第4話 対峙、そして決裂
ビジネスホテルの硬い枕の上で、俺は何度目かの朝を迎えた。
鏡に映る自分は、日に日に生気を失っている。無精髭が伸び、目の下には深い隈が張り付いている。
システムエンジニアとして培ってきたはずの規則正しい生活習慣も、今や完全に崩壊していた。
そろそろ、限界だった。
数日分の着替えを詰め込んだカバンは重く、何よりこのままホテル暮らしを続けるわけにもいかない。今後の身の振りを決めるためにも、そして何より自分自身の「過去」に区切りをつけるためにも、俺は一度あの家に戻らなければならなかった。
自分の荷物を整理し、必要最低限のものだけを持って、正式にあの場所を去る。
それが今の俺にできる、唯一の意思表示だった。
夕刻、仕事を早めに切り上げた俺は、重い足取りで馴染みのある駅から自宅へと続く道を歩いた。
何度も通ったはずの景色が、今はひどく色褪せて見える。公園で遊ぶ親子、仕事帰りの主婦、談笑しながら歩く高校生。かつての俺も、その「当たり前」の景色の一部だったはずなのに、今の俺はまるで剥製にされた標本のように、この世界から浮き上がっている。
マンションの入り口に着くと、指がオートロックのボタンを押すのを躊躇った。
この扉の向こうに、美咲がいる。
どんな顔をして彼女と向き合えばいいのか。
あるいは、彼女はどんな顔をして俺を待っているのか。
心臓が激しく脈を打つのを感じながら、俺はカードキーをかざした。
玄関のドアを開けると、そこには懐かしいはずの「生活の匂い」が漂っていた。
美咲が愛用しているアロマの香りと、微かな洗剤の匂い。
だが、その平穏な香りが、今は毒ガスのように肺を圧迫する。
「……研二さん?」
リビングの入り口に、美咲が立っていた。
数日見ない間に、彼女もまたやつれていた。頬はこけ、目は泣き腫らしたように赤く充満している。
彼女は俺の姿を見ると、縋るような、それでいて怯えるような表情を浮かべて一歩前に出た。
「研二さん、帰ってきてくれたのね。私、ずっと待ってたの。連絡も取れなくて、怖くて……」
「荷物を、取りに来ただけだ」
俺の声は、自分でも驚くほど冷徹だった。
一切の感情を排し、ただ事務的に事実を告げる。
美咲はその言葉に、心臓を射抜かれたような顔をして立ち止まった。
「そんな……。ねえ、研二さん。お願いだから座って。一度、ちゃんと話をさせて。私、本当に反省しているの。あの人とは、もう二度と会わないし、連絡も全部消したわ。信じてほしいの」
「信じる?」
俺は鼻で笑った。
靴を脱ぎ、リビングに一歩踏み込む。
そこには、俺が最後に家を出た時と変わらない景色が広がっていた。
ソファ、テーブル、テレビ。
だが、そのすべてが「美咲が不倫をしていた場所」というフィルターを通して見えてしまう。
「美咲。お前は俺がこの数日、どんな思いで過ごしてきたか分かっているのか? お前が信じてと言ったその口で、あの男に愛してると囁いていたんだろ。十年だ。十年間、俺たちは何を積み上げてきたんだ?」
俺はリビングのソファに腰掛けることもせず、立ったまま彼女を見据えた。
美咲は溢れ出す涙を拭おうともせず、必死に言葉を紡ぐ。
「……確かに、私は最低なことをしたわ。それは分かってる。でも、研二さん、聞いて。あれは……あれは、本当にただの遊びだったの。本気じゃなかったのよ。心が通っていたわけじゃないの。ただ、毎日が同じことの繰り返しで、自分が女として終わっていくのが怖くて……そこに彼が現れて、少しだけ優しくされて、舞い上がっちゃっただけなの」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中でパチンと何かが弾ける音がした。
「遊びだった?」
俺の声が、リビングの壁に不気味に響く。
「遊びだったから、許せと? 遊びだったから、大したことじゃないと言うのか? 美咲、お前のその言葉が、どれだけ俺を侮辱しているか分かっているのか?」
俺は一歩、彼女に歩み寄った。
美咲は恐怖に身を竦めるが、俺は止まらない。
「俺にとっては、この十年間は命がけだったんだ。仕事でどんなに辛いことがあっても、お前との生活を守るために耐えてきた。お前と笑い合うことが、俺の人生のすべてだった。それを……お前は『遊び』の一言で片付けるのか? 俺たちが築いてきた時間を、その程度の価値しかないゴミ屑として扱ったのは、お前自身なんだぞ!」
「違うの! そんなつもりじゃ……!」
「じゃあどんなつもりだ! 遊びだったら、俺の心は傷つかないと思ったのか? 遊びだったら、裏切りの重さが軽くなるとでも思っていたのか? むしろ逆だ。そんなつまらない『遊び』のために、俺との十年を、俺の人生を投げ打ったという事実が、俺には耐えられないんだよ!」
激情が言葉となって溢れ出す。
システムエンジニアとして、常に感情を抑制し、論理的に物事を考えてきたはずの俺が、今やただの怒りの塊と化していた。
美咲は床に崩れ落ち、嗚咽を漏らしながら謝り続けた。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい。私、どうかしてたの。研二さんがいなくなるなんて、考えてもみなかった。失って初めて、自分がどれだけあなたに甘えていたか、どれだけあなたが必要か気づいたの。お願い、もう一度チャンスをちょうだい。何でもするから。償うから……」
彼女の流す涙は、確かに本物に見えた。
だが、今の俺には、それが汚らわしい液体にしか見えなかった。
「償う? どうやって償うんだ。一度壊れた皿が元に戻るとでも思っているのか? 接着剤でくっつけても、ヒビは一生残る。俺はお前の顔を見るたびに、あの男の指先がお前の肌をなぞっている光景を思い出す。お前が笑うたびに、あの男に送った卑猥なメッセージを思い出す。……そんな地獄を、死ぬまで続けろと言うのか?」
「それは……時間はかかるかもしれないけど……」
「時間は何も解決しない。ただ風化させるだけだ。そして俺は、風化していくまでの間、ずっと自分を呪い続けることになるだろう。なぜ気づかなかったのか、なぜあんな女を信じてしまったのかと」
俺は彼女から視線を外し、寝室へと向かった。
クローゼットを開けると、俺の服が几帳面に並んでいる。
美咲が毎日、丁寧にアイロンをかけてくれていたシャツ。
その献身的な行為さえも、今となっては裏切りを隠すための偽装工作にしか見えない。
俺は大きなスーツケースを取り出し、手当たり次第に服を詰め込んだ。
「研二さん、待って! 行かないで!」
美咲が寝室まで追いかけてきて、後ろから俺の腰にしがみついた。
彼女の体温が伝わってくる。
かつては、この温もりが俺にとっての唯一の正解だった。
だが今は、吐き気を催すほどの嫌悪感しか湧いてこない。
「離せ」
「嫌! 離さない! 行っちゃったら、本当に終わっちゃう。お願い、研二さん……」
俺は彼女の腕を、力ずくで引き剥がした。
彼女は床に転がり、さらに激しく泣きじゃくる。
その姿を見て、俺の中に冷たい風が吹き抜けた。
悲しみでも、怒りでもない。
ただ、圧倒的な「軽蔑」だった。
「……美咲。お前、さっき『遊びだった』って言ったよな」
俺は荷物を詰める手を止め、床に伏した彼女を見下ろした。
「その言葉が、お前の本質なんだよ。お前は、自分の行動がどれだけ他人の人生を破壊するか、想像もできないくらい浅はかな人間なんだ。自分を『女』として見てほしいという、ちっぽけな承認欲求のために、俺を……十年間連れ添った夫を、踏み台にした」
俺はスーツケースのジッパーを力いっぱい閉めた。
「お前が泣いているのは、俺を傷つけたことを悔やんでいるからじゃない。自分の快適な居場所がなくなるのが怖いだけだ。お前が愛しているのは、俺じゃない。俺という『寄生先』だ」
「そんなことない! 私は研二さんを愛してる!」
「愛しているなら、俺を解放しろ」
俺は短くそう告げた。
美咲の泣き声が、一瞬止まった。
彼女は信じられないものを見るような目で、俺を見上げた。
「……もう、終わりにしよう。離婚届は、後で郵送する。この家は、お前が出ていけ。来月いっぱいまでは猶予をやる。その後のことは、弁護士を通して連絡する」
「離婚……? 嘘でしょ、そんな……研二さん、考え直して。私たち、あんなに幸せだったじゃない。十年間、ずっと一緒に……」
「幸せだったのは、俺だけだったんだよ。お前にとっては、ただの暇つぶしだったんだろう? だったら、もう十分だろう。これ以上、俺の人生を汚さないでくれ」
俺はスーツケースの持ち手を握り、部屋を出た。
玄関へと続く廊下には、二人で旅行に行った時に撮った写真が、木製のフレームに入れられて飾られている。
その中の一枚、三年前の結婚記念日の写真。
俺は満面の笑みを浮かべ、美咲の肩を抱いている。
美咲もまた、幸せそうに微笑んでいる。
だが、今の俺には見える。その微笑みの裏側で、彼女が別の男のことを考えていたかもしれないという、真っ黒な可能性が。
俺は歩きながら、その写真立てを壁からひったくり、そのままゴミ箱へと叩き込んだ。
ガラスが割れる乾いた音が、静かな廊下に響いた。
「……研二さん」
背後から、美咲の力ない声が聞こえた。
だが、俺は一度も振り返らなかった。
外に出ると、すっかり夜の帳が下りていた。
街灯の光が、冷たく濡れたアスファルトに反射している。
スーツケースのキャスターが、ガタガタと無機質な音を立てて夜の静寂を切り裂く。
俺は、自由になったのだろうか。
それとも、すべてを失ったのだろうか。
その答えはまだ出ない。
ただ、心の中には、何日も降り続いていた重苦しい雨が止み、代わりに氷のような静寂が広がっていた。
「十年の愛……か」
ポツリと独り言を漏らす。
その愛は、どこで死んだのだろうか。
最初から死んでいたのか。それとも、俺が勝手に生きていると思い込んでいただけなのか。
どちらにせよ、もう関係ない。
俺の愛した美咲という女性は、あの日、スマートフォンの画面が光った瞬間に、この世界から消滅したのだ。
駅へと続く道すがら、俺はTwotterを開いた。
サトルからのメッセージが届いていた。
『研二、大丈夫か? 無理するなよ。何かあったらすぐ連絡しろ』
その一言に、少しだけ胸の奥が熱くなった。
だが、今の俺は、その熱ささえも拒絶したい気分だった。
俺はアウスタのアプリを起動し、自分のプロフィールを確認した。
先ほど削除しきれなかった、数枚の思い出の写真。
指が迷い、一瞬止まる。
三年前の夏、海辺で撮った夕日の写真だ。
美咲が「綺麗だね」と言って、俺の手を握った瞬間の。
……削除。
一瞬の躊躇も、今の俺には罪悪感のように思えた。
すべてを消し去る。
記憶からも、記録からも、彼女の存在を抹殺する。
それが、俺にできる最大限の復讐であり、自分を救うための唯一の儀式だった。
電車に乗り込み、窓に映る自分の顔を見つめる。
そこには、かつての温厚なシステムエンジニアの姿はなかった。
他者を拒絶し、感情を削ぎ落とし、ただ自分を守るためだけに生きる。
そんな、冷酷な男の顔がそこにあった。
「……これでいいんだ」
俺は自分に言い聞かせた。
決別は完了した。
あとは、この空っぽになった心の中に、新しい何かを詰め込んでいくだけだ。
それが絶望であれ、虚無であれ、彼女と過ごした嘘の幸福よりはマシなはずだ。
ホテルの最寄り駅に着くと、俺はコンビニに寄り、アルコール度数の高い缶チューハイを数本買った。
酔わなければ、この静寂に耐えられそうになかった。
ホテルの部屋に戻り、買ってきた酒を喉に流し込む。
アルコールが血流を乱し、思考を濁らせていく。
俺はテレビも点けず、ただ暗闇の中で酒を飲み続けた。
不意に、スマートフォンのバイブレーションが鳴った。
美咲からだった。
『研二さん。あなたが壊した写真立て、さっき拾い集めたわ。
破片で指を切っちゃったけど、痛くない。
あなたの心がどれだけ痛いか、それに比べたら……。
でもね、私は諦めない。
私、死ぬまで研二さんのこと、愛し続けるから』
「勝手にしろ」
俺はスマホをベッドの隅に放り投げた。
愛し続ける?
そんな言葉、今更誰が信じるというのか。
彼女が愛しているのは、「研二さんに許されたい自分」に過ぎない。
その自己満足に、俺を巻き込まないでほしい。
酒を飲み干し、俺はベッドに横たわった。
意識が遠のいていく中で、俺は一つだけ決めたことがあった。
明日、あの場所へ行こう。
かつて美咲と、「いつか住みたいね」と語り合った、あの場所へ。
幸福の絶頂を象徴する、あの高級マンションの屋上。
そこに立てば、今の俺に何が見えるのか。
何が俺を、この苦しみから解放してくれるのか。
死の誘惑。
あるいは、再生の兆し。
そのどちらかが、あそこにはあるはずだ。
研二は目を閉じ、深い、深い眠りの中へと落ちていった。
夢の中では、まだ美咲が笑っていた。
だがその顔は、次第に溶け崩れ、真っ黒な闇に飲み込まれていった。
決別は、まだ終わっていなかった。
心の奥底にこびりついた「愛の残滓」を、完全に焼き尽くすまで、俺の戦いは終わらない。
夜は、さらに深く、冷たく。
男は一人、明けない夜の迷宮を、出口を求めて彷徨い続けていた。




