森
校舎の向こう側にある広大な森は、ノルク島の三分の一を占めると言われるこの学院の広大な敷地の、そのほとんどの部分を占めていた。
森の中には縦横に小道が走り、川や池もある。季節ごとに様々な植物や昆虫が姿を見せる。
初等部の生徒が立ち入りを禁じられている森の奥には古代の遺跡があるとも言われており、学院の中でも最も謎の多い場所だった。
庭園を後にした二人は、森の入口へと急いだ。
春を迎えたばかりの気の早い太陽が、もう傾き始めている。
「ウルリケは、森に入ったことはあるの?」
足早に歩きながらレクトが尋ねると、ウルリケは「一度だけ」と答えた。
「面白そうだから行ってみようって誘われて。でも昼間でも暗いし、道はよく分からないし、すぐに帰って来ちゃったわ」
そう言って、レクトを見る。
「レクトは?」
「僕も一回だけ」
レクトは言った。
「森の中でよさそうな遊び場所を見付けたんだけどね。そこはもう二年生の遊び場になっていたみたいで。睨まれたからすぐに帰ってきたんだ」
「そんな動物の縄張りみたいなものがあるのかしら」
ウルリケは呆れたようにため息をついた。
「でもまあ男子なんて、動物みたいなものだものね」
その言葉にうまく反論できずに、レクトは曖昧に頷く。
ウルリケの目には、僕も動物みたいに見えてるんだろうか。
「今日一日で、あっちこっちへ、すごく歩いてる」
ウルリケが疲れたように言った。
「庭園でもずいぶんと歩いたわ」
「そうだね」
レクトも頷いた。
学院に入学してから、色々な授業を受けたけれど、こんなに朝からずっと動きっぱなしの日はなかった。
「大丈夫かい、ウルリケ。少し休むかい」
レクトが尋ねると、ウルリケは首を振る。
「いいわ。森で待っている三年生に悪いもの」
ウルリケからそんな言葉が出るなんて。
レクトは、今日一日での彼女の変わりように驚く。
「レクトこそ大丈夫?」
ほら、こんな風に僕のことまで気遣ってくれる。
「うん、大丈夫」
そう答えながらレクトは頬が緩むのを抑えきれない。そんな彼を、ウルリケは不思議そうに見た。
ようやくたどり着いた森の入り口には、なんだかふかふかと丸っこい男子生徒が立っていた。
ローブの袖からお菓子のようなものを出して、もぐもぐと食べている。
「あっ」
その生徒は、レクトたちが近付いてくるのを見て困ったような顔をした。
「ええと。君たちは」
「1年1組のウルリケです」
「レクトです」
二人が名乗ると、小太りの男子生徒はますます困ったような顔をする。
「そうだよね。ウルリケとレクト。うん、君達の担当はバイヤーなんだけど」
そう言って、森の奥へと続く道をちらちらと振り返る。
「困ったな。あの、別にバイヤーも悪気があるわけじゃなくてね」
もごもごと話すその生徒に、レクトとウルリケは顔を見合わせる。
「君たちを待ってるうちに、我慢できなくなったみたいで、そのちょっと薬草を採りに」
「じゃあ、いないんですか」
ウルリケが言うと、その生徒は額の汗を拭き拭き、頭を掻く。
「いや、きっとすぐに戻ってくると思うんだけどね。あ、そうだ」
そう言って、急にローブの袖に手を突っ込むと、焼き菓子を二枚取り出した。
「おやつ代わりに、これでも食べていてよ」
「え、いいんですか」
「もちろん」
男子生徒の差し出したすごくおいしそうに見えるそのお菓子を二人が受け取ると、森から誰かが出てきた。
「チェルシャ」
男子生徒は救われたような声を上げた。
「バイヤーを見なかったかい」
森から出てきた小柄な女子生徒は、首を振る。
「あ、モーゲン。私は見なかったけど……いないの?」
「そうなんだ。この一年生たちの担当なのに、どこかに行っちゃって。僕の担当の子たちももう来るだろうから、僕はここから動けないし」
「バイヤーの行きそうなところに、心当たりはないの?」
「あるけど、ありすぎて。その中のどこに行ったのか分からないんだ」
「それは困ったわね」
チェルシャと呼ばれた女子生徒も、モーゲンという男子生徒と一緒に困った顔をする。
「でも、ここでずっと待ってもらうわけにもいかないし……モーゲン、あなたがこの二人の案内をしてあげたら?」
「え、僕がかい。でも僕の担当の子もいるんだよ」
「きっとバイヤーもすぐに帰ってくるでしょ。私がここで待っているから、バイヤーが来たらあなたの担当するはずだった一年生を案内してもらうわ」
「そ、そうしてもらうと助かるよ」
モーゲンはほっとした顔をした。
「じゃあそうするよ。二人ともお待たせ。行こう」
そう言って二人を振り返ったモーゲンは、二人がまだ焼き菓子を手に持ったままなのを見て、目を丸くする。
「まだ食べてなかったの」
「食べていいかどうか、分からなくて」
レクトが答えると、モーゲンは感心したように首を振った。
「すごいな。目の前にお菓子があって、食べないで我慢できるなんて。さすがこの学院の一年生だね。優秀だ」
よく分からない誉め方をされた後、レクトとウルリケはモーゲンに勧められるままにお菓子を口に運んだ。
「……んっ」
レクトは思わずウルリケを見た。ウルリケも目を瞬かせてレクトを見ていた。
このお菓子、すごくおいしい。
その時だった。
がさがさと脇の茂みが揺れたかと思うと、神経質そうな顔をした小柄な男子生徒が姿を現した。
「いやあ、採れた採れた」
「バイヤー!」
「やっと戻ってきた!」
モーゲンとチェルシャに咎めるような声を上げられて、バイヤーはうろたえたように二人を見た。
「な、なんだよ。二人ともそんな声を、あっ」
レクトとウルリケに気付いたバイヤーは、しまった、という顔をする。
「ごめん。ちょうどそこに、茎の太いタカマキツメクサがあったんだ」
「ごめんじゃないよ」
モーゲンは頬を膨らませてバイヤーを睨んだ後で、表情を緩めた。
「でもまあ、帰ってきてくれてよかったよ。レクトとウルリケ。君の担当の一年生だよ」
「ああ、お待たせしちゃって申し訳ない」
バイヤーはそう言いながらローブに付いた葉っぱや蜘蛛の巣を手で払う。
「僕はバイヤー。じゃあ、森の案内をするからついてきて」
レクトとウルリケは、手を振るモーゲンたちに見送られ、バイヤーの後について森に足を踏み入れた。
「森には遊びに来ることも多いけど、授業で使う薬草を採りに来ることも多いんだ」
そう言いながら、バイヤーが道の脇の茂みを指差す。
「ほら、そこにオドリビナが生えてる」
とっさに言われて、レクトとウルリケもそちらを見るが、どの草のことを言われているのか分からない。
「ほら、そっちにはアスミグサ。ああ、カゲムラサキの小さいのも生えてるじゃないか」
道を歩くバイヤーの口からは、次から次へと草の名前が飛び出してくる。
「それ、全部覚えてるんですか」
レクトが思わず口を挟むと、バイヤーは当然のように頷く。
「君たちだって覚えるさ。薬湯を作るのに必要なんだから」
「そんなにたくさん、覚えられるかな」
思わず不安になってウルリケを見ると、ウルリケは勝気な瞳でレクトを見返した。
「必要な勉強だもの。今まで他の人にできたなら、私たちにだってできるわ」
「そう、その通り。いいこと言うね」
バイヤーは頷いた。
「この学院では、本当にいろいろなことをやらされるよ。自分の得意なことばかりじゃなくて、できれば御免こうむりたい苦手なことまでね。例えば武術とか」
そう言ってバイヤーは本当に嫌そうに身をすくませる。
確かにバイヤーは、武術や運動がいかにも苦手そうな体格をしていた。
「でもとにかくやってみることさ」
明るい声でそう言って、バイヤーは二人を振り返った。
「やれば終わるからね。やらないといつまでたっても終わらない。それと、大事なのは」
バイヤーは人差し指を立てる。
「どうせやるなら、楽しんでやったほうがいいってこと。知らないことを知るっていうのは、楽しいことだからね。まだこんなに覚えなきゃならない、じゃなくて、まだこんなに新しいことを覚えられる、と考えることさ」
それからバイヤーは、森の中の薬草の群生地や、一年生にちょうどいい遊び場をいくつか教えてくれた。
暗くなりかけた道を、レクトとウルリケは寮へと歩いていた。
オリエンテーションは、張り切った三年生たちの案内のおかげで、すっかり終了時刻を超えてしまい、一年生たちは最後の場所からそれぞれ解散となったのだ。
「今日一日で、この学院のことが色々と分かったわ」
ウルリケは満足そうに言った。
「魔術師になる夢に、また一歩近づいた気がする」
「うん、僕も」
レクトは言った。
たくさんの三年生に案内してもらったおかげで、不安な気持ちも消えたし、知り合いが急に増えた感じがした。
寮ですれ違う上級生が、話したことのある人だというだけでも安心できる。
もしも何か困ったことがあったら、あの三年生たちに聞いてみればいいんだ。
「レクト」
不意に、ウルリケがレクトの名を呼んだ。
「私ね、思ったことをそのまま口に出しちゃうところがあるの。それでちょっと、生意気な子だと思われたりすることもあって。今日も隣で、はらはらしたでしょ?」
「え、あ、いや」
レクトは慌てて自分の顔の前で手を振る。
確かにウルリケの言動に冷や冷やするところがなかったと言えば嘘になる。
でも、レクトが今日見たウルリケは、それだけの女の子ではなかった。
「そんなことないよ。それに僕の方こそ」
だからレクトはそう言った。
「頼りないから、ウルリケもいらいらしたと思う。ごめんね」
「いらいらなんてしてないわ」
そう言って、ウルリケは微笑んだ。
「私、今日はあなたと一緒に回れてよかったわ」
「僕もだよ」
「ねえ。今度、さっき教えてもらった森の遊び場所に一緒に行ってみましょうよ」
「うん」
レクトは勢い込んで頷く。
ウルリケと二人きりで森へ行ったりしたら、たちまちからかってきそうなクラスメイトの顔が何人も思い浮かぶ。
でも、いいじゃないか。
さっきのバイヤーの言葉が蘇る。
とにかくやってみること。
何事も挑戦だ。僕らの学院生活は始まったばかりなんだから。
レクトが真剣な顔で頷いたのを見て、ウルリケがくすくすと笑った。
「どうしたの、急に真面目な顔をして」
「あ、いや」
レクトは頬を掻く。
二人の目の前に、寮の建物が見えてきた。
***
あの日のウルリケは、最初はやっぱりちょっと怖かったけど、笑ったり怒ったり、それに素直な気持ちも話してくれて、何だかすごくいい感じだった。
でも、次の日に教室で会ったウルリケはもういつもの冷たい彼女で、オリエンテーションでのことが嘘みたいにそっけなくて、レクトもどう話しかけていいか分からないままライマーやモリスとばかり遊んでいるうちに、結局、約束したはずの森の遊び場にも行かずじまいになってしまった。
あの日の柔らかいウルリケにもう一度会うには、どうすればいいんだろう。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
レクトは、帰ってきたモリスに夕食の時間だと起こされた。