第3話 毒薬としての記憶
ビジネス街の夜は、冷たい。
オフィスビルの窓から漏れる明かりが、網目状に地上を照らしている。家路を急ぐサラリーマンたちの足音や、客引きの男たちの威勢のいい声。すべてが今の俺にとっては、別世界の出来事のように遠く感じられた。
俺、伊沢研二は、新橋の路地裏にある古びた居酒屋の暖簾をくぐった。
「研二、こっちだ」
奥の座敷から、聞き慣れた声がした。
サトルだ。大学時代からの腐れ縁で、今は大手広告代理店で辣腕を振るっている男。派手な業界に身を置きながらも、その根底にある義理堅さは昔から変わらない。
俺は力なく手を挙げ、彼が予約してくれていた席に腰を下ろした。
「……悪いな、急に。忙しいだろ、お前も」
「何言ってんだ。お前の顔が『今すぐ助けてくれ』って、電話越しに叫んでたからな」
サトルはそう言って、店員に生ビールを二つ注文した。
運ばれてきたグラスを、彼は俺の前に置いた。
「いいから、まずは飲め。話はそれからだ」
俺は黙ってグラスを手に取った。冷えた液体が喉を通り、胃に落ちていく。
だが、かつて仕事終わりに感じていたあの「一杯の喜び」は、微塵も感じられない。
ただの冷たい水分が、虚無の中に吸い込まれていくような、奇妙な感覚だった。
サトルは俺の様子をじっと観察していた。
彼はビールを半分ほど飲み干すと、ふっと息を吐いてから口を開いた。
「……美咲さんか?」
その名前を耳にした瞬間、指先が微かに震えた。
俺は視線を落とし、グラスの表面に結露した水滴が、一筋の線となって滴り落ちるのを見つめた。
「……ああ」
「何があった。喧嘩か?」
「不倫だ」
短い単語だった。だが、それを口にした途端、喉の奥が焼け付くような痛みに襲われた。
サトルの表情が、一瞬で凍りついた。
彼は何も言わず、ただ俺の次の言葉を待った。
「一昨日、見つけたんだ。風呂に入ってる間に、あいつのスマホにメッセージが届いて。達也っていう、輸入商社の男からだった。……『愛してる』とか、『早く会いたい』とか、そんな言葉が並んでた」
俺は淡々と、まるで他人の不幸を報告するかのような口調で話し続けた。
そうでもしなければ、今にも心が爆発してしまいそうだったからだ。
「十年間、ずっと信じてきた。あいつが一番の理解者で、俺たちの絆は揺るがないって、本気で思ってたんだ。でも、全部嘘だった。俺が仕事で必死になってる間も、あいつは他の男の腕の中にいた。俺の稼いだ金で、俺が買ってやった服を着てな」
サトルは深くため息をつき、ジョッキをテーブルに置いた。
「……そうか。信じてた相手にそれやられるのが、一番きついよな」
「きついなんて言葉じゃ足りない。自分の人生が、最初から存在しなかったみたいだ。あの家にあるもの、あいつと笑い合った時間、全部が毒に変わった」
俺は自分のスマートフォンを取り出し、画面を点灯させた。
設定で非表示にしているはずなのに、美咲からの不在着信の通知が、暗い画面を支配している。
「今も、あいつから連絡が止まらないんだ。『許してくれ』『一度だけ話を聞いてくれ』って。でも、あいつが謝れば謝るほど、俺の中の何かが死んでいくのが分かる。……サトル、俺、もうどうすればいいか分からないんだよ」
サトルは静かに俺を見つめていた。その瞳には、憐れみではない、同族の痛みを理解する男の光が宿っていた。
「研二。……実はな、俺も昔、似たようなことがあったんだ」
「えっ?」
意外な告白に、俺は顔を上げた。
サトルは自嘲気味に笑い、新しいおしぼりで手を拭いた。
「広告代理店に入って三年目くらいの時だ。当時、結婚を考えてた彼女がいた。ある日、仕事が早く終わって内緒で彼女のマンションに行ったらな。ドアの前に、見覚えのない男の靴があったんだ。……まあ、ベタな展開だよな。俺もその場で崩れ落ちそうになった」
初めて聞く話だった。
「……どうしたんだ、その後」
「一晩中、街を彷徨ったよ。でお前みたいに、誰かに助けを求めた。でもな、その時の俺には、誰も何もしてやれなかった。結局、自分の中でケリをつけるしかないんだ。俺は一週間後に別れを告げた。彼女は泣いて縋ってきたけど、一度汚れた水は、どんなに濾過しても元には戻らないって分かってたからな」
サトルの言葉が、俺の胸に重くのしかかる。
一度汚れた水は、元には戻らない。
美咲との関係も、まさにそれだ。
仮に俺が彼女を許したとしても、彼女の肌に触れるたびにあの男の影を思い出し、彼女の笑顔を見るたびに「裏切りの仮面」を疑い続けることになる。
それは、生きながら地獄の業火に焼かれ続けるのと、何ら変わりはない。
「研二、今は辛いだろうけど、無理に前を向こうとするな。どん底まで落ちたら、あとは地面を這うしかない。でもな、這ってるうちに、少しずつ景色が変わってくることもある。……今夜は飲もう。お前が潰れるまで、俺が付き合ってやる」
サトルは明るく振る舞い、次々と料理を注文した。
刺身の盛り合わせ、焼き鳥、だし巻き卵。
普段なら俺の大好物ばかりだが、今は箸をつける気にもなれない。
サトルはそんな俺を急かすことなく、自分のペースで酒を飲み、時折大学時代の馬鹿げた思い出話を披露してくれた。
「覚えてるか? 夏休みにレンタカー借りて海に行った時、お前が鍵を車内に閉じ込めたこと」
「ああ……あの時は散々だったな。ロードサービスが来るまで三時間も炎天下で待たされて」
「お前のあの時の顔、今の死人面よりはマシだったぞ」
かすかな笑みが、俺の唇に浮かんだ。
友人との何気ない会話。それが、荒れ狂う嵐の中で唯一掴める岩場のように思えた。
だが、その安らぎも長くは続かない。
ふとした沈黙の合間に、俺は無意識に指を動かし、SNSアプリを開いてしまった。
Twotterのタイムライン。
そこには、俺を切り離したまま回り続ける「幸せな世界」が広がっていた。
『今日は結婚一周年記念。旦那さんがサプライズで欲しかったバッグをくれたの! 幸せすぎて怖い(笑)』
添えられた写真は、高級そうなレストランのテーブル。輝くシャンパングラスと、幸せそうに微笑む男女。
『子供が初めて「パパ」って呼んでくれた。今日が人生で最高の日だ』
無垢な赤ん坊を抱き上げる父親の後ろ姿。
それらの投稿が、今の俺には猛毒のように感じられた。
幸せであることを証明しようとする言葉。
誰かに羨まれることを望む写真。
それらがすべて、薄っぺらな虚構にしか見えない。
「お前らのその幸せも、明日には崩れるかもしれないんだぞ」
心の奥底から、ドロリとしたどす黒い感情が湧き上がってくる。
「愛してる」と誓い合った相手が、明日には別の男の腕の中で喘いでいるかもしれない。
その「最高の日」は、一生続く呪いの始まりかもしれない。
俺はスマホをテーブルに伏せた。
指が小刻みに震えている。
自分だけが世界から切り離され、隔離された真っ暗な部屋に閉じ込められているような疎外感。
サトルが隣にいて、俺を元気づけようとしてくれているのは分かっている。
だが、彼の励ましすら、分厚いガラス越しに聞いているような、現実味のない音に聞こえてしまう。
「研二、もう帰るか?」
サトルが心配そうに覗き込んできた。
俺は小さく頷いた。これ以上ここにいても、彼の親切を無碍にしてしまいそうで怖かった。
店を出ると、外気はさらに冷え込んでいた。
サトルはタクシーを拾おうとしたが、俺はそれを制した。
「……少し、歩くよ。ホテルの近くだし」
「そうか。……無理すんなよ。明日も仕事だろ?」
「ああ。なんとかやってみる」
サトルは俺の肩を強く叩き、タクシーに乗り込んで去っていった。
一人になると、静寂が耳鳴りのように襲ってきた。
俺はネオンの消えかけた路地を、ゆっくりと歩き出した。
すれ違う人々が、皆、自分よりも高いステージにいるように見えて、肩を窄める。
あのアパートの窓から漏れるオレンジ色の明かり。
あのベランダに干された洗濯物。
あのコンビニでアイスを買う学生。
すべてが「日常」という特権を享受している。
俺にはもう、帰るべき場所も、守るべき日常もないというのに。
ホテルまでの道のりで、俺は何度も美咲との記憶に襲われた。
この角にあるカフェ。初めて二人で入って、あまりのケーキの小ささに笑い合った場所。
あそこの並木道。美咲が「冬の空気が好き」と言って、俺のコートのポケットに手を入れてきた道。
すべてが美しい記憶だったはずだ。
だが今は、その一つひとつが鋭利なガラスの破片となって、心臓を切り刻んでくる。
「思い出させないでくれ……」
俺は頭を抱えるようにして、歩調を早めた。
だが、逃げれば逃げるほど、記憶の追手は執拗に追いかけてくる。
美咲の笑い声。彼女の温もり。彼女が作る味噌汁の匂い。
それらが今や、不倫という名の泥水にまみれ、異臭を放っている。
ホテルの狭い部屋に戻ると、俺はそのまま床に座り込んだ。
バッグから、一冊のノートを取り出す。
学生時代から書き溜めている、仕事のアイディアや将来の夢を記した雑記帳だ。
その最後のページには、二年前、マンションのチラシを切り抜いて貼った跡があった。
『いつか、ここの屋上に住もうね。夜空を二人占めにするんだ』
美咲が拙い文字で書き添えた、約束。
俺はそのページを、思い切り引きちぎった。
ビリビリという音と共に、夢が無残な紙屑へと変わる。
それをゴミ箱に投げ捨てようとして、俺は手を止めた。
指先が、その紙屑を離してくれない。
憎んでいるはずなのに、捨てられない。
その矛盾が、俺をさらに深い絶望へと突き落とす。
スマートフォンが震えた。
また美咲だ。
今度はMINEではなく、アウスタ(画像共有アプリ)の通知だった。
彼女が新しい投稿をしたという知らせ。
見るべきではない。そう分かっていても、指は勝手に画面をスワイプしていた。
そこには、真っ暗な夜空の写真が一枚、投稿されていた。
キャプションには、一言だけ。
『ごめんなさい。私には、この闇を越える資格がありません』
俺は鼻で笑った。
「悲劇のヒロインを演じてるつもりかよ」
裏切ったのはお前だ。俺の世界を壊したのはお前だ。
その張本人が、被害者のような顔をして闇を語るな。
怒りが、冷え切っていた全身に火を灯す。
だが、その火は俺を立ち上がらせるエネルギーではなく、自分自身を焼き尽くすための炎だった。
俺は自分のアウスタのプロフィール画面を開いた。
そこには、十年間で積み上げた「幸福の記録」が並んでいた。
旅行先でのツーショット。
美咲の手料理。
新しい家具を買った日の、はしゃいだ笑顔。
これらはすべて、今の俺にとって「自分を騙していた証拠」でしかない。
俺は、狂ったように写真を削除し始めた。
一枚、また一枚。
美咲の笑顔が消えていく。
俺の思い出が、デジタルの海に沈んでいく。
だが、どれだけ削除しても、脳裏に刻まれた記憶は消えてくれない。
むしろ、消せば消すほど、その不在が浮き彫りになり、喪失感が胸を締め付ける。
「サトル……俺には、無理だよ」
這い上がるどころか、さらに深い泥沼に足を取られていく感覚。
サトルの言った「地面を這う」ことすら、今の俺には贅沢な望みに思えた。
俺にあるのは、重力に従って落ちていくだけの、壊れた体だけだ。
窓の外を見上げると、都会の空は相変わらず濁った紫色をしていた。
星は見えない。
あるのは、眠らない街が発する、汚れた光の反射だけだ。
美咲と見上げるはずだった夜空は、もうどこにも存在しない。
研二は、冷たい床に横たわった。
体温を奪われていく感覚が、心地よかった。
このまま、思考が止まってしまえばいい。
記憶が、朝が来る前に蒸発してしまえばいい。
だが、夜は残酷なほど長く、静寂は彼を逃がしてはくれなかった。
毒薬としての記憶が、彼の全身を巡り、神経の一本一本を蝕んでいく。
研二は一人、闇の中で目を剥いたまま、明けることのない夜の底を、ただ見つめ続けていた。
疎外感と、自己否定。
そして、かつての愛が変質した、得体の知れない殺意に似た絶望。
それらが混ざり合い、彼の精神をゆっくりと、確実に、決裂の瞬間へと導いていく。




