庭園
学院の正門から校舎にかけて広がる広大な庭園は、たくさんの庭師たちによって日々丹念に整備されている。
レクトも初めて来たときは、どこかの大貴族の邸宅に迷い込んでしまったのかと錯覚したほどだ。
「おーい。こっちだ、こっち」
ウルリケは昼食での一件を特に気にした様子もなかったが、それを見ていたレクトの方が気にしてしまっていた。
元気づけようとウルリケにあれやこれやと話しかけ、結局最後はうるさそうな顔をさせてしまったレクトは、その声に救われたように顔を上げる。
「あ、ほら。ウルリケ。あそこで三年生が待ってるよ」
「ええ」
ウルリケも頷く。
「ずいぶん元気のいい人ね」
「うん。すごい笑顔で手を振ってくれてる」
二人が近付くと、その三年生は笑顔で名乗った。
「3年2組のネルソンだ。二人の名前も教えてくれよ」
「1年1組のレクトです」
「ウルリケ・アサシアです」
「レクトとウルリケな」
ネルソンは頷いた。
「次に会うときに名前忘れてたらごめんな。人の名前を憶えるのが苦手でよ」
そう言って屈託なく笑う。
「さあ、行こうぜ。庭園には面白いところがたくさんあるんだ」
ネルソンは張り切って先頭に立って歩き出した。
「まずはこっちだ。鬼ごっこするのに最高な場所があるんだよ」
鬼ごっこ。
レクトとウルリケは顔を見合わせる。
武術、治癒術、魔法といった言葉が中心となった午前の場所とは、出てくる言葉がいきなり違う。
ネルソンは実に愉しそうに、庭園を案内してくれた。
鬼ごっこをするのに最高の、小さな段差やたくさんの障害物のある一角。かけっこをするのにちょうどいい、目印になる四つの彫像。羽根打ちをするのにぴったりの、段差のない広場。
「前にここで羽根打ちした時は、どこからともなくムラサキカブトムシが飛んできてさ。みんなでそっちを見てたら、落ちてきた羽根がちょうど通りかかったウェシンハス先生の頭に当たって」
ネルソンの説明は愉快で、レクトはさっそく今日の放課後にもここで遊んでみたくなったし、ウルリケは呆れたような顔をしていたが、それでも時折くすりと笑った。
「次はかくれんぼに最高の場所を教えてやるよ」
そう言って小走りするくらいの勢いで歩き出したネルソンの後ろで、ウルリケが囁く。
「ねえ。もしかしてこの人、遊んでばっかりいるのかしら」
「三年生だし、そんなわけないだろうけど」
レクトも囁き返す。
「でも、いろんな遊びにすごく詳しいね」
「あなたが三年生になったとき、こんな風に説明できる?」
その問いに、レクトは意表を突かれる。
「僕が三年生になったら、か」
前を歩くネルソンの背中を見る。
遊びの話ばかりだったけれど、説明には全く淀みがなかった。
この学院での自分の生活に、しっかりとした自信を感じる。
子どもっぽい人だと思っていたけれど、そう考えて改めて見ると、すごく頼りがいのある背中にも思えてきた。
何か困ったことがあっても、この人に相談したら全部、大丈夫だ何とかなる、と笑い飛ばしてくれるような。
「分からない」
照れ笑いとともに、レクトは答えた。
「僕にはまだ、三年生になったときの自分が想像つかないよ」
「そうよね」
ウルリケもそう言って微笑んだことが、レクトには意外だった。
「私も分からない」
「やあ、ネルソン。一年生の案内中か」
ちょうど通りかかった金髪の男子生徒がネルソンに声をかけた。
さっき食堂で見た三年生の三人のクラス委員の一人だ。
「遊び場所ばかりではなくて、勉強のためになることも教えてやってくれよ」
「わ、分かってるよ」
ネルソンはそう言って、その男子生徒とすれ違うと、レクトたちを振り向いた。
「そうだ、ためになることを教え忘れてた」
そう言って、向こうに見える茂みを指差す。
「庭園で遊ぶときは、あそこの茂みには絶対近付かないこと」
「どうしてですか」
ウルリケの問いに、ネルソンは肩をすくめる。
「おっかねえ女がいっつも難しい魔法の練習をしてるんだ。下手に邪魔すると怒られるし、魔法が暴発したら怪我するぜ」
「そ、そんな人がいるんですか」
「そう。いるんだよ」
レクトの言葉にネルソンは頷く。
「まあ、気を付けな。顔だけはすごくきれいだけど、騙されちゃいけねえぞ」
レクトとウルリケは顔を合わせて、それから二人でその茂みを見た。
よく分からないけど、覚えておいた方がいいみたいだ。
「ここ、ここ。ここがかくれんぼに最高なんだよ」
ネルソンがはしゃいだ声を上げた。
二人が振り向くと、そこは植え込みの切れ目だった。
「あ、ここ知ってます」
レクトは言った。
「この中が迷路になってるんですよね」
「おう。来たばっかりなのによく知ってるな」
ネルソンが嬉しそうに頷き、ウルリケが「迷路?」と呟く。
「庭園にはよく迷路があるのよね。上から見ると、きれいな模様になっているのよ」
「そういう飾り物みたいな迷路は向こうにいくつかある」
ネルソンは反対側を指差した。
「中等部の校舎に近いほうだな。この迷路は、そういうのじゃねえんだ」
「そういうのじゃない?」
「もっと、本気のやつなんだよ」
ネルソンはいたずらっ子のように、にやりと笑う。
「まあ、入ってみようぜ」
迷路に入るとすぐ、ネルソンは二人を先頭に立たせた。
「好きに進んでみていいぜ」
そう言われて、二人は歩き出した。
「植え込みで作れる迷路なんて、たかが知れてるの」
ウルリケが言った。
「そんなに難しいものじゃないわ」
そういうものか、とレクトは頷く。
だが、次々に現れる分岐に、ウルリケは徐々に困惑した顔になり、三叉路でついに立ち止まった。
「こんなに複雑な迷路なんて」
「意外だっただろ」
ネルソンは笑顔で二人の前に出た。
「この先を右に曲がると、ベンチがあるぜ。左に曲がって二つ曲がると、庭師の人の用具小屋があるんだ」
「全部覚えてるんですか」
「まあな」
ネルソンは肩をすくめる。
「ここで遊んでりゃすぐに覚えるさ」
そうだろうか。レクトはウルリケを見た。ウルリケもレクトを見て、小さく首を振る。
「じゃあ、中央のボルーク卿の像だけ見て帰るか」
ネルソンがそう言ったときだった。
「でやあっ」
突然、そんな掛け声とともに誰かが上から降ってきた。
「わあっ」
「きゃあ」
二人は思わず声を上げた。
植え込みの上から誰かが落ちてきたのだ。
「さ、猿?」
ウルリケが言ったが、猿ではなかった。着地したのは、ひょろりと長い手足の三年生だった。
「おう、ネルソン」
その生徒が言った。
「一年生の案内か」
「フィッケ。お前また道に迷ったのかよ」
驚きもせずにネルソンが言うと、フィッケと呼ばれた生徒は照れたように笑う。
「いやー、本当に何度来てもこの迷路、覚えられないんだよな」
そう言うと、目の前の植え込みに向かって突然走り出した。
「あっ」
レクトが声を上げた時には、その身体は軽々と植え込みを飛び越えて、その向こうに見えなくなっていた。
「飛び越えた」
レクトは呆然と呟く。ウルリケも目を丸くしていた。
さっきも、こうやって植え込みの向こうから飛び越えてきたのか。
植え込みの高さは、三年生のネルソンよりもさらに上だ。
そこを、わずかな助走で軽々と飛び越えてしまった。
「あいつ、ばかだけど、運動神経はすげえんだ」
ネルソンは呆れたように笑った。
「さあ、行こうぜ。俺は植え込みを飛び越えさせたりしねえから、安心していいぜ」
ネルソンはその後、まるで自分の家のように迷路の中を進み、中央に鎮座するボルーク卿の像と対面させてくれた。
「これが昔この島の領主だった、ボルーク卿だ」
像を見上げて、ネルソンは言った。
「この庭園は、ボルーク卿の屋敷がここにあった名残りなのさ」