12匹目 非情 - 正義の牢獄-
都内某所───
晴れ渡る空。澄んだ空気。いつもと同じ毎日が今日は違う。待ち焦がれたあの人に会えるのだ。7年間、どれほどこの日を待ちわびたことか。やっとこの子に自分の父親と合わせてやれるのだ。
そうだ、今日は3人でお祝いしなきゃ。うんとご馳走作って、3人で川の字になって寝るの。
「……ここね」
地図の通りに迷わずに着くことができた。
何やら今日は東京湾に謎の客船が出現したとか。私達には関係ないけどね。
「お母さん、何で病院になんて来たの?」
手を繋ぐ息子が不思議そうな顔で聞いてきた。
「いいから」
答えを告げられない私は玄関に見覚えのある顔を見つけた。河浦さんだ。
「河浦さん!」
彼の顔は強張っている。
無理もない。これから私は熊になった夫を見るんだ。これから息子は誰とも知らない熊を見るんだ。
「梢さん……」
彼は小さくお辞儀すると中に通してくれた。
2階建てで白塗りの小さな病院。中は全く人気がしない。受付にいるのは恐らく覆面警官だろう。
彼は私達を連れて階段を下っていく。
「あの……下に行くんですか?」
私は少し不安になってきた。この病院の怪しさ。熊になってしまったとはいえ、あの人は本当に生きているのか、それすら信じられなくなってしまう。
「ええ……。あの、息子さんにも見せるんですか?」
彼は視線を足下に向けたまま口を開く。階段が心なしか長く感じる。
「そのつもりです」
私は小さい声で、でもはっきりと断言した。
彼は何度か小さく頷き、それ以上のことは喋らなかった。
階段は終わり、薄暗く幅の広い廊下が続く。
「グォォ………」
廊下の奥から呻き声がする。
息子は私の手をギュッと握る。私も反射的にほぼ同時に握っていた。
「さあ、行きましょう」
顔は一度こちらを振り向いた。とても悲しそうな顔をしていることを私と息子は感じ取った。
外───
「よし、最後はこの辺で降ろそうか」
3度目の着陸地点。僕は無線で仲間と話ながらヘリを屋上に降ろし、熊達を解き放った。
「Yamazakiさん、この後はどうするんですか?」
無線からの声は愛機[AH-64D アパッチ・ロングボウ]を操縦する元イギリス陸軍[中村ゴンザレス]中佐だ。
「予定通り隠し要塞[ジャスティス]を熊達に襲わせる。中佐は合図があるまで待機していてください」
隠し要塞ジャスティス、それは警察が裏金で作り上げた基地の1つだ。外見こそただの小さな病院だが地下には無数の牢屋がある。
そこには普段、凶悪犯達が幽閉されているが今はおそらく生け捕りにされた熊達がいるはずだ。
「了解」
中村の返事で無線は切られた。それと同時に熊達が続々と姿を現す。
こいつらは私達を襲わない。理由は後々話すとして、さっそくジャスティスに行ってもらおう。
(ピィィィィ!)
常人には聞き取れないほどの高音が鳴る笛の音を聞き、熊達は僕の後をしっかり着いてきた。
ジャスティス・内部───
「あの……河浦さん?」
目の前には黒塗りの鉄の壁、その中央には赤い扉があった。私達はそこで立ち止まっている。
扉の横には大柄の刑事が2人、アサルトライフル[89式5,56mm小銃]を肩にかけて立っている。
私は立ち止まる河浦さんの背中に声をかけた。
「グォォ……!!」
壁の向こうからは熊の雄叫びが重なりあっている。
優太は両手で私の手をしっかりと握っている。私もその手を勇気づけるように握り返している。
「もう一度聞きます。………優太君もこの中に連れて行くんですね?」
河浦さんはこちらを振り向いた。その顔つきは今までに見たことのないくらい真剣だった。
「もちろ……ん?」
私は優太の異変に気付いた。目をギュッとつむり必死に首を横に振っていた。
「梢さん……!」
河浦さんは鋭い瞳で私の答えを急かした。
「………私は……!」
その時、私の脳裏には熊の姿になったあの人が浮かび上がった。
「……私だけ行きます」
私はすぐに優太を2人の刑事に預けたことを良かったと思うことになった。
赤い扉は厚さが10㎝以上もある。それにもかかわらず廊下にまで声が響いていたのだ。
……中は酷かった。廊下はさらに続き、枝別れするように道は無数に存在した。そして壁には同じような赤い扉が連なり、その向こうから熊の声がしている。
「優太を、連れてこなくて良かったです……」
壁も床も天井も黒い。唯一の光は天井に等間隔に設置されている切れかけの青い電球達。唯一の色は扉の赤だ。
「……ここです」
河浦さんは1つの赤い扉の前で止まった。
この先にあの人がいる。7年間会うことができなかった愛する聖夜がいるのだ。
(ギィィィィィ)
扉の開く錆付いた音が耳をかける。
………。
その中には音も光もない。暗闇だけが存在した。
(……ジャラ……)
そんな世界に音がした。鎖が床を滑る音だ。
「ここにある全ての部屋に電気はありません」
私は目が馴れるのを待とうとした。だが、それより先に向こうの声で腰が抜けてしまった。
「グォォォーーー!!!!」
(ジャラ! ジャララ!)
手足だけじゃなく体ごと鎖で動きを封じられていたのだ。
ストレスの溜まった喚き声はまさに野生のそれを彷彿とさせる。
「………せい……や?」
私は後退り壁にもたれかかる。
それに気付き、河浦さんが一度廊下に連れ出してくれた。
「あれが今の聖夜です。治す方法もない。殺すこともしたくない。私達もどうすればいいのか分からないんです……!!」
河浦さんは怒りに任せて壁に拳を突き立てる。やりきれない気持ちは皆同じだったんだ。
「グォォォーーー!!!!」
「ガァァァーーー!!!!」
「ゴォォアァァーー!!!!」
その時、何かに反応したかのように熊達が一斉に吠えだした。
(ギシ……ギシ………)
「く、鎖が……!」
私は聖夜がいると思われる方向を指差した。
「大丈夫ですよ、いくら何でも全身に巻き付いた鎖を破ることは………!」
鎖は……破られた。私達の目の前で聖夜は自力で身体の自由を手に入れた。
飛び散った鎖の欠片が転がってくる。それと同時に獣の足音が近づく。
「早く鍵を……!?」
(ドォォーーーン!!)
遅かった! 赤い扉は蹴破られ、正面の壁に激突し床にひれ伏した。
「くそっ!」
河浦さんは腰から拳銃[コルトM1917]を抜くが、銃口を向ける前に聖夜の腕に体ごと吹き飛ばされてしまった。
「ぐはぁっ!」
衝撃で鉄の壁がへこんだ。
「河浦さ………!」
私の声を制止させるかのように彼は掌をこちらに向けた。
きっと聖夜の注意を私に向けさせないためだ。
「テメー、嫁さんの前でみっともない格好……見せてんなよ!」
彼はコルトを左肩目がけて放った。高速の回転を加えられ、空を裂いて進む銃弾を聖夜は左手で掴み取ってしまった。
「バカな!?」
すかさず2発目の引き金を引こうとしたが聖夜はそれを許さなかった。
キャッチした銃弾をでこぴんの要領で中指で弾くと、河浦さんの右腹部に突き刺さった。
「ぐふぉっ!?」
片膝をついて痛みに耐える彼に熊と化した聖夜は追撃を加えた。
下から伸びる右拳が河浦さんの体を吹き飛ばし、再度壁に叩きつけた。
さらに回転を加えた回し蹴りで鉄の壁が砕けた。幸いにもそこは空き部屋のようだった。
「もう止めてーーー!!」
瓦礫の上に力なく寝転ぶ河浦さんに止めの一撃を与える瞬間、私は聖夜の前に立ちはだかった。
両手を目一杯に広げ、涙を流して彼を必死に見つめた。
「グォォォーーー!!」
振り下ろされる拳。もう……ダメだ!
………。
「………えっ!?」
恐る恐る目を開くと、信じられない光景がそこにはあった。
聖夜が自分の右拳を左手で必死に押さえているのだ。その瞳からは一滴の水が流れた。
「お願い、もう止めて! 優しかったあなたに戻って!!」
私は聖夜の腕の中に自ら駆け込み、その唇にキスをした。
優しい淡い光が辺りを包む、そんな感じがした……。
ジャスティス・外───
「さあ熊共、行け!」
(ピィィィィ!)
僕は笛を吹きながらジャスティスの正面玄関を指差した。
熊達は雄叫びを上げて駆け込んだ。僕もその後をゆっくりと続く。やつらは"食事"になると私達までも襲いかねないからな、巻き込まれてはかなわない。
「下だ、下!」
(ピィィーーー!)
ヘリでじっとしていたことがずいぶんとストレスだったんだろう、動きがとても機敏だ。
「熊を解放し町に放つ。ふふ……」
その景色を思い浮かべるだけで笑いが零れてしまう。
「グォォォーーー!!」
(パァァン!)
どうやら警備の刑事と交戦のようだな。僕は銃声のするほうへ急いだ。
「ぅわぁぁーーん!」
刑事の後ろで子供が泣いている。熊の餌にはベストな年齢だ。が、なぜこんなところに子供がいる?
「……使えそうだな」
(ピピィィィィ!)
熊達は動きを止めた。見ると裸体が2つ転がっている。
(ピッ!)
僕はそれを指差して笛を短く吹く。すると熊達は欲望を解き放った。
「坊や……ちょっと協力してもらうよ」