魔術実践棟
魔術実践棟は、治癒術棟とは校舎を挟んで正反対に位置している。
移動時間を告げる鐘が鳴ると、レクトとウルリケは治癒術棟を出て、校舎の一階を足早に歩いた。
「アインさんの治癒術の説明、分かりやすかったね」
レクトは隣を歩くウルリケに声をかける。
「早く治癒術、習ってみたいね」
「そうね」
ウルリケは澄ました顔で頷く。
「あの人はいろいろと詳しそうだったから、もっと聞いてみたいことがあったわ」
確かに、武術棟での興味なさげな態度とは一転して、治癒術棟でのウルリケの熱心さはすごかった。
「私、魔術実践棟はもう行かなくてもいいかも」
「え、どうしてだい」
レクトは驚いてウルリケの顔を見る。
「冗談よ」
ウルリケはそっけなくそう言いながらも、少し歩く速度を緩めてしまう。
「治癒術と薬湯って、この学院で学べるものの中で一番重要だと思うの」
「どうしてだい」
「直接、人の命を救える魔法だからよ」
ウルリケはそう言って、レクトを見た。
「他の魔法なんて、それに比べたら遊びみたいなものだわ」
「そ、そうかな」
「そうよ」
頷くウルリケの表情には何だか秘めた悲しさのようなものが感じられて、レクトは少し戸惑う。
「何か、あったのかい」
おずおずと、レクトは尋ねた。
「治癒術や薬湯で、命を救いたかったことが」
ウルリケは少し驚いたような顔で、レクトを見た。
それから、
「……私のお母さま」
と言った。
「今のお母さまは、私の本当のお母さまじゃないの。私を生んでくれたお母さまは、二年前に死んでしまったから」
「……病気かい」
「急な熱病だったわ」
ウルリケは声を落とした。
「きっと、ガライ王国に住んでいたら助かったんでしょうね。こんなに色々な魔法が発展した国だもの」
「フォレッタだって、大きな国じゃないか」
「でも魔法はガライに比べればまだまだだって、お父さまが言っていたわ」
ウルリケは唇を噛んでうつむいた。
「私が学院に合格した時、お父さまは、きっと天国のお母さまが受からせてくれたんだって言ったわ。あなたの力でたくさんの人を救いなさいって、お母さまがそう言ってくれてるんだろうって」
ウルリケは、自分に言い聞かせるように言う。
「だから、お母さまのためにも私は治癒術と薬湯について学んで帰るの。そして、たくさんの人の命を救う」
「……そうだったんだ」
何か事情がありそうだとは思っていたけれど、そんな辛いことがあったなんて。
レクトは、ウルリケに何と声を掛けていいか分からず、
「ごめん」
と謝った。
「えっ?」
驚いたようにウルリケが顔を上げる。
「どうしてレクトが謝るの」
「だって、つらいことを思い出させちゃったから」
「別に、いいのよ」
ウルリケは口元を緩めた。
「今のお母さまのことだって、嫌いじゃないし。私はそういうつもりでこの学院に来ているっていうことを言っただけ」
そう言うと、ウルリケは付け加えた。
「他の人はどうだか知らないけど。まるで遊びに来ているみたいに見える人もいるから」
その言葉に棘があって、レクトはまた何と答えていいか分からず慌てる。
「ええと」
「ほら、行きましょ」
ウルリケは、自分で言うだけ言って、それで気が済んだようにレクトを促した。
「この学院にいるからには、魔術実践場にだって行かなきゃならないことくらいは分かってるわ」
そう言ってから、小さくため息をつく。
「できれば早めに終わらせて、お昼にしたいけど」
そうか。お昼の時間もあった。
レクトは思い出す。
今日は、食堂での昼食も三年生と一緒に食べるんだった。
校舎を抜けて、渡り廊下をしばらく歩き、二人はようやく魔術実践棟にたどり着いた。
いくつもある窓はいつもカーテンが閉められていて、内部を窺うことはできない。
そこにいつも出入りしている灰色ローブの痩せた怖そうな担当教師も含め、魔術実践棟は一年生には近寄りがたい場所だった。
レクトが重い扉を開けると、やはり内部は暗かった。
「お客さんが来たわよ」
暗がりの中で場違いなくらいに明るい声がして、整った顔の女生徒が顔を出した。
「男子と女子の二名様よ。あなたたち、お名前は?」
「レクトです」
「ウルリケ・アサシアです」
二人は同時に名乗ってしまった。
「んん?」
案の定、顔をしかめられる。
「ごめん、いっぺんに言われちゃうと分からないわ」
「私はウルリケ・アサシア、こっちはレクトです」
ウルリケが改めてそう自己紹介すると、女子生徒は建物の中を振り返った。
「ウルリケとレクトだって。担当の人は誰―?」
「おう。カラー、その二人なら俺だ」
闇の中から快活な声がした。
「ルクスね。じゃあ、よろしくー」
女子生徒はそう言うと、また身を翻して暗がりの中に消えてしまう。
どうしたものか、とウルリケとレクトが顔を見合わせると、そこに火の玉がゆらりと舞ってきた。
「うわっ」
レクトは思わず声を上げてのけぞる。ウルリケも驚いた顔で、その火の玉を見つめている。
「ウルリケとレクトだな」
不意に耳元で男子生徒の声がして、レクトは振り返った。だが、誰もいない。
ウルリケも同じようにきょろきょろと周囲を見まわしている。
「この鬼火についてきな。足元には気を付けてな」
男子生徒の声がまた耳元で聞こえ、火の玉が二人を導くようにゆっくりと建物の内部へと飛んでいく。
レクトとウルリケはおそるおそるその後に続いた。
火の玉はやがて、一人の男子生徒を照らし出した。
「3年3組のクラス委員をしているルクスだ」
男子生徒は明るい口調で言った。
その指が火の玉を指差すと、ふわりと高く浮き上がった火の玉は三人の周囲を明るく照らした。
「魔術実践棟にようこそ」
ルクスは言った。
「ここは、いろいろな魔法を練習する場所だ。教室や特別教室で練習する魔法もあるけど、大概の魔法はここで練習を積むことになる」
「さっきの、あの声も魔法ですか」
レクトが尋ねると、ルクスは軽く頷く。
「ああ、あれは風に声を乗せる魔法。この火の玉は周りを明るく照らす魔法だ」
「すごいや。ね、ウルリケ」
レクトが目を輝かせて振り向くと、ウルリケも仕方なさそうに頷く。
「ええ、まあ」
「すぐに二人も使えるようになるさ」
ルクスはそう言って微笑むと、足元に並べられた杖を二本、手に取った。
「まだ杖を持ったことはないだろ?」
二人が頷くと、ルクスは杖を一本ずつ差し出す。
「杖を使っての魔法練習は一年生だとまだやらないんだけど、今日は特別だ。持ってみな」
二人は杖を受け取った。床から自分のお腹くらいまでの長さのあるその杖を、レクトはゆっくりと持ち上げてみる。
武術棟で持った剣よりも少し重い。
魔術師は、これで魔法を使うんだ。
レクトは試しに杖を突き出してみる。
さっき、剣を突き出したときもかっこいいと思ったけど、やっぱり僕にはこっちだ。
魔術師の杖だ。
「そうそう。そうやって使うんだ」
ルクスはレクトの初々しい仕草に笑顔で頷くと、自らも杖を手に取った。
「杖を自分の腕の延長みたいなつもりでイメージしていくんだ。そうすると、こうやって」
ルクスの杖の先端に光が灯った。
と思うと、光はそのまま輝く魚の形になって空中を泳ぎ始める。
「わあ」
レクトは声を上げた。
まるで水中にいるかのように身をくねらせながら宙を泳いだ魚は、ルクスが杖で軽く触れると今度は光の小鳥になって羽ばたいた。
「すごい」
思わず心の声がこぼれてしまった、といった感じでウルリケが呟くのがレクトにも聞こえた。
光の小鳥は空中に浮かぶ火の玉の周りをぐるりと回ると、ルクスの掲げる杖の先端に止まった。
と、鳥の形が曖昧にぼやけた瞬間、それが無数のトンボに変わる。
光のトンボが羽をきらきらと輝かせながら自分たちの周りに飛んでくるのを見て、レクトは手を伸ばした。
レクトの指先が触れると、トンボは綿毛のように細かく弾けて消えてしまう。
ルクスが杖をぐるりと回した。
トンボたちがレクトとウルリケの前の空間に集まり、固まって一つの大きな光になった。
その光が、やがて人の形をとった。
光が散ったとき、そこに立つ美しい少女を見てレクトは息を呑んだ。
少女は二人に向かってにこりと微笑んだ。
まるでこの世のものではないような幻想的な美しさだった。
「光の妖精だ」
思わずそう呟いていた。
ウルリケも魅入られたように、その少女を見ている。
「妖精だってさ、ウェンディ」
ルクスが愉しそうに言うと、ウェンディと呼ばれた少女は、照れたように笑ってルクスを振り返る。
「もう。ちょっと協力してくれ、なんて言うから何をさせるのかと思ったら」
「演出だよ、演出」
ルクスは快活な笑顔でそう言うと、杖を下ろして二人に歩み寄ってくる。
あ。妖精じゃなくて、人なのか。
レクトはもう一度目の前の少女を見た。
それもそうだ。妖精が学院の制服のローブを着ているわけがないか。
でも、光の中から出てきたときは、確かにそう見えたんだ。
「3年2組のウェンディです」
少女はそう言って、もう一度二人に微笑みかけた。
「驚かせてごめんなさい。何か分からないことがあったら、いつでも声をかけてね」
さっきまで三年生にきちんと挨拶できていた二人だが、急な展開に追いつけず、ウルリケまでが「あ」と言ったきり言葉が出なかった。
「ありがとうな、ウェンディ」
ルクスが言う。
「二人とも驚いてくれたみたいで、よかったぜ」
「いいえ、どういたしまして」
ウェンディは頷き、それから一年生二人を心配そうに見た。
「ちょっと驚かせすぎちゃったかしら」
「そんなことないだろ。そりゃごついトルクあたりでも出てくりゃ驚くだろうけど」
ルクスが他人事のようなことを言う。
「あ、あの」
レクトがようやく言った。
「びっくりしました。すごかったです」
「おう、そう言ってもらえるとほっとするな」
ルクスが笑顔で頷く。
「ルクスの魔法はすごいのよ。一年生の頃からずっと別格なんだけど」
ウェンディの言葉に、ルクスはちらりと顔をしかめる。
「あなたたちもここで一生懸命練習すれば、二年後にはきっと彼みたいに自在に魔法が使えるようになるわ」
「はい」
ウルリケが返事をした。
「がんばります」
ウルリケったら、さっきまで他の魔法なんて遊びみたいなものだって言ってたのに。
レクトが驚いていると、ウェンディは優しい笑顔で頷いた。
「大丈夫、努力さえ惜しまなければ必ず使えるようになるから」
「いいこと言うな、ウェンディ」
ルクスが言った。
「そう、この学院では一に努力、二に努力だ。お前らも頑張れよ」
ウェンディが去った後、ルクスはクラス委員らしい真面目さで、建物の細かい場所まで熱心に教えてくれた。