眼帯を帯びた人間について思う
「この修道院の壁の中には死体がある、という噂をご存知ですか」時田さんは言った。「市井で人間の悪意の中で生きた人間がこの修道院に逃げ込んで、そして結局耐えられずに自死したというんです。その死体が今も壁の中に閉じられていると。壁から人間の血が浸み出して来る幻覚が見えたという修道僧もいるくらいです。案外本当の話かもしれません。我々修道僧も山奥で静かに暮らしながら戦っているんです。あなたと娘さんはその死体を探し当ててしまった。この修道院の壁に埋められているという死体を探り当ててしまった。私たち修道僧が日々、その死体を弔いながら生きていることを知ってしまった。イエスの言葉に耳を傾けて祈りを捧げてください。共に祈りましょう」
よろしくお願いしますと僕は頭を下げた。
凛子が言った。『よろしくお願いします』というタイミングで「よろしくお願いしません」と。僕は凛子の底意・毒を聞き分けた。娘は、よろしくお願いしませんと言った。つまり年長の時田さんは恋愛でもセックスでも対象にはならないと明言した。『あんたにはよろしくお願いしません』と。
僕は人間を悪意の側から捉えるようになったのは凛子が人の底意・毒という悪意を持つ年になったからかと気づいた。凛子も既にあっち側の人間かと。凛子は人間の悪意を受けることに耐えた。次は凛子が悪意を浴びせかける『番』が回って来たのだと。いや、と僕は激しく首を振った。それは悪霊がいかにも人間に与えそうな考え方だ。
時田さんは静かな表情をした。僕は自分が離婚後に受けた孤独という仕打ちを思い出した。凛子と母親が僕を無視し、手紙も何もかも拒絶していたあの仕打ち。あの人間の悪意から僕はカントリー・ワイズなどといった小賢しい知恵をつけ、毎日を機械的に生きることで生き延びた。僕はついにはクリスチャンになるまで追い込まれた。
僕は時田さんが凛子に何らかの報復をするのではないか、と怖れに駆られて修道院を後にした。時田さんは凛子に報復をしなかった。それどころか時田さんは凛子の受けたいじめを聞いて、凛子を励ましすらした。時田さんは本物のクリスチャンだった。時田さんは凛子を『赦した』。
区界高原から市街地に戻るバスの中で、僕は凛子と会話した。
「中学校で一人暮らしをしてる男の子がいたの」凛子は言った。「父親が会社の経営をしていて、その男の子の母親は愛人だったんだって。それで父親は愛人の息子に管理するアパートの一部屋をぽん、とくれたの。その男の子は一人暮らしのその部屋に入り浸って、中学校の素行の悪い人間もその部屋に集まるようになって毎日暮らしてるんだって。イケメンの男の子なんだけど、そのまわりの環境が悪すぎて女の子は誰も近よらなかった」
へえ、と僕は言った。「さては、その男の子が初恋の男の子だって話だな」
「全然、違います」凛子はびしゃりと言った。「今、お父さんに勧められてジブリ映画を観てるけどあのスタジオは一度、潰れたんだって。知ってた? 高畑監督っていう人が『かぐや姫の物語』のアニメを五十億円以上かけて作ったんだって。それで映画はヒットしなくて、スタジオ・ジブリに戻って来たお金は五億円もなかったんだって。大赤字でしょ。高畑監督は宮崎監督が作ったすごい黒字を食いつぶしてしまったの。そしてそのまま死んじゃったんだって。そういう死に方って気楽だよね。あのスタジオは今、借金に塗れてアニメを作っているらしいよ」
「へえ、どこからの情報だ? アメリカのCIAからの機密情報か、『宮古市広報』からの情報かどっちだ?」
「どっちも全然、違います」凛子は軽口を言われて顔を顰めた。「ユーチューブからの情報です。『宮古市広報』なんて誰と誰が結婚して子供が生まれたかしか見ないよ」
やっぱり女の子だな、ゴシップが好きなんだなと僕は思った。でも凛子はこの頃、元気になってきた。中学校に通うのをやめて僕の家にたくさん来て、たくさん喋るようになった。子供は立ち直るのが早い、と安堵する。
不登校とは――。不登校は眼帯を帯びた人間を僕に思わせた。僕は想像する。片目を病み、眼帯を付けるのだろうが、その眼球は治癒されるのだろうか。片目が見えなくなったら距離感が掴めず不自由だろう。運転免許も取れない。僕は凛子が謂わばそんな目を病む患者となることを怖れてきた。僕はその眼球の治癒を百パーセント、神様に委ねる。凛子がこの人生で病んだ片目が治りますようにと祈る。そして眼帯を帯びた人間を思う――。