銃弾を受けた長い髪の女を思う
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凛子は教会には通わなかったが、僕が指導する男子バスケット部のマネージャーになった。
凛子の中学の、元仲間たちは高校生のグループにまでは悪意を吹き込めなかった。僕は凛子を同学年の横の繋がりにではなく、高校生という縦の繋がりの中に導いた。高校三年生の女子マネージャーがすでにいたのだが、その女の子が中学生の凛子を珍しがって仕事を教えてくれた。僕は時々、教え子たちに靴と靴下を脱いで中庭を歩かせた。ツツジの植込みがある中庭の芝生の上を皆で話をしながら裸足で歩く。人間がこの地球の大地に温かく触れ、触れ返されるという感覚を僕は教え子たちに覚えていてほしかった。どうか、これからの人生を人間の悪意を受けたとしても歩み続けてほしいと。
僕は芝生の上の少年少女たちの姿をよく目に焼き付けた。高校生たちの中で凛子が一番、燥いで笑っていた。それはどういう感覚だったのだろう。かつて自らに降りかかった人間の悪意を赦すことが出来たのか。それとも忘れることができたのか。
一年生部員に混じってナンバーリングのシャツを手洗いしている凛子を見ながら、僕は高校生の教え子たちに〈うちの凛子を頼む〉と言ったことを思い出す。娘は高校生たちに「リコ、リコ」と呼ばれて日々マネージャーの仕事を覚えている。最近は高校生たちにラーメン屋にも連れて行ってもらったようだ。この高校に入りたい、と凛子は家で中学の勉強をするようにもなった。父親の僕が仕事を捨ててまで選んだバスケの指導者の道を凛子は理解してくれた。凛子は幼かった頃の自分が父親に捨てられたという現実と和解できたのだと思う。両親の離婚という現実と和解できた時、凛子にとっての問題は解決したのだろう。だがきっと凛子は解決などしなくてもきちんと生きることができた。芯の強い子だ。
凛子と僕は自転車に乗って高校から僕の家まで走った。岩手の秋の末で、夕方を過ぎるともう空気は冷たかった。夜空に一番星が見え始める。自転車で風を切りながら中華料理屋の前を通った時、
「ラーメンの匂い」凛子は声をあげた。
「美味そうだろ、教え子たちと一緒に時々ラーメンを食うんだ。うらやましいだろ」僕は答えた。
「あたしもこの前、食べに行ったもん」凛子は答えた。そしてカラオケ屋の前を通り、コインランドリーの前を通り過ぎた。
今日、僕は十年ぶりに父親のもとに居ついてくれた娘のために夕飯の準備をする。今日は鉄板の焼肉の準備をする。僕は肉と野菜の用意に追われて嫌なことをすっかり忘れていた。かつて僕と凛子が被った人間の悪意についてなど頭の中から消えていた。そんな些末な問題などどうでもいい。教え子たちと一緒にあの足の裏に感じた芝生の感触なら僕は思い出せる。そして僕は今日の焼肉の牛脂をどこで手に入れたものかと考えていたことも思い出せる。
凛子と僕は家に帰り着いて自転車に鍵をかけた。凛子が玄関の戸を開ける。タイマーで炊いた白米の匂いが廊下に漂っている。
「お腹空いた」凛子は言った。「昼におにぎり三個食べたけどもうラーメン食べられるよ」
「今日はラーメンじゃなくて焼肉な」僕は答えた。「日が暮れるのが早くなったよな。六時ちょい過ぎてもう暗いぜ」
「お父さん、手を洗ってうがいしてよね」
凛子はマネージャーらしくなってきた。
今という時を生きている。凛子も僕も、全ての人間たちも。きっとそれでいい。その日の飯の支度について思い、その日の為すべき業について思い、一日が終えられていく。人間はきっとそれでいいんだよ、と僕は自分に言い聞かせた。
僕は台所に鉄板の用意をした。プラグをコンセントに繋いでスイッチを入れ、炊飯器からご飯をよそう。凛子が「腹減ったぁ」と言いながら居間から歩いて来る。
日常とは――。日常は銃弾を受けた長い髪の女を僕に思わせた。僕は想像する。悪意の銃弾を胸に受けて女が背中から倒れる。はらりと黒髪が舞うように女は美しく倒れる。だが生きることがそんな美的なことかよ、と僕は思う。生きていれば腹が空く。飯も食う。風呂にも入るし歯も磨く。便所にも行く。傷ついて痛んでいる時間がもったいない。我々の日常はもっと濃密なはずだ。悪意の銃弾を受けた長い髪の女を頭の端に追いやる――。