7.「ほらね!」と彼女が最期に笑った
ある晴れた日の午後。
転寝をしていた奏はふと夢から醒めた。随分懐かしい夢をみていた気がする。
ふと寝る前には無かったひざ掛けが掛けられていることに気がついて、胸が温かくなるのを感じた。
少しずつ寝ている時間が多くなってきた。
皺が増えた手に時の流れを思う。
あれから長い年月が過ぎた。
気がつけば大分遠くまで来たものだと思う。
初めての恋を棄てたあの日の、あの胸が締め付けられるような感情は未だ名前もつけられずにここにある。鮮明に色褪せることなく、きっと死ぬまで消えることはないのだろう。
けれど、いつしかアレクへの身を焦がすような激情はなくなり、代わりにあるのは穏やかな温かさだけだ。この思いをなんというのか奏は知らない。親愛なのか、友愛なのか、はたまた愛ですらないのか。
ただ、あれほど辛かった思い出も今では穏やかに思い出せるほど自分たちの間には確実に時間が流れていた。それを少し寂しく思ってしまうのはくだらない感傷なのかもしれない。
「馬鹿よねぇ」
笑う奏の胸には深い愛情が満ちていた。
相変わらずローレンツは生真面目そうな顔で本を読んでいる。そこにいるのが当たり前になったのはいつからだろうか。
視線に気がついた彼がこちらをみて怪訝そうな顔をした。
「どうした」
「いいえ?」
奏がゆっくりとした足取りで向かいの椅子に座ると、ローレンツは手慣れた様子で新しく紅茶を淹れた。礼を言って紅茶を一口含むとその芳醇な香りが気持ちをほぐしていく。
「美味しい」
「そうか」
ローレンツはぶっきらぼうに頷く。
再び手元の本に目を落とす彼を見守って、奏はもう一口紅茶を味わった。
あれからずっとローレンツは奏の傍にいた。
辛くて苦しいときも、悲しくて泣いていたときも、嬉しくてはしゃいだときも、何年も何十年も飽きずにずっとだ。
不器用で堅物で真面目で優しい。
いつしかそんな彼に恋をしていた。
二人ともお互いの気持ちに気がついている。
だけど今までがそうであったように、これからもこの思いを口にすることはない。
無駄に義理堅くて融通の効かない彼は、親友の恋人に手を出せるほどに恋に溺れることができない。
例え記憶がなくなって今は別の人と愛し合っているとしても、別れの経緯を知っている彼にとっては、私は『親友の恋人』という立ち位置からずっと変えられないのだろう。
その潔癖さに呆れるが、彼らしいと微笑ましくもある。
だけど自分が死ぬときくらいは言ってやろうと密かに思っている。「貴方を愛している」といったら彼はどんな顔をするだろうか。
今更言うなと怒るだろうか。
それとも何故今なんだと泣くのだろうか。
もしかすると愛の言葉を返してくれるかもしれない。
その時を想像して耐えきれず笑うと怪訝な顔をされた。
「いきなりなんだ」
「ごめんなさい。少し面白いことを思いついただけ」
片眉を上げて先を促す彼を無視して紅茶を飲む。奏に話す気が無いのを悟るとローレンツは眉間に皺を寄せた。しかしそれ以上は追及せずに、小さくため息をついて、また手元の本に視線を戻す。
それを見ながら奏は思う。
あぁきっと。
その時は今みたいに眉間に皺を寄せて黙るに違いない。
それが一番彼らしいと、また小さく微笑って冷めかけた紅茶をもう一口含んだ。