治癒術棟
武術棟を出たレクトとウルリケは、次の目的地の治癒術棟へと急いだ。
ウルリケはまだ少し赤い顔で、武術棟の方をちらりと振り返って、はあ、とため息をついたりしている。
「コルエンさん、かっこよかったね」
レクトはそう言ってみた。
「そうかしら」
なのに、ウルリケはそう言って首を傾げる。
「背だけはすごく高かったけど。がさつだったし、乱暴そうだし」
けれどそう言いながらも、ウルリケの顔はやっぱり赤い。
「そうかな。親切だったと思うけど」
女の子の考えることはよく分からない。
「僕、武術がんばってみようって気になったよ」
「まあ、そうね」
ウルリケは頷いた。
「あなたのさっきの突き、まあまあだったと思うわ」
素直にそんな風に誉めてもらえるとは思わなかった。
「本当かい」
「ええ」
コルエンのおかげで二人の間にも少しだけ柔らかい空気が流れた。
渡り廊下を渡って、治癒術棟に入る。
扉を開けた瞬間、独特の匂いが鼻を衝いた。
「薬草の匂いだ」
「これ、慣れるまで大変そうね」
ウルリケが顔をしかめて、ローブの袖で鼻を押さえる。
入った先は、ホールになっていた。
「あら、一年生ね」
二人を出迎えたのは、くりくりとした目が印象的な女子生徒だった。
「あなたたち、お名前は?」
「ウルリケ・アサシアです。それと」
「レクトです」
今度はウルリケに全部言われてしまわないように、レクトは慌てて自分の名前を言った。
女子生徒はレクトを見てにこりと微笑んだ後で、頬に指を当てる。
「ウルリケとレクトね。残念だわ、あなたたちは私の担当じゃないみたい」
「ロズフィリア」
女子生徒の背後から、男子生徒が姿を現した。
「ウルリケとレクトなら、僕の担当だ」
細身の、聡明そうな顔立ちの三年生。
レクトは、その顔にどこかで見覚えがあった。
「そう。アインの担当なのね」
ロズフィリアと呼ばれた女子生徒は頷き、一年生二人に笑顔を向ける。
「運がよかったわね、あなたたち。エメリアとかキリーブが担当だったら、大変だったわよ」
「君は余計なことを言わなくていい」
後から来た男子生徒は顔をしかめてそう言うと、改めてレクトとウルリケの前に立った。
「僕はアイン。3年1組のクラス委員をしている」
クラス委員。それで見覚えがあったんだ。
レクトは思い出す。
僕らの入学式の時に、在校生の代表としてこの男子生徒が挨拶をしていた。
そんなことを考えているうちに、またウルリケに先を越されてしまった。
「1年1組のウルリケ・アサシアです。こっちは同じクラスのレクトです」
「ああ、分かっている。それじゃあ僕についてきたまえ。治癒術棟の案内をしよう」
「行ってらっしゃい」
笑顔で手を振るロズフィリアに会釈し、二人はアインの後ろについて歩き出した。
「治癒術棟は、大きく二つに分かれている」
歩きながら、アインはそう言った。
「二階にあるのは、教室だ。座学の授業はそこで受ける」
そう言って、二階へと上る階段を示す。
「まあ、単なる教室だ。珍しいものではないから、帰り際にでも覗いていくといい。治癒術棟の主要部分はこの扉の先の」
アインはホールから奥へと続く大きな扉を指差した。
「実習室だ。来たまえ」
アインが扉を押し開けると、漂っていた独特の匂いがさらに強まった。
広い空間に、薬草を刻んだり下処理したりするためのテーブルがずらりと並んでいる。
その奥の炊事場にはいくつもの鍋が火にかけられるようになっていた。
「わあ」
レクトは思わず歓声を上げた。
「すごい。寮の厨房みたいだ」
「いいところに気付いたな、レクト」
アインは微笑んだ。
「毎日の食事は、僕たちの口を通して体内で命の基礎を作ってくれる。薬湯づくりも、口を通して体内に入るスープを作るのだと考えれば、ここは厨房と言えなくもない」
何だか難しいことを言われて、レクトは瞬きをする。
「じゃあ、毎日の食事が薬湯ということも言えますね」
ウルリケが言うと、アインは笑顔で頷く。
「理解が速いな、ウルリケ。そうだ。毎日の食事も、薬湯も、そこにあるのは効果と濃度の差で、どちらも僕らの生命力を活性化させるものだといえる」
「寮の厨房も、薬湯室ということですね」
「そうだ。そう考えると、薬湯づくりも身近になるだろう」
「はい」
アインの言葉に、ウルリケが嬉しそうに頷く。
レクトにはよく分からない。なんだか、取り残された気分だ。
「薬湯を作る時は、この実習室に半日以上も入り浸りになる。時間をかけて、じっくりと煮詰めていかないといけないからな」
アインは言った。
「もっとも、薬湯づくりは薬草を自分で探してくるところから始まるといえるかもしれないな。この学院の森には多種多様な薬草が生えているんだ」
そこまで喋ったところで、アインの説明は、慌ただしく実習室に入ってきた男子生徒に邪魔された。
「ああ、アイン。ここにいたのか」
整った顔立ちの三年生が、アインを見てほっとしたように声を上げた。
「どうした、ムルカ」
「ちょっと来てくれないか、フィッケが大変なんだ」
「またあいつか。だが、僕はまだ彼らに説明をしなくては」
アインがそう言いかけた時、ちょうど別の小柄な三年生がふらりと入ってきた。
「ああ、ちょうどよかった、キリーブ」
アインに名前を呼ばれた小柄な男子生徒は、ぎくりと足を止める。
「な、なんだ。何もちょうどよくはないぞ」
「すまない、僕はクラスの方でちょっと野暮用ができてしまった。彼ら二人に治癒術棟の説明をしてもらえないか」
「ど、どうして僕が」
小柄な生徒は甲高い声で叫んだ。
「僕は自分の担当の説明を終えたところだぞ。その二人はお前の担当だろう。自分が責任をもって説明しろ」
「だから、すまないと言っている」
アインは言った。
「午後の説明は代わりに僕が全部やってやろう。すぐに戻ってくるから、それまでの間だけでいい」
そう言いながら、もうアインは呼びにきた生徒とともに出口に向かいかけていた。
「頼む、キリーブ」
「あ、おい。待て、僕はまだやるとは」
キリーブは抗議の声を上げかけるが、アインはムルカと連れ立って出ていき、扉は大きな音を立てて閉まってしまった。
「なんて自分勝手な」
キリーブは忌々し気に呟いた後で、自分を見つめる一年生二人の視線に気付く。
「まあ、お前らが悪いわけじゃない。お前らもあんな無責任なクラス委員に担当されて災難だったな」
そう言うと、ごほん、と咳払いする。
「3年3組のキリーブ・ベアノルドだ」
「レクトです」
すかさずレクトは言った。
「それで、こっちが」
「ウルリケ・アサシアです」
ウルリケは、さっと名前を名乗ってしまう。
「よろしくお願いします、キリーブさん」
「あ、ああ」
ウルリケに会釈され、キリーブはなぜかきょろきょろと目を泳がせた。
そして、ウルリケから顔を背けてレクトの方だけを見て口を開く。
「この治癒術棟には、数千種類の薬草が保管されている」
それがものすごい早口だったので、レクトは何かの聞き間違いかと思ってキリーブの顔を見た。
だがキリーブは顔を赤くしたまま、ウルリケの方を決して見ようとせずに喋り続ける。
「薬草はノルク島に自生するものも多いな。だけど、それだけだと思うなよ。大陸南部、中原、果てはメノーバー海峡を越えたこの世の終わりみたいな北の地に生えているものに至るまで、世界中の薬草がここと薬草園に集められている。治癒術の先生方が直接管理する薬草園は別の場所にあるんだが、そちらは大陸で大きな天候不順があったときの最後の備えと言われるほどの場所だから、簡単に立ち入ることはできない。この僕と言えども、柵の外から二、三度目にしたことがある程度だ。何をしに行ったかと言えば別に薬草園が目的だったわけではなく、話すのもばからしいことだがうちのクラスのコルエンという男が薬草園の近くにある岩場には薬草園から種の飛んだ貴重な薬草が絶対に生えているはずだから摘みに行こうなどと愚にもつかないことを言い出したおかげで行く羽目になったんだ。僕とポロイスの二人がそんなくだらないことに付き合わされて」
え? 何の話だ、これ。
キリーブの説明は相変わらず早口でよく聞き取れないが、治癒術棟とは全然違う話をしているように聞こえる。
いや、それともこれも関係がある話なんだろうか。
「あそこの柵に触れたことがあるか。びりっと電気が走ったみたいに痺れるんだ。貴重な薬草の芽を動物に食われてしまってはいけないから、それでそういう魔法が施してある。聞いた話ではさらに魔獣除けの強い魔法もかけられているらしいが、僕らは魔獣ではないのでそれは発動しなかった。僕は一度柵に触ってそれで懲りたが、コルエンのばかが面白がって何度も触っているうちに、先生方に気付かれてしまって。慌てて逃げるときにつまづいたんだが、こともあろうにその僕の身体の上をコルエンが」
とにかく早口のキリーブの話がよく聞き取れず、レクトは仕方なく身を乗り出した。
ウルリケも同じだったようで、「え?」と言いながらキリーブの方に身体を乗り出す。
「うわ、待て」
キリーブはなぜか顔を赤くしてそう声を上げると、ウルリケからますます顔を背ける。その拍子にレクトはキリーブにぶつかりそうになって、思わず身を退いた。
「私、治癒術に興味があるんです」
ウルリケは真剣な顔で言った。
「キリーブさん、さっきの話、良く聞こえませんでした。もう一度聞かせてください」
「ぼ、僕の話をもう一度だって」
キリーブは信じられないという顔つきをした。
「もう一度聞きたいのか」
「はい」
ウルリケは頷く。
「最初から、きちんと聞きたいです」
「よ、よし。いいだろう。二人とも心して聞けよ」
「はい」
ウルリケが返事をする。
レクトも返事をしようとした時、また実習室の扉が開いた。
「思ったよりも早くけりが付いた」
そう言いながら、戻ってきたのはアインだった。
「すまなかったな、キリーブ。助かった」
「な」
キリーブが口を半開きの状態で動きを止める。
「もういいぞ。後は僕が説明しよう」
アインはキリーブの肩を叩いた。
「どこまで説明してくれたんだ?」
それから、何も答えないキリーブに眉をひそめた後で、アインはレクトとウルリケを見た。
「彼からは、どこまで説明してもらったかな」
「ええと」
レクトは返答に困る。
色々と説明はしてくれていたみたいだけど、何と言ってよいのか。
「よく分かりませんでした。早口で何を言っているのかよく聞き取れなくて」
悩んでいるうちに、ウルリケがそう言ってしまった。
レクトは、ああ、そんなにはっきりと、と内心冷や冷やするが、ウルリケは平然としている。
「それで、もう一度最初からお聞きしようと思っていたところです」
「そうか」
アインは頷く。
「なら、僕が最初から説明しよう」
その言葉に、キリーブが「え」と声を上げる。
「どうした、キリーブ。それとも君からもう一度説明するか?」
「い、いや」
キリーブは首を振った。
「本来の担当のお前が戻ってきたのに、どうして僕がそんなことを」
そう言いながらも、顔には未練がありありと残っている。
「やりたそうじゃないか。やってくれて構わないぞ」
「い、いいと言っているだろう」
キリーブは赤い顔で首を振った。
「僕の担当する一年生が来るかもしれないからな。ふん」
そう言うと、キリーブは肩を怒らせて奥へと歩いて行ってしまう。
「ありがとうございました」
ウルリケがその背中に声をかけた。
キリーブが振り向く。レクトも、慌てて頭を下げる。キリーブは嬉しそうな顔を必死で押し殺すような、何とも言えない表情をしていた。
「その性格の悪いクラス委員の説明が分かりにくかったら、僕のところに来い。きちんと分かるように説明してやる」
また早口でそう言って、キリーブは去っていった。
「面白い男だ」
アインは笑顔で首を傾げると、二人に向き直った。
「ばたばたしてしまって、すまなかった。さあ、説明を始めよう」
アインの説明はとても分かりやすく、二人がキリーブを訪ねることはなかった。