草原世界は広いようで狭い
エレグセグは外の世界を観たがっていた。草原には目に見えない境界線がそこかしこにある。厄介極まることに、境界線は季節ごとに移動する。夏場あの湖を使っていいのは、ここの氏族。冬場は、それ以外の氏族も使うことが許される。但しその割合は・・・、といった具合。
「息苦しい」
と声にならぬまま呟くと、エレグセグは春先の宿営地へと馬に乗って移動する。宿営地の外では日が暮れてくると気温も落ちてくる。おまけにひっきりなしに吹いてくる季節風が体を刺す。暖かな馬乳酒の一杯が恋しくなってくるものの、では宿営地に戻りたいのかというとそうでもない。自分の居場所がないからだ。仕方なくわざと大回りした道のりを選んでいた。それでも馬を駆ければ、一刻と掛からぬ距離ではあるのだが。
太陽は地平線の彼方へ半分ほど沈んだ。いざというときに明かりとするための乾いた牛糞もあるにはあるが、なるべく使いたくない。生まれつきの性分なのか、乗っている馬から出た糞は必ず持ち帰るという変な癖もあった。確かに家畜の糞は燃やせば明かりとなる。それにこの地方の家畜は草ばかり食べているので、あまり臭いもしない。だがそれにしても度を越したケチである。
ホぉと馬へ掛け声をかけ、丘を登らせた。ここら辺の山や丘であれば、目を瞑っていてもどこら辺に居るか解る。子供の頃は、男友達や兄たちと一緒に草原を駆けまわったものだった。何よりも狩りを好み、たった独りで狼を仕留めたことすらある。
一族が春先の宿営地として選んだ土地は、『金の皿』と呼ばれている。南北に円錐形の山があり東西を稜線のある地形に囲まれているため、北西から吹いてくる季節風に悩むこともない。匈奴の土地では、春先の季節風といっても半端なものではなく、最悪人や馬が吹き飛ばされることもある。条件の良い宿営地は争いの種だ。実際、何代か前に隣の氏族から力づくでこの土地を奪い取ったと長兄から聞いた。丘の稜線にたどり着くと、眼下には宿営地が広がっている。
数百はあろうかと思われる白い饅頭じみた建物。この地方の人間はゲルと呼ぶ。天窓から竈の煙が立ち上り、それぞれに合流して霞んだ雲のようになる。無数のゲルから天窓の煙が立ち上る光景は、何度見ても悪いものではない。確かにこれ以上ないくらいの立地だわね、と独りごちる。
稜線の外側には、新たに切り開かれた農地が点在していた。住まいもゲルではなく、中原の農民たちが住んでいるような掘っ立て小屋だ。この高さからだと蟻が蠢いているようにしか見えないが、夕暮れ時になってもまだ農民たちは働いている。そういった連中は中原から攫ってきたか、或いは秦の支配から逃れてきた旧六国出身であるとエレグセグは聞かされていた。
もうじき日が暮れるからか、羊や馬の群れを連れて来る遊牧民の姿も見える。白い点は羊だろうか、毛の白い馬か、或いは山羊かも知れない。茶色の家畜は馬か駱駝だ。家畜には一頭一頭焼き印が押されており、どの氏族の所有物なのか解るようになっている。最近では数を示す文字を焼き印に入れることが多くなってきた。「三十」とか「四」などといった文字があれば、管理がしやすい。全て中原の民から伝わってきたやり方だった。宿営地の近くに連れてこられた家畜の群れは柵の中に追いやられる。各氏族でゲルの近くに木製の柵がはられている。
『金の皿』の中心部には、土壁で囲まれた一角も見える。中原の民が建設中の長城をそっくりそのまま真似たような土壁が、それこそ1里か1里半は連なっており、土壁の中は一段高い壇のようになっている。その壇に上る為の階段が10数段か20段ほどあり、壇の上には巨大なゲルが設営されていた。どう考えても戦国七雄の都、分けても秦の咸陽あたりにある巨大な宮殿を猿真似した様にしか見えず、そういう風に見れば滑稽ですらある。だが中原の都など見たこともないエレグセグには、ただただ威圧的なものに映る。恐らくこの宿営地に住まう大抵の者にとっても同じだろう。ああここがこの地の権力者の住まいなのだな、と解るような大きさの巨大なゲル。これからエレグセグが向かう先もそこであった。
自分が部族長の娘であるという事実が、エレグセグの肩に重く伸し掛かっていた。
何故私の父が部族の長なんだろう、生まれが違えばもう少し違う生き方も出来たのでは、という思いばかりが募る。匈奴の部族長たる単于が父親とあらば、結婚する相手ですら生まれる前から決められてしまう。結婚とは家同士の繋がりであり、だからこそ家柄が釣り合わないとそもそも結婚できない。こうして本人の意思とは無関係に、氏族や家門同士の力関係によって決められてしまう。あとは娘を送り出す側が相手方から期待しうる持参金、この金額一つで最悪揉め事すら起きる。これでエレグセグが社会の仕組みにすんなりと収まる性格であれば話も違ってきただろうが、彼女は決まり切った枠に嵌め込まれるのを何よりも嫌った。数えで16歳だというのに未だに独身を通しているのは、こういった理由によるものだった。だから一族が集まる場では、肩身が狭いといったらない。血筋を絶やさぬためにも子供を産め、という圧力は現代の比ではなかった。乳幼児死亡率が現代とは比較にならないほどに高く、五歳になるまで生き延びられるのは数人産んで独りいるかどうかといった所。幼かった頃によく一緒に遊んでいた女友達は、皆結婚して子供を産み育てている。もしくは早くに亡くなっていた。結婚した当初こそ、友達のゲルへ遊びに行ったりもしたものだ。だが子供を産んでかつての友達が徐々にそれぞれの家庭へ馴染んでいくに連れ、エレグセグも次第に脚が遠のいた。
夕暮れ時ともなれば、それぞれのゲル周囲で奴隷たちが忙しなく食事の準備をし始める。中原の民もいれば、西域から買われた奴隷もおり、中には肌の色が黒いものもいる。山並みに囲まれているおかげで風もそこまで強くなく、夕餉を作るために外で働く奴隷の傍ら、主人たちは酒を呑みながら会話を楽しんでいる。そういったゲルが雑然と立ち並ぶ中、エレグセグは急に馬を急がせた。昔祖母が好んでゲルを建てていた場所に近づいたからだった。楽しかった頃の思い出が多すぎる。
祖母のゲルへ用もないのによく遊びに行った。祖母は何も言わずにエレグセグを受け入れてくれた。4,5歳で死別してしまった自分の母親代わりを求めていたのかもしれない。ゲルを支える柱が2本しかなく、召使いときたら高齢の未亡人が2,3人きりと、単于に連なる身分にしてはとても寂しいものだった。だがエレグセグがいつ来ても暖かなミルクを差し出してくれたり、一緒に編み物をしようと言ってくれたりした。変わり者の彼女にとって、代えがたい自分の居場所であった。
だが祖母は一昨年の冬を越せなかった。
誰よりも早く起きて自分の財産である家畜へ餌をやることを生き甲斐としていた祖母は、ある日昼時になっても寝たまま起き上がることもなかったのだった。不審に思った召使いが確かめると、既に息絶えていた。
今はエレグセグにとって二番目の兄夫婦がその場所を使っている。祖母が使っていたゲルとは比べ物にならない程に大きい。毎晩どこかの氏族長がここに訪ねてくる。二番目の兄が一体どんな会話をしているものやら、エレグセグには想像も付かなかった。
エレグセグはゆっくりと時間をかけて、土壁に近づいていく。近づくにつれ、土壁から拒まれているような妄想に捕らわれそうになる。この大きいだけで暖かみのない土壁には、幼いころからいい思い出がない。土壁に沿って馬を歩かせ、扉がある南門へ向かう。中原の城門をそのまま小型にしたようなシロモノであり、部族長である父がどれほど中原へ憧れているのかが感じられた。衛兵がエレグセグの顔と馬を確かめると、中へと通される。馬役人へ自分の馬を預け、基壇への階段を上っていく。階段の両側にはテングリの神々を称える彫刻が彫られていた。テングリの神々の下、偉大なる単于によって我々は沢山の家畜に恵まれている、そういう意味合いの彫刻であり、これもエレグセグが滅多にこのゲルに近づきたくない理由の一つだ。だがエレグセグの父の代に匈奴が勢力を増したのは、確かに事実ではあった。
匈奴の単于にしてエレグセグの父、トゥメン。トゥメンとは元来が1万という意味であり、そこから転じて何万人もの軍隊を出すことが出来る集団という意味にも使われる様になった。その気になりさえすれば10万もの軍勢を動員することすら出来る部族長の呼び名として、この上なくふさわしい。だからこそ当代単于はトゥメンと呼ばれるのだ。
基壇を上がりきるとひと際目立つゲルが目に入る。柱だけで10本は下らない大きさだった。大体4人家族の使うゲルで柱は1本あれば十分。何万という家畜を持つ大氏族であっても、ゲルの柱の本数など4,5本が通り相場だ。だからこの大きさだけで、観る者を圧倒せざるを得ない。通常は真っ白なフェルトの生地で覆われているゲルの側面には、ゴテゴテと様々な刺繍が施されている。単于がどれだけ自分の力や財力を誇示したいのかが一目で解った。おまけにハールガと呼ばれる扉には無意味に金色の刺繍などが施されていて、その生地も矢鱈と分厚い。当時流行った歌の一節に
”こぶし程の厚みの生地に住めれば天国のよう”
というものがあった。ハールガの厚みがそのまま暮らし向きを表しており、であればこの扉の生地の厚さが何を意味するのか一目瞭然だろう。小さなゲルであれば、客人が自分でめくって中に入るものだが、大きなゲルだと扉をめくる作業一つに奴隷が必要となる。出入りする人間のために扉を内側から開け閉めする、その作業だけを仕事とする奴隷が。
漸くハールガがまくりあげられて中に入ると、別世界のように暖かい。エレグセグは自分の外套を思わず脱いでしまった。これも普通のゲルではあり得ないことだ。竈はゲルの中心に設置されている。普通は一台だけだが、これほど巨大だとそれでは追いつかないのか、四角形を為すように四台置いてあった。艶やかな衣装を着せられた女奴隷が、優雅に内輪のようなもので仰いでいる。恐らく興が乗ってきたら、何か躍らせるつもりなのだろう。男どもは喜びそうだが。彼女が仰いでいるのは、竈の上に置かれたお香の木々だ。基本的に皆風呂に入らないので、比較的密閉されたゲル内部に人間が沢山いるとそれだけで臭くなる。その臭いを誤魔化すためのお香だ。
出入口がゲルの南側だとすれば、テンゲルの神に捧げる供え物などが並べ立てられた祭壇はゲルの北側だった。これまた何処かから手に入れたであろう交易品なり獣の毛皮などが誇らしげに飾られている。
食事するための席は、男と女で分かれていた。単于を始めとする男どもは祭壇から向かって右側の毛皮の周りに座り、エレグセグたち女衆は向かって左側の毛皮の周りに座っていく。座る位置にも気を付けないといけない。入口からみて一番遠くの位置に目上の人間が座り、出入り口に近い場所には下っ端が陣取る。場合によっては、下っ端が給仕の代わりをしないといけないこともある。このゲルには給仕専用の召使いがいるので、エレグセグは何も言わずに末席に座ればいい。腰を下ろすやいなや、隣に座っていた長兄の嫁から、随分遅かったわね、と嫌味を言われる。この嫁はエレグセグよりも2歳若かった。だがそうは言っても長兄の嫁として、妹としての分を弁えないといけない。だから何を言われても無表情を通すに限る。何か言い返せばそれだけ自分の立場が悪くなる。
単于トゥメンが妻たちへ産ませた子供は大抵早くに死んでしまい、大人になれたのはエレグセグを含めて4人しかいない。エレグセグ以外は皆男だった。長兄のバートゥル、次男のテムーレン、三男のグダワルジ。末の兄であるグダワルジですら、7歳は年が離れている。この三人のうち、だれが単于となってもおかしくはない。単于の兄弟は既に皆死んでおり、トゥメン自身も齢50に差し掛かろうとしている。草原の世界では、いつ死んでもおかしくはない年齢だ。だから今は、政治的に微妙な時期である。この時期に家族で集まるとなると、必然的にいろいろな意味合いを帯びてくる。
恐らくは長兄のバートゥルが運びこませてきたものだろう、男たちが座る敷物の前には大きな地図が掲げられていた。まず曲がりくねった黄河が中央部に配置され、上流部分が大きく北へコブのように突き出している。黄河のすぐ北には、茶色の点線が描かれている。これは建設途中の長城を示したものだろう。一方でコブのように突き出した黄河に囲まれた土地は赤く塗りつぶされており、黒い線が描かれていた。
トゥメンが北側へ南向きに座り、その対面にはバートゥルが座る。トゥメンの左右にはテムーレンとグダワルジがそれぞれ陣取る。余り距離を取るのも大人げないと思っているだろうが、それでも膝が付くほどに近づくことはない。互いに信用していないのが見て取れる。だからこそ何かあればいつでもはせ参じる事が出来る様に、今もゲルの外にはそれぞれの配下が馬から降りた状態で待機しているのだった。
敷物の中央には、昼頃に絞めたばかりの羊肉が湯気を立てた状態で皿の上に置かれているが、誰も自分から手に取ろうとはしない。その羊肉を勧めるのは、単于の仕事だ。勝手に取ろうとすれば主人の顔を潰すことになる。
今のところはバター茶片手に話しに華を咲かせている。この前の冬はヒョウが降ってきて大変だったとか、西の部族でもこれからごたごたが続きそうだとかそんな話である。だが食事も揃ってきた所で、
「おい、お前ら、折角なんだから俺の出したものに手を付けんか」
とトゥメンが切り出した。食事の始まりである。
いつの間にかやってきた召使いが中央にある羊肉を切り分けようとするも、ああいいよ俺がやるから、といってトゥメンに追い払われる。これから微妙な話し合いになるから席をはずせ、という意味合いが含まれている。雰囲気が変わったためか、トゥメンには誰も自分から話しかけようとはしない。
「昔からウチの食事ってのはこうだな」
とトゥメンは独り言ちながら、自分用に羊肉を切り分ける。
「おい、お前らも羊肉が食いたくないのか?」
そう促されてから始めて、バートゥルを始めとする息子たちは毛皮の中央に置かれた羊肉の皿へと近づいて行った。皿は鉄製であり、蝋燭からの光を反射している。ゲルの主人にして匈奴の部族長であるトゥメンがこの羊肉を切り分けるのだった。この切り分けという作業はゲルの主人の義務であり、権利でもある。どこの部位をどれほど差し出すのかで相手を尊重する意味合いが生まれてくる。
皆でこうして食事をするのも久方ぶりだな、とトゥメンは煮込まれた羊肉を小皿に取り分けてから、まずはバートゥルに片手で差し出した。対するバートゥルはその小皿を両手で恭しく貰う。次男のテムーレンや三男のグダワルジにも同じように羊肉を取り分ける。
トゥメンの召使から注がれる馬乳酒には、まずグダワルジが手を付けた。
「そうだそうだ、グイと呑め。どうせ何も入ってないぞ」
とトゥメンが余計なことを言い、グダワルジが飲み干したのを見てからテムーレンが口を付ける。バートゥルはそれでも一切吞もうとはしなかった。ところで今日この面子を集めたのは、どういう意味合いなんですかね、と話すのみだ。トゥメンは顔を曇らせながら、家族で食卓を囲むってだけだろう、とだけつぶやいた。だがそれでもバートゥルは馬乳酒を呑もうとはしない。そうしたバートゥルをまだまだ青いなと思いながら、トゥメンは地図に目をやって言った。
「この無粋な地図を掲げたのはお前か?」
するとバートゥルは、はいそうです、とだけ応じる。そんな事だろうとは思っていたがな、下を向いて羊肉を食べつつ、指についた脂を毛皮にこすりつける。匈奴の食卓では別に無作法なことではない。
「それにしても季節外れに面白いことをしているな」
とだけトゥメンは呟いた。
”春先なんて季節外れの時期に黄河を南下するというのは、一体なにが目的なんだ”
とバートゥルへ聞いているのだった。伝統的に匈奴が黄河を南下するのは、表面が凍って家畜も肥え太る秋から冬場に掛けてだ。春先に襲撃して家畜ではなく導術士や中原の民を攫うなど、バートゥル以外にやった者はいない。
いつの間にか食卓を運ぶ奴隷たちはゲルの外へいなくなっている。政治的な話しあいの場には、居合わせないのが一番安全だと誰もが承知しているからだ。
安心しろ、どうせこの場には身内しかおらん、腹を割って話せ。そういうトゥメンの顔からは表情に貼り付けられた笑顔と、笑っていない両目しか見えない。
「私に何か尋ねたいなら、テムーレンとグダワルジは要らないでしょう。」
「家族だろう?お前ら全員、同じ俺の息子たちだ。それともコイツらには聞かれたくはないのかな?」
テムーレンとグダワルジはそのまま黙って羊肉を食べ続ける。なるべく単于の方は見ないようにする。面倒な話し合いになってきたのは間違いなく、何か言えば後々まで残るだろうからだ。
「導術です。導術士が欲しいんですよ。一人でも多く。欲しい。以前から単于にも申し上げているではありませんか!」
「それだけの為に南下するほどのことなのか?」
黄河は秋ごろから春先に掛けて凍り付く。春先の解氷の仕方が問題だった。下流のほうが水温がf高い場合には、解氷は下流から比較的穏やかに進む。
しかし上流のほうが温度が高い場合には、上流から流れ込んでくる大量の水が行き場を失って大洪水となってしまう。すると黄河を渡ったはいいものの帰れずに立往生しかねない。
だが単于の言葉を文字通りに解釈する訳にもいかなかった。腹芸で知られる匈奴のトゥメンのこと、家族の食卓の席ですら本音を曝け出すなどという事はあり得ない。
お前は陰でコソコソと何をしているのか、と一族の前で問い詰めているのだった。これはバートゥルに対する牽制でもある。下手なことを考えて、俺の寝首を搔こうなどと思うなよという。
ただ単于という立場は人気商売でもある。ある程度皆の前で格好つけざるを得ない。
「バートゥル、私は心配しているだけだ。戻ってこれなくなる程の危険を冒してまでする事じゃない・・・。」
今も慈悲深い父親の仮面を被りながら、バートゥルを心配する素振りを見せたのはその最たる例だった。
それだけの価値はあります、とだけ言って馬乳酒を漸く飲み干す。少し前のバートゥルであれば、小賢しい芝居を打つな、と怒鳴りつけて場を退席していただろう。だが今はこうした挑発に耐えている。安い挑発に乗っているうちは、人の上に立てないのだと理解する程度には大人になった。
そこに掲げられた地図をご覧ください、とバートゥルは子飼いの部下に運ばせた地図へ手をやる。
バートゥル兄さんは準備がいいね、とテムーレンが茶化すようにいうが、トゥメンは黙っていろという風に目くばせをする。
「それで?」
「つまり今、中原の連中は守りを固めてる訳です。あの忌々しい長城が出来上がったら、おちおち南下することも難しくなる。」
万里の長城は無用の長物といわれることがあるが、それは正しくない。確かに秦の時代の長城は土を突き固めただけの土壁が延々と連なっているに過ぎない。だがその手前には堀が深く、それこそ大人一人が胸まで入り込んでしまうくらいに掘られていた。到底馬で乗り越えられるようなシロモノではない。
「長城が完成してしまえばもう無理だといいたいのか?我らの精兵をもっても?」
「無理だとは申しません。実際我らは強い。ですが3,4年前にあの蒙恬とかいう将軍に、この」
そういってバートゥルは立ち上がって地図の前に立ち、黄河の上流がコブのように曲がりくねった赤く塗られている一帯を指さした。
「一帯を獲られた訳ですから。噂じゃ罪人とか捕虜を移住させるらしいですよ。大がかりな話ですね」
トゥメンがこの20年間、中原へ何度も南下しようとしては失敗してきたのはこの場にいる誰もが承知している。一時など、魏、趙、韓、楚、燕など五か国と組み、十万騎をもって渾身の力で秦へ挑んだこともあった。だがそれでも秦には勝てなかったのだ。そして3年前、秦の蒙恬将軍は30万の大軍勢で、コブのように曲がりくねった黄河上流一帯の高原を制圧してきた。
連中の将軍、やることに無駄がないですね。移住させた囚人を使って、首都の咸陽から一直線に伸びる道まで敷設してるそうですよ。私のところの諜者が報告上げてきました。恐らく首都に繋がる道路沿いに導術士まで配置している筈ですよ。そうなれば我々が何を企もうと、中原は悠々と手を打てるという訳で・・・。
立て板に水のごとく、敵国秦の業績を列挙され、トゥメンは瞬く間に不愉快そうな表情となる。
「何が言いたいのだ」
「秦は中原にある七つの国を一つに束ねました。ならば我々は草原の部族を統一しましょう。長城を超えるのは、それからでも遅くは無い」
草原の諸部族を統一というくだりでトゥメンは大声で笑いだした。トゥメンが笑い声を上げると、大抵大事になる。普段滅多なことで笑わないし、いい加減肺の具合が悪くなってきているために勢いよく笑うと響くからだ。だがこの時のトゥメンは本当に愉快そうに笑った。或いはもう議論を打ち切りたかっただけなのかも知れない。自分がやろうとして無理だった草原世界の統一という大事業を、バートゥルに達成されるかも知れないと恐れたのだった。
「お前は変わっている。鏑矢なんて音を立てる矢を使うのもそうだし、導術士を攫うのもそうだ!そして今度は草原の統一ときたか。随分と秦の皇帝に憧れているんだな、『英雄』?」
最後の一言にテムーレンがいかにも追従といった体の笑いで応じ、単于の後添いの妃も下を向いて体を揺すっている。笑っているのだろう。それ以外にゲルの中にいる人間は誰一人笑おうとしない。言葉の由来を知っているからだ。
匈奴の言葉でバートゥルとは英雄を意味する。彼は確かに英雄だった。西方の部族、月氏へ人質に送られていた幼少期、危うく月氏から殺されかけた所を一頭の馬を盗んで逃げ帰ってきたという伝説の持ち主だからだ。
何故殺されかけたのか?和平の証として月氏へ人質に送られた直後、トゥメンが月氏へ攻め込んだからだ。だからこの「バートゥル」という呼び名には彼自身への賛美と共に、トゥメンへの密かな批判も含まれている。ただ誰もそれを口に出そうとしないだけだ。一説には後添いの妃であるアガールとの間に産まれた息子の方が可愛くなり、そちらを皇太子とすべくバートゥルが死ぬように仕向けたとの事である。或いはアガールこそがトゥメンへそう唆したのかも知れず、真相は誰にも解らない。だが後継者を巡っての殺し合いというのはよく聞く話でもあり、だからこそテムーレンの追従笑いには意味合いが出てくる。何より、テムーレンこそがその後添いの妃から産まれた息子なのだから。
中原の皇帝に憧れてるのは、アンタだろう。そういう言葉を呑み込みながら続ける。
「今我々は西と東の部族に囲まれている。中原が統一された今、草原に三つも部族が相並んでいたらどうなることやら。草原を統一するための布石ですよ、導術士を攫うのも」
テムーレンやグダワルジも内心はバートゥルの言うことに同意しているらしい。というよりも、バートゥルがトゥメンをやりこめているこの場で、彼らは何も言わずに場を眺めて居るだけだった。
「広い草原の離れた場所どうしで一瞬のうちに情報のやり取りが出来るようになれば、ヨソの部族を簡単に出し抜けるようになる。だから幾ら居ても足りないんですよ。今のうちに一人でも多くの導術士を捕獲して、ゆくゆくは我らの手で自前の導術士を育成できるようにしないと・・・・」
トゥメンはバートゥルの目が嫌いだった。これだと決めたら、誰に言われずともやり抜いてしまうその目で見据えられると、自分が狩りの獲物にでもなってしまったような気分になるのだ。もしかしたらアガールから唆されなくとも、似たようなことをしていたかもしれない。だがトゥメンにとって、バートゥルの方が単于に向いているかも知れないという事実だけは認める訳にはいかなかった。それを認めた瞬間、単于の地位を奪われるか、殺されるか。もしくはその両方となる。ともかく何としてもこの場を取り繕う必要があった。
「まぁ、好きにしろ!良いか、みんな。もう難しい話は終わりだ。そら酒を呑め!酒を!」
お香の木々を仰いでいた女奴隷に艶やかな舞を踊らせる。
遊女じみた女奴隷の腰遣いに顔をほころばせるトゥメンを見ながら、
―この親父が単于のままじゃあ、草原の統一なんて夢のまた夢だ
とバートゥルは思った。そんなバートゥルをテムーレンは無表情に見つめている。