第2話 嘘で塗り固められた十年
ビジネスホテルの天井は、ひどく無機質だった。
煙感知器の小さな赤い光が、規則正しく点滅している。それがまるで、死にかけた心臓の鼓動のように思えて、俺は吐き気を堪えるように目を閉じた。
セミダブルのベッドは、家で美咲と眠っていたものよりずっと硬く、シーツからは微かに消毒液の匂いがする。窓の外からは、深夜の国道を走る車の走行音が途切れることなく響いていた。
眠れるはずがなかった。
瞼の裏には、美咲のスマホに表示されたあの忌々しいメッセージが、焼き付いた網膜の残像のように浮かび上がる。
「達也」という男の名前。そして「愛してる」という言葉。
俺の知らない美咲が、そこには確かに存在していた。
「……いつからだ」
独り言が、冷たい空気の中に溶けて消える。
俺は這い出すようにベッドから起き上がり、デスクに置かれたペットボトルの水を一気に飲み干した。ぬるい水が喉を通る感覚だけが、自分がまだ生きていることを証明しているようだった。
部屋の明かりを点ける気にはなれず、俺はスマートフォンの画面を点灯させた。
メッセージアプリには、美咲からの通知が溜まっている。
『研二さん、お願い、帰ってきて』
『一度だけでいいから、私の話を聞いて』
『あの人とはもう終わったの。信じて』
『愛しているのは、研二さんだけなの』
「嘘つきだ」
声に出して罵倒しても、虚しさが募るだけだった。
信じて、という言葉がこれほどまでに滑稽に聞こえる日が来るとは思わなかった。
俺は彼女のメッセージを開くことなく、通知をスワイプして消し去った。
だが、一度芽生えた疑念の種は、闇の中で急速に根を張り、俺の記憶を侵食し始めていた。
幸せだと思っていた。
少なくとも、俺にとってはそうだった。
十年という歳月は、決して短いものではない。新婚の頃の情熱が、穏やかな信頼へと変わっていく過程を、俺は「成熟」だと呼んで疑わなかった。
だが、今振り返ってみれば、その穏やかさの中に、いくつもの「綻び」があったことに気づかされる。
三年前の夏、美咲が「パート先の友達と旅行に行く」と言って二泊三日で出かけたことがあった。
帰ってきた彼女は、どこか浮き足立った様子で、俺に地元の銘菓をお土産として渡してくれた。
「楽しかった?」と尋ねる俺に、彼女は「うん、すごく。でもやっぱり、家が一番落ち着くね」と微笑んだ。
あの時、彼女が着ていたブラウス。俺が知らない、少し派手なデザインのものだった。
「それ、新しい服?」と聞いた俺に、彼女は「あ、うん。安かったから買っちゃった」と、一瞬だけ視線を逸らした。
あの時、彼女は誰といたのだろう。達也という男と、あの服を着て、俺の知らない景色を見ていたのだろうか。
二年前の冬、俺が大きなプロジェクトの佳境で、連日深夜まで残業していた時期があった。
疲れ果てて帰宅した俺を、美咲はいつも笑顔で迎えてくれた。
「お疲れ様、研二さん。大変だったね」
温かいお茶と、夜食のうどん。その献身的な姿に、俺はどれほど救われたか分からない。
だが、ある夜、彼女が浴室に入っている時に、脱衣所に置かれた彼女のバッグから、聞き慣れない着信音が漏れたことがあった。
仕事の電話だと思い、俺は彼女に伝えようと脱衣所のドアを叩いた。
「美咲、電話鳴ってるよ」
「えっ!」
浴室から聞こえたのは、明らかに動揺した、鋭い悲鳴に近い声だった。
すぐにシャワーの音が止まり、彼女は濡れた髪を隠すこともせず、血相を変えて飛び出してきた。
「……ごめん、びっくりした。友達からだと思うから、大丈夫」
そう言って、彼女は俺の手からひったくるようにバッグを奪った。
あの時の、彼女の怯えたような、それでいて俺を拒絶するような瞳。
どうして俺は、あの違和感を見過ごしてしまったのだろう。
「バカだな、俺は」
乾いた笑いが漏れる。
俺が「信頼」という言葉でコーティングしていたのは、単なる「無関心」だったのかもしれない。
彼女を信じていたのではない。自分に都合のいい「理想の妻」という偶像を、彼女に押し付けていただけだったのではないか。
そして彼女は、その重圧から逃れるために、別の男の腕の中に安らぎを求めた。
スマートフォンを操作し、ブラウザを開く。
無意識のうちに、俺は「ノース・ブルー」という会社名を検索窓に打ち込んでいた。
不倫相手の男、達也が勤めているという輸入商社だ。
検索結果には、中堅規模の商社のウェブサイトが表示された。
「世界を繋ぐ、新しい青」というキャッチコピー。
社員紹介のページに、その男がいるのではないかと探したが、役員や主要なマネージャーの名前しか載っていない。
達也。
名前だけで顔も知らない男。
美咲は彼を「スマートで、話を聞いてくれる人」だと思っていたのだろうか。
あるいは、俺にはない危うさや刺激を、その男に感じていたのだろうか。
システムエンジニアという、理詰めで面白みのない俺との生活。
変化のない毎日。
子供のいない静かな家。
彼女にとって、俺との十年は「枯れていく時間」だったのかもしれない。
画面に映る、自分のやつれた顔を見つめる。
三十四歳。働き盛りと言われる年齢だが、今の俺は、中身をすべて抜き取られた抜け殻のようだ。
仕事で培った論理的思考も、トラブル解決のスキルも、この個人的な悲劇の前では何の役にも立たない。
バグを見つけて修正するように、彼女の心を元通りにプログラムし直すことはできないのだ。
ふと、美咲の不倫相手、達也の視点に立ってみる。
彼は今、何を考えているのだろう。
美咲から「夫にバレた」という連絡を受けているはずだ。
彼は美咲を救い出そうとしているだろうか。
「大丈夫だ、俺が君を守る。家を出てこい」と、ヒーローのように声をかけているのだろうか。
……いや、違うだろうな。
不倫なんて、所詮は「安全な場所からの火遊び」だ。
家庭という責任から逃れ、甘い汁だけを吸いたい男が、修羅場に陥った女をまともに相手にするはずがない。
美咲がすべてを失う覚悟で彼を求めても、彼は自分を守るために、冷酷にシャッターを下ろすに違いない。
「遊びだったんだ」「君が勝手に本気になっただけだ」
そんな、使い古された言い訳で、彼女を切り捨てる光景が目に浮かぶ。
その想像は、皮肉にも俺の心を少しだけスカッとさせた。
だが、同時により深い絶望が襲ってくる。
俺が人生のすべてを捧げて愛してきた女性は、そんな薄っぺらな男に、十年の月日を投げ売りしたのだ。
それが、何よりも俺の尊厳を傷つけた。
夜が深まるにつれ、孤独は重みを増していく。
俺は自分のTwotterのアカウントを開いた。
タイムラインには、深夜特有の、脈絡のない呟きが流れている。
美味しいラーメンを食べたという報告。
仕事の愚痴。
推しのアイドルの写真。
そして、幸せそうな家族の夕食の風景。
「……気持ち悪い」
幸せを誇示する言葉たちが、毒虫のように俺の視界を這い回る。
昨日までの俺も、ここに「美咲が作ってくれたケーキ」や「結婚記念日のレストラン」の写真を上げていたかもしれない。
それを見た誰かが、今の俺のように吐き気を催していたのだろうか。
「いいね」というボタン一つで繋がった、薄っぺらな承認の世界。
俺も、美咲も、その偽りの平穏の中にどっぷりと浸かっていたのだ。
美咲からの着信が鳴った。
液晶に表示される「美咲」の二文字が、脈打つ心臓のように明滅している。
俺はそれを無視し続けた。
十回、二十回。
鳴り止んではまた鳴り始める、執拗なまでのコール。
彼女の焦りが伝わってくる。
「すべてを失いたくない」という、保身に満ちた焦燥。
彼女が本当に愛しているのは俺ではない。俺という「安定した生活の基盤」を失うことが怖いだけなのだ。
朝が近づき、窓の外が薄っすらと白み始めた。
結局、一睡もできなかった。
俺はシャワーを浴び、ホテルの不味いインスタントコーヒーを口にした。
舌を焼くような苦味が、少しだけ思考を明瞭にする。
今日は、会社に行かなければならない。
どんなに人生が壊れていても、システムは止まってくれない。
サーバーを監視し、コードを書き、クライアントの要望に応える。
それが、今の俺に残された唯一の「現実」だった。
だが、この状態でまともな仕事ができるとは到底思えなかった。
俺は荷物をまとめ、チェックアウトのために部屋を出た。
フロントの男性は、俺の死人のような顔を見ても、機械的な笑顔で「ありがとうございました」と言った。
外に出ると、通勤ラッシュの冷たい空気が俺を包み込む。
駅へと向かう群衆の中に混じりながら、俺は自分が透明人間になったような感覚に陥った。
誰も、俺が昨夜、十年の愛を失ったことなど知らない。
誰も、俺が死にたいほどの絶望の中にいることなど気づかない。
駅のホームで電車を待っていると、不意に視界の端で、一組のカップルが目に入った。
大学生くらいだろうか。
男が女の肩を抱き、女は恥ずかしそうに笑っている。
その輝かしいほどの幸福感が、今の俺には凶器でしかなかった。
「お前らも、十年後には地獄を見ているかもしれないぞ」
そんな醜い呪いの言葉が、喉元まで出かかって、俺は慌ててそれを飲み込んだ。
会社に着くと、デスクの上には昨日と変わらない光景が広がっていた。
ディスプレイ、キーボード、そして山積みの資料。
「おはよう、伊沢。顔色悪いな、大丈夫か?」
隣の席の同僚が、コーヒー片手に声をかけてくる。
「ああ、ちょっと寝不足でね。大丈夫、仕事はできる」
俺は無理やり、仕事用の仮面を被った。
美咲に見せていた仮面よりもずっと厚く、冷たい仮面を。
午前中の会議は、地獄だった。
プロデューサーが今後の開発スケジュールについて熱弁を振るっているが、その声は遠くの騒音のようにしか聞こえない。
俺は議事録を取るふりをして、手元のメモ帳に「達也」という文字を書きなぐっていた。
「伊沢さん、どう思いますか?」
不意に振られた質問に、心臓が跳ね上がる。
「……ええ、その、リソース配分を再考する必要があるかと」
適当な答えでその場を凌ぐ。
かつては「優秀なエンジニア」として信頼されていた俺が、今や一言を発するのにも必死だ。
昼休み、俺は逃げるように会社を出て、近くの公園のベンチに座った。
冷たい風に吹かれながら、ぼんやりとスマホを眺める。
美咲からの連絡は、まだ続いている。
だが、その中に一つ、彼女からの長いMINEがあった。
『研二さん。
本当に、本当にごめんなさい。
私がどんなに謝っても、許してもらえないことは分かっています。
達也さん……あの人とは、もう連絡を絶ちました。
目の前で連絡先も消しました。
彼も、「君の家庭を壊すつもりはなかった」と言って、すぐに逃げるような人でした。
私は、なんて愚かなことをしていたんでしょう。
研二さんがどれだけ私を大切にしてくれていたか、失いかけて初めて気づきました。
お願い、一度だけでいいから、お家に戻ってきてください。
顔を見て、謝らせてください』
読み進めるうちに、腸が煮えくり返るような怒りが湧き上がってきた。
「連絡を絶った」?
「彼も逃げるような人だった」?
つまり、あの男に捨てられたから、俺のところに這い戻ってきたというわけか。
もしあの男が「一緒に逃げよう」と言っていたら、彼女は今頃どこにいただろう。
俺への謝罪すら、二番手の選択肢でしかないのだ。
「ふざけるな……」
俺はスマートフォンの画面を消し、強く握りしめた。
指先が白くなるほど力を込めても、この怒りは鎮まらない。
彼女が流している涙の価値は、俺が昨夜流した血を吐くような涙の、百分の一の価値もない。
その時、スマートフォンのバイブレーションが再び鳴った。
美咲ではない。
表示された名前は、「サトル」だった。
大学時代からの親友で、今は広告代理店に勤めている男。
俺の異変に、彼はいつも敏感だった。
「……もしもし」
俺は掠れた声で電話に出た。
「よう、研二。今、昼飯か?」
サトルの明るい声が、刺さるように痛い。
「ああ。公園でパンを食べてるところだ」
「嘘をつけ。お前の声、死人みたいだぞ。昨日、何かあったな?」
サトルの直感は、恐ろしいほど正確だった。
俺は一瞬、何も言わずに沈黙した。
彼にはすべてを話せる。彼なら、この泥沼のような俺の心情を、受け止めてくれるかもしれない。
だが、言葉にしようとすると、喉の奥に熱い塊が詰まって出てこない。
自分の妻が不倫をしていた。
十年の結婚生活が、嘘だった。
その事実を口にすることは、自分の人生が完全に失敗だったと認めることに等しかった。
「……サトル。俺、どうすればいいか分からないんだ」
絞り出すようにそう言うと、電話の向こうでサトルが息を呑むのが分かった。
「研二……。今夜、空けとけ。仕事が終わったら、いつもの店に行くぞ」
「でも……」
「いいから来い。お前の顔、直接拝まないと俺が落ち着かないんだ」
サトルの強引な誘いが、今の俺には唯一の蜘蛛の糸に見えた。
「わかった。……ありがとう」
電話を切った後、俺はしばらくの間、動けずにいた。
美咲、サトル、達也。
俺の周りの人間たちが、急速に入れ替わっていくような感覚。
昨日まで「正解」だと思っていた世界が、完全に崩壊した後の荒野。
俺はそこで、何を杖にして歩けばいいのか、まだ見つけられずにいた。
空を見上げると、冬の訪れを感じさせる高い雲が、ゆっくりと流れていた。
あの雲のように、俺の痛みも流れて消えてくれればいいのに。
だが、現実は冷酷だ。
美咲との十年間という、重すぎる「嘘」を背負ったまま、俺は今日という日を生き抜かなければならない。
俺は重い腰を上げ、会社へと戻る。
背後で、美咲からの新しいメッセージが届くバイブレーションが鳴ったが、俺はもう、それを確認する気力すら残っていなかった。
嘘で塗り固められた十年の、その先にあるのは、さらなる嘘か、それとも救いのない真実か。
俺はただ、暗い迷宮の中を一歩ずつ、這うように進むしかなかった。




