第5話 最上階の誘惑
都会の夜は、どこまでも騒がしく、それでいて残酷なほどに冷淡だ。
ビジネスホテルの無機質な部屋を飛び出した俺、伊沢研二は、吸い寄せられるように地下鉄のホームに立っていた。
深夜に近い時間帯だというのに、電車を待つ人々は絶えない。疲れ果てた表情でスマホを眺める会社員、楽しげに笑い合う若者たち。その誰もが、明日という日が当然のように訪れることを信じて疑わない顔をしている。
俺だけが、この世界の時間の流れから取り残されていた。
電車に揺られながら、俺は窓に映る自分の顔を見つめた。
そこに映っていたのは、かつての温厚なシステムエンジニアではない。愛した女に裏切られ、信じていた十年間をドブに捨てられた、ただの抜け殻だ。
「遊びだった」
美咲のあの言葉が、今も耳の奥で耳鳴りのように響いている。
俺の人生を賭けた誠実さは、彼女にとっては退屈な日常の背景に過ぎなかったのだ。
電車を降り、地上に出ると、冷たい夜風が頬を刺した。
目指す場所は決まっていた。
駅から少し歩いた先に見えてくる、ひときわ高く、洗練された外観の超高級タワーマンション。
そこは、まだ結婚して間もない頃、美咲と二人で散歩をしながら見上げた場所だった。
「ねえ、研二さん。いつかあんな高いところに住んでみたいね」
「ああ。仕事を頑張って、いつか必ず連れて行くよ。二人で夜空を独り占めしよう」
そんな、今思えば身の程知らずで、それでいて純粋だった約束。
あの時の俺たちは、確かに幸せだったはずだ。少なくとも、俺はそう信じていた。
しかし、その約束の地は、今や俺の首を絞めるための巨大な墓標のように、夜の闇にそびえ立っている。
マンションの敷地内は、完璧に整えられた植栽と、落ち着いた間接照明に彩られていた。
部外者は簡単に入れないはずのセキュリティだが、今の俺にはそんなものは障害にならなかった。
このマンションには、以前、大きなプロジェクトで共に仕事をしたクライアントの役員が住んでいる。以前、打ち合わせの後に「景色でも見ていけ」と招待されたことがあり、ゲスト用の入館コードを記憶していたのだ。
俺はまるで亡霊のように、慣れた足取りでエントランスを抜け、エレベーターに乗り込んだ。
上昇するエレベーターの中で、耳の奥に圧力がかかる。
表示される階数が、みるみるうちに上がっていく。
二十、三十、四十……。
地上の喧騒が遠ざかり、心臓の鼓動だけがやけに大きく響く。
鏡の中の俺は、何を期待しているのか。
そこに行けば、すべてが終わるのか。それとも、何かが始まるのか。
そんな問いに答える気力すら、今の俺には残っていなかった。
最上階に到着し、非常階段の重い扉を押し開ける。
さらに階段を上り、最後に行き着いたのは、居住者専用の屋上テラスだった。
鉄の扉を開けた瞬間、暴力的なまでの夜風が俺の全身を包み込んだ。
「……っ」
一瞬、息が止まる。
視界に飛び込んできたのは、三六〇度のパノラマで広がる、東京の夜景だった。
光の河が縦横無尽に走り、数えきれないほどのビルが宝石を散りばめたように輝いている。
それは、かつて美咲が見たいと言った、あの憧れの景色だった。
俺はふらふらと、テラスの端にあるフェンスへと歩み寄った。
下を見下ろすと、車や人々は米粒よりも小さく、絶え間なく動き続けている。
あんなに苦しくて、あんなに重かった俺の絶望も、ここから見れば、ただの無数の光の一点に過ぎない。
そう思うと、不思議なほど心が軽くなっていくのを感じた。
俺はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を点灯させると、ロック画面にはまだ、去年の誕生日に美咲が撮ってくれた俺の写真が表示されていた。
「研二さん、こっち向いて! いい笑顔!」
そう言ってシャッターを切った彼女の指先を、今でも覚えている。
俺は、震える指でアウスタのアプリを起動した。
そこには、これまでの十年間、俺が「幸せ」だと思い込んでいた瞬間の記録が、整然と並んでいた。
初デートで行った海。
結婚式の、真っ白なドレス姿の美咲。
二人で初めて選んだカーテン。
美咲が作ってくれた、少し形が崩れたオムライス。
一枚一枚をスクロールするたびに、心臓に毒が回っていくような感覚に襲われる。
「全部……ゴミだ」
俺は、狂ったように写真を削除し始めた。
一枚、消す。
二人の記憶が一つ、この世から消える。
また一枚、消す。
美咲の笑顔が、デジタルな闇の中に吸い込まれていく。
「あはは、綺麗だね」
「おいしいね、研二さん」
そんな彼女の声が風に吹かれて聞こえてくる気がしたが、俺は容赦なく指を動かし続けた。
削除、削除、削除。
最後に残ったのは、数日前に撮った、夕食のハンバーグの写真だった。
「少し焼きすぎちゃったかな?」
あの時の彼女の、何気ない問いかけ。
それさえも、不倫相手との密会を隠すための隠れ蓑だったのかもしれない。
俺は最後の写真を消去した。
プロフィール画面は「投稿がありません」という、空っぽな表示に変わった。
十年の歳月が、たった数分で無へと帰した。
画面に反射する俺の顔は、ひどく冷酷で、それでいてひどく悲しげだった。
スマートフォンをポケットにしまい、俺はフェンスの手すりに手をかけた。
冷たい鉄の感触が、手のひらを通して現実を突きつけてくる。
フェンスを乗り越えるのは、驚くほど簡単そうだった。
少し足をかけ、重心を向こう側に預けるだけだ。
そうすれば、この胸を締め付ける痛みからも、裏切りの記憶からも、永遠に解放される。
「死の安らぎ」という言葉が、甘い誘惑となって脳裏をかすめる。
美咲は、俺がこうなると知ったら、どんな顔をするだろうか。
後悔するだろうか。それとも、「重たい男だった」と、新しい男の胸で安堵するのだろうか。
サトルは、俺の死体を見て、何を思うだろう。
「馬鹿な奴だ」と、呆れて泣いてくれるだろうか。
俺がいなくなっても、会社は回り続け、夜景の光が消えることはない。
俺という存在は、最初からこの世界に必要なかったのではないか。
そんな自己喪失感が、限界まで高まっていた。
俺は手すりに足をかけ、ゆっくりと体を浮かび上がらせた。
風が強く吹き、俺の体を地上へと誘うように引き込む。
「……ああ、これでいいんだ」
目を閉じると、真っ暗な闇の中に、吸い込まれていくような感覚があった。
もう、誰も信じなくていい。
もう、誰の顔色を伺わなくていい。
ただ、自由になれる。
その時だった。
コートのポケットの中で、スマートフォンが激しく振動した。
一度ではない。連続して、何度も。
「……っ」
死の淵にいた俺の意識が、その無機質な振動によって現実へと引き戻される。
俺は危ういバランスを保ったまま、反射的にスマートフォンを取り出した。
画面には、複数の通知が表示されていた。
美咲からではない。
サトルからのMINE、そしてもう一つ、意外な人物からのメッセージ。
それは、かつて俺が大きなプロジェクトを完遂した際に、多大なる世話を焼いてくれた、今は退職した恩師からのものだった。
『研二くん、元気かね。ふと思い出してメールした。君が作ったあのプログラム、今でも後輩たちが大切に使っているよ。君の仕事には、常に使う人への優しさがあった。それを忘れないでくれ』
そして、サトルからのメッセージ。
『研二、お前が今どこにいるか分からんが、一つだけ言わせてくれ。お前が死んだら、俺の飲み相手がいなくなる。それだけは許さん。明日、また連絡しろ。生きてろよ』
メッセージを読み進めるうちに、目頭が熱くなっていくのを感じた。
俺は、美咲との十年間だけを「俺の人生」だと定義していた。
彼女に裏切られたことで、自分の人生すべてが否定されたと思い込んでいた。
だが、そうではなかった。
美咲のいない場所で、俺が積み上げてきた仕事、俺が築いてきた友情。
そこには、彼女の裏切りとは無関係な、確固たる「俺の存在」が確かに息づいていたのだ。
俺は手すりにかけていた足を、ゆっくりと地面に下ろした。
膝の力が抜け、その場にへたり込む。
コンクリートの冷たさが、ズボンを通して伝わってくる。
「……俺は、何をしようとしていたんだ」
美咲を恨み、彼女を記憶から消すために、自分自身まで消そうとしていた。
そんなものは復讐でも何でもない。ただの逃げだ。
彼女に与えられた傷を抱えながら、それでも生きていくこと。
彼女のいない新しい世界を、自分の足で歩き始めること。
それこそが、彼女に対する最大の、そして唯一の抵抗ではないのか。
俺は再び、下界の景色を見つめた。
光の粒の一つひとつに、誰かの人生があり、誰かの苦悩があり、そして誰かの喜びがある。
俺の痛みも、その膨大な営みの中の一部に過ぎない。
そう思うと、あれほど執着していた美咲の影が、少しずつ小さくなっていくのを感じた。
「美咲……」
俺はその名前を、声に出して呟いてみた。
かつては愛おしさに満ちていたその響きが、今はただの、遠い過去の記号のように聞こえた。
彼女は俺の人生のすべてではなかった。
ただの、長い旅の途中で出会った、通りすがりの一人に過ぎなかったのだ。
俺は立ち上がり、服についた埃を払った。
夜風は相変わらず冷たかったが、先ほどのような殺意はもう感じられない。
むしろ、この冷たさが、濁っていた俺の頭を冷やしてくれるように思えた。
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作した。
ロック画面に設定されていた、美咲の撮った俺の写真。
俺はそれを、初期設定の風景写真に変更した。
美咲の電話番号を、着信拒否のリストに入れる。
彼女からのMINEも、すべて削除し、アカウントをブロックした。
「……さよなら」
これで、デジタルな世界からも、彼女は完全に消去された。
もちろん、脳裏に刻まれた記憶を今すぐすべて消すことはできないだろう。
ふとした瞬間に、彼女の笑い声や、裏切りのメッセージを思い出して胸が痛む夜は、これからも何度も訪れるに違いない。
だが、それでもいい。
その痛みさえも、俺が生きている証として、受け入れていこうと思った。
俺は屋上の鉄の扉を開け、再び階段を降り始めた。
エレベーターに乗り、地上へと戻る。
エントランスを出ると、深夜の街はさらに静まり返っていた。
俺は駅へと向かう道を、力強い足取りで歩き始めた。
途中、コンビニの横を通ると、ガラス越しに雑誌や飲み物が並んでいるのが見えた。
俺は店に入り、温かい缶コーヒーを一本買った。
手に伝わる熱が、生きている感覚を呼び覚ます。
「うまいな……」
たった一〇〇円の缶コーヒーが、これほどまでに五感に染み渡るとは思わなかった。
ホテルに戻る道すがら、俺はサトルに短い返信を打った。
『サトル、明日の夜、空いてるか。また飲みに行こう。奢るよ』
送信ボタンを押すと、すぐに「了解」というスタンプが返ってきた。
その早さに、俺は思わず小さく笑った。
ホテルの部屋に戻り、俺はスーツケースを広げた。
乱雑に詰め込まれた服を、一枚ずつ丁寧に畳み直す。
明日からは、新しい家を探さなければならない。
美咲のいない、俺一人のための、新しい出発点だ。
弁護士の手配も必要だし、役所への手続きも山積みだ。
やるべきことはたくさんある。
絶望に浸っている暇など、今の俺には一秒も残っていなかった。
俺はベッドに横たわった。
目を閉じると、まだ少しだけ胸の奥がチクりと痛む。
だが、その痛みは、もはや死を望むような破壊的なものではなかった。
ただの、古い傷跡がうずくような、静かな痛み。
「夜を、越えられないと思ってたけどな……」
独り言が、暗い部屋の中に響く。
確かに、あの日スマホを見た瞬間、俺の夜は止まったままだった。
だが、時計の針は確実に進んでいる。
俺は今、長い、長い夜の終わりに立ち、新しい何かが始まる予感を感じていた。
研二は、深く息を吐いた。
意識が次第に遠のき、穏やかな眠りが彼を誘う。
夢の中で、彼は一人、広い野原を歩いていた。
空には、美咲のいない、澄み切った星空が広がっていた。
彼はその夜空を見上げながら、ただ一歩ずつ、前へと進んでいた。
自己喪失感の果てに見つけたのは、他ならぬ自分自身だった。
男は、もうフェンスに手をかけることはない。
彼の手は今、自分の人生を切り拓くための、新しい力を取り戻していた。




