旧い時代の百円札を思う
台所で食料品を冷蔵庫に入れ、居間に入ってテレビを点けた。
昼の主婦向けのニュース番組で飴細工のレポートをしていた。一つ一つ結構大きいですが食べられるんですよ、とレポーターが言う。するとスタジオの女性キャスターが口を開いてフェラチオする振りをした。『結構大きいですが食べられる』ものとしてキャスターは男性性器を食べる振りをした。僕にはそのキャスターの底意・毒が全く理解できなかった。
シャワーを浴びて注意深く汗を流してから、理髪店に入って髪を切った。前に屈んでのシャンプーが終わった時、店員が「お疲れさまでした」と言った直後に囁いた。(下がれ!)と命令口調で。聞こえていないと思って言ったのだろうが僕には聞こえていた。
僕は家のドアを閉めて玄関で蹲った。外で受けた精神の痛みに耐えられず、人間の底意・毒が理解できず、体を丸めて耐えるしかない。
僕は凛子が語った内容を咀嚼できるようになった時、奇妙にも人間の悪意が見えるようになった。そうか、と僕は寂しかった。これが人間の底意・毒かと。毎日浴びせられる人間たちの底意・毒・悪意。その面から人間を見るということが我々には出来る。世の中の優秀な人間はその学歴によって力尽くで人間の悪意を抑え込もうとしているのかもしれない。しかし、それで抑え込まれるほど人間の悪意は簡単ではない。悪意はもっと執拗にねっとりと人間に絡みつく。
週末に凛子が家に来た。不安障害の症状は薬で強引に押し込めて、凛子はもう学校に行くのをやめていた。
その方がいい、と僕も賛成した。僕は凛子を伴って宮古市、区界高原の山の中を訪ねた。我々は元サナトリウムの修道院を訪れ、そこで祈りの日々を送っている時田さんに会いに行った。
僕は時田さんを見た瞬間に、疲れたよと言った。もう疲れた、時田さんは人間の悪意をどう思いますかと僕は尋ねた。
「人生にある人間の悪意に耐えることが出来るのはイエスのみです」時田さんは言った。「イエスを信仰する者だけが人生の悪意、人間の暗いエゴ、飲み込むことのできない人生の悪意を、イエスに委ねて生きられるのです。我ら修道士には沈黙の行があります。言葉を断つことで自らの底意・毒を封じるのです。戦っているのはあなただけではありません。教会に通いなさい。あなたは市井に残って娘さんを育てなければなりません。人間の毒のような悪意を浴びつつ娘さんを護るために生きなければなりません」
「僕にそれができるでしょうか。昨日、僕は相撲を見ましたが、あの人間のエゴが土俵の上でぶつかるプロセスがきつく感じられたんです。人間は人間の悪意を愉しんでいるようにさえ感じられます。自らが悪意を受けるのではなく、自らが悪意を放つ側の人間になり、あるいは見物する側になることで人間は人間をいたぶり、愉しみ生きるのではないかと」
そのとき僕はふと旧い時代の百円札について思った。現代ならば一万円もの価値があったその札が現代では百円の価値しかない。経済成長とは人間を傷めつけるシステムだ。付いていけない人間たちを百円札のように振り落としていく。僕は旧い百円札の一人として凛子を護って生きなければならない、と知る――。