーーー!!!!」
突如、天井を突き破って熊が降ってきた。田沼の真上だ。
「危ない!!」
俺はとっさに田沼を突き飛ばした。
熊の爪は俺の右肘をかすめ、床がさらに紅くなる。
「四名本……!!」
田沼は熊の顔を確認した。その直後……。
(パァァァン!!)
熊のこめかみを銃弾が貫通した。西川警視長だった。
「大丈夫、小口?」
西川は銃をホルスターに戻した。
「………」
俺は返事をできなかった。
「どうした、聖夜?」
河浦が俺の目の前で手を振る。
「井ノ部は熊に襲われて入院して、自分も熊になった。………じゃあ、俺も、熊になるのか………?」
俺はその場に座りこんだ。
(ピーポーピーポー!)
タイミングよく救急車が到着したようだ。
俺達はすぐに階段を下った。俺は救急車に乗せられ、どこかに運ばれた。
「西川警視長、小口はこの後どうなるんですか?」
河浦が不安そうに尋ねる。
「手当てをした後、監禁状態にして監視する。彼が熊になることは想像したくないが……もしそうなったら何時間で発症するのか、血液等に変化があるのか、調べさせてもらうわ」
西川は腕を組ながら言った。彼女も悲しみを隠しきれてはいなかった。
「話は後だ。すぐにこの病院を完全に塞ぐ!」
声を上げるのは田沼。
「もし熊に襲われた人が第2の熊になるなら、この病院からさらに熊が現れるかもしれない!」
彼は周りの刑事にすぐに準備に取り掛かるように指示した。
「河浦、あなはしばらく自宅待機しなさい」
西川が肩を叩く。
「ど、どうしてですか!?」
「一度気持ちを整理してきなさい。迷いがあれば、次に熊になるのはあなたよ」