18匹目 堕人 -沈みゆく光-
堕人:人から堕ちた者をさす
ルキの造語
タワー・大展望台2階―――
「下じゃ凄い戦いをしているみたいだね〜」
1階からの振動が足に響き、白衣の男は上機嫌で言った。
「君ももう少し楽しませてくれよ〜」
白衣の男は四つんばいで倒れる井川を冷たい視線で見下ろした。
「この手品ヤローが……」
井川は火傷を負った左腕を押さえながら立ち上がった。
先ほど、謎の薬品が合わさった液体を肘と手首の間あたりにかぶってしまったのだ。
「あっはは、化学と言ってくれたまえよ!」
両者の間には少し距離があるが、男は再び薬品を調合しだした。
白衣の内側からエメラルドの液体の入った試験管を取り出し、持っていた固形物質の入ったビーカーに少量注いだ。
「さーて、何が起きるかなー?」
卑下に笑う男の言葉に井川は生唾を呑んだ。
(……ボンッ!!)
ビーカーの内部では小さな爆発が起き、覗き込んでいた男の顔を黒煙が包んだ。
「(……チャンス!)」
実験は失敗したと判断した井川は大型のナイフを取り出して男に投げた。
「くふふ……失敗は成功の母なのだよ」
男はさらにワインレッドの液体を加えていて、ビーカーの中では混沌の輝きを放っていた。
それを傾けた途端、井川はダンプカーに激突されたかのような衝撃を受けて後方の壁にめり込んだ。と同時に、左肩に独特の鋭い痛みを感じる。
「くっ……」
男に投げられたナイフは実験による衝撃波のようなもので押し戻され、その刀身が投げた当人に突き刺さったのだ。
井川は痛みを堪えながらナイフを引き抜き、ふらふらと立ち上がった。
「そういえばまだ僕の名前を教えていなかったね」
男は余裕の表情を浮かべ、近くの壁をじろじろ見ながら続けた。
「僕はYamazaki、皆からはドクターと呼ばれている」
Yamazakiは白衣の襟ひ少し引っ張りながら医者だということを強調した。
「お前が……ドクター?」
井川の左手の指先からは血が滴り、床には赤い水溜まりが広がっていく。
「そうとも! ただし、怪我を治すのが仕事じゃない。人を造るのが仕事さ」
Yamazakiは右手の人差し指をピンと立て、表情だけ笑いながらさらに続ける。
「アイル……君達にはRilyと言ったほうが分かるかな? 彼女と彼女の妹、さらに山埼警視正殿を造ったのはこの私さ! ある人の拷問という名の命を受けてね!!」
叫ぶYamazakiの顔は声が大きくなるにつれ、化け物じみたように崩れていった。
「ある……人?」
井川の額からは嫌な汗がじっとりと流れていく。痛みで視界は揺れている。
「僕を含め、造られた4人はその人の命令によって色んなことをしてきた。数え切れないほどの人間を殺してきた。……そして僕達は決めた、もう終わりにしようって。その人を殺して僕達も死のうってね!」
Yamazakiはマントをなびかせるかのように白衣を開くと、内ポケットにはいくつもの試験管がささっていた。
「だがその前に邪魔をする君達を殺す!」
指先で掴んだ試験管の1つには虹色に輝く液体が入っている。
「まさか……その人って!!」
1機のヘリが突っ込んできて、言葉は効果音のごとくかき消された。
2人はヘリからも相手からも距離を取って物陰に身を潜める。
プロペラは衝撃で吹き飛び、機体から漏れる黒煙は夜空に消えていく。
そんな絵を背景にして、降り立った2人の男女は静かに銃を構える。
「どんな理由があろうとテロを正当化などさせない」
全身に巻かれた包帯が痛々しい女性……、揺れる黒髪のポニーテールは彼女の幼い頃からのこだわりでもある。
西川里奈……死の淵より舞い戻ってきた女だ。
「こんなことはもう終わりにさせる」
長身にがっしりした肩幅、黒い瞳には決意の火が灯っている。
河浦竜一……まもなく熊に豹変する可能性を持っている男だ。
「次から次と面倒な……っ!?」
Yamazakiが右手に持っていた試験管は粉々に割れ散った。
「私の銃の腕の評価は、特Aだ」
西川の持つ拳銃の銃口からはかすかな白煙が昇っている。
「まったく……ゴミ共がぁ!!」
血走った眼を見開いたYamazakiは1本の試験管の中で揺れる紫色の液体を飲み干し、白衣を脱ぎ捨て、声を上げて笑いだした。
「くっくっく……ははっ、あははっ、ひゃーっはっはっはっ!!!!」
細身だったはずの身体は筋肉の鎧に包まれ、全身で血管と神経が浮き出る。
"陽気"といった初めの印象は微塵も残さずに消え去ってしまった。
「そうだ、ゴチャゴチャ言っても無駄だったなぁ! 結局、生き残ったほうが正義! いつの世も強い者の言葉が全てぇ!!」
床にヒビを入れながら駆けるYamazakiに、刑事3人の銃弾はかすりもしない。
「まずは貴様だニシカワァァァーーー!!」
握りしめられた化け物の拳には悪意に満ちたオーラが絡み付いている。
「西川警視正!!」
井川は彼女を突き飛ばして身代わりとなった。
拳は腹へもろに入り、口からは血と胃液の混ざったものが零れ、床と平行に吹き飛んで柱を砕いて止まった。
意識が飛ぶほどの威力と衝撃で肋骨数本が粉々、胃と右の腎臓破裂、左肩脱臼となった。
すかさず河浦は銃を発射するが虚しく空を切って終わった。
「大丈夫か井川!?」
河浦の呼び掛けに返事の声はなかった。
「よくもーーーっ!!」
西川は銃を乱射しだすが、残像が見えるほどの速さで動く化け物は難なく彼女と距離を詰めた。
そして振り回された右の掌は彼女の背中を捕らえ、やはり床と平行に突き飛ばされてしまった。
床に落ちた衝撃で右腕からは筋が千切れる音がした。
「あ゛ぁぁぁっ!!」
全身を酷い痛みが襲い、いっそ気絶してしまいたい思いが過りながら彼女の悲鳴は河浦に届く。
「くっ!」
人間の常識を外れた化け物を前に、河浦は恐怖で脚を震わせた。
いや、震えてしまった。
(ドクンッ)
「やはりこんなものか……」
化け物は一瞬、ほんの一瞬だけ寂しそうな顔を見せた。
(ドクンッ!)
「……死ね」
より一層強く作られた握りこぶしからまがまがしいオーラが放たれ、一歩一歩河浦へと歩み寄って行く。
(ドクンッ!!)
「……っ!?」
その時は突然やってきた。
「あっ……ぐぅお!?」
河浦は胸を押さえながら膝をつく。血走った眼の瞳孔は不規則に揺れる。
徐々に浮き出る血管、鋭利に伸びる爪、毛深くなっていく身体と不自然に盛り上がる筋肉。
「くっくっく、君も僕のように熊になるんだな」
Yamazakiは右手を河浦へと伸ばす。まるで自分の仲間へと受け入れるかのように。
「俺は……あぁぁぁぁ!!」
天空へ猛る咆哮と共に、河浦は熊へと変貌してしまった。
「ふふふっ」
Yamazakiは小枝ほどの銀色の笛を取り出すとそっと息を吹き込む。
普通の人間の耳では聞きとれないほどに高い音は熊の耳へと流れていった。
「ぐぅぅ」
その音による指示によって熊は大人しくなってしまった。
「その女を……西川を食い殺せ」
飼い主は餌を指差して熊に命令した。
「……か、河浦」
口から血を流しながら横たわる彼女は霞む視界に熊を見た。
「ガァァァァァ!!」
ナイフのように尖った爪を立て、熊は右腕を鋭く彼女へと伸ばしていった。
爆発音のような低い衝撃音が響き、砂埃が巻き上がる。
「はーっはっはっは!! 傑作だなぁ!! テメェの手で上司を殺しちまうんだからなぁ!!」
飼い主の卑劣な笑い声だけが轟く。
「はーっはっはっ……は?」