武術棟
「最初は、武術棟だったわね」
ウルリケはそう言うと、レクトを振り向きもせずに一人ずんずんと廊下を進んでいってしまう。
廊下には学院の各所へと向かう一年生たちが溢れていて、レクトは彼らに阻まれてウルリケを見失ってしまいそうになる。
「ま、待ってよ」
他の生徒にぶつかりそうになりながら、レクトは必死にウルリケの背中を追いかけた。
行く場所は皆それぞれだ。校舎の一階に下りて、武術棟への渡り廊下を歩くころには、他の一年生の姿もほとんどなくなっていた。
「武術棟なんて、一番最後でいいのに」
やっと追いついたウルリケが面倒そうにそう呟いたので、レクトは思わず聞き返す。
「えっ、どうしてだい」
「だって、魔術師になるのに一番必要ない場所じゃない」
ウルリケは不機嫌そうに眉をひそめた。そんな表情をすると可愛い顔が台無しだな、とレクトは思ってしまう。
「必要ないのかい」
レクトはおそるおそる尋ねる。
「武術って、僕は一度もやったことないから分からないけど」
「私はここに来る前に少しだけ」
ウルリケは大人びた仕草で肩をすくめた。
「武術なんて、礼儀作法の一種みたいなものよ。平民出のあなたには、私よりもっと必要ないと思う」
「そうなんだ」
レクトは神妙な顔で頷く。
ウルリケが言っていることが正しいのかどうかは分からないけど、とりあえず案内の三年生に失礼なことを言って怒らせたりしないといいけど。
そんなことを考えているうちに、武術棟の入り口にたどり着いた。
レクトが入り口の扉を開き、ウルリケが先に入る。
レクトもその後に続いて武術棟の中に足を踏み入れ、思わず「わあ」と声を上げた。
初めて入る武術棟は、広かった。
高い天井を豪華な装飾が覆い、床には柔らかい土が敷きつめられている。
「すごいな」
レクトはぐるりと周囲を見まわし、観客席までがしっかりと設えてあるのを見て目を丸くする。
「観客席まであるよ。誰か、僕らのことを見に来るのかな」
「あなた、知らないの?」
ウルリケが呆れたようにため息をついた。
「この学院には、二大行事っていうのがあって、その一つが」
「おう、来たな」
快活な声がウルリケの言葉を遮った。
二人の方にすたすたと歩いてくる長身の男子生徒。
三年生だからレクトたちよりも背が高いのは当たり前だが、この高さは。
もう大人の身長じゃないか。僕の父さんよりも高いんじゃないか。
レクトは気後れして少し後退る。
ウルリケも呆気にとられたように彼を見上げていた。
「三年三組のコルエンだ。お前ら、レクトとウルリケで間違いないか?」
長身の三年生にそう言われて、レクトはヴィルマリー先生の言いつけを思い出した。
そうだ、ちゃんと挨拶しないと。
「あの、ええと」
「一年一組のウルリケ・アサシアです。彼は、レクト。よろしくお願いいたします」
レクトが口ごもっているうちに、ウルリケにさっさと二人分の挨拶をされてしまった。
「よし、それなら俺の担当だ」
コルエンはにこりと笑う。
「さっきの二人はトルクに取られたからな」
そう言ってコルエンは、レクトたち二人よりも先に武術棟に来て説明を受けていた一年生二人の方を振り返った。
レクトもつられてそちらを見ると、ラウディよりも遥かに大柄でいかにもおっかなそうな男子生徒が、一年生の男子二人に何やらぶっきらぼうに説明している。
向こうじゃなくてよかった。
レクトはほっとして、コルエンの快活そうな顔を改めて見上げた。
この人なら、大丈夫そうだ。
「二人とも、武術棟に入るのは初めてか?」
コルエンの問いに、二人は頷く。
入学以来、校舎以外の別棟に足を踏み入れるのは今日が初めてだ。
「まあ、そうだよな。一年の時から武術の授業は始まるけど、回数はそんなに多くねえからな」
コルエンはそう言うと、長い両腕を広げて、武術場を示す。
「ここが武術場。武術の授業も、武術大会での試合もここでするんだ」
武術大会?
初めて聞く言葉に、レクトは目を瞬かせた。
「向こうには、控室もある。武術大会の時は、選手はまずそこで待機するんだ。それからこの観客席。武術大会の時にはここが全部、島の内外から来るお客さんたちで」
「あ、あの、いいですか」
レクトが声を上げると、コルエンはきょとんとして彼の顔を見た。
「おう、どうしたレクト」
「武術大会って、何ですか」
「あ、知らないのか」
コルエンが言うと、ウルリケが「私は知っています」と口を挟む。
「そうか。ウルリケは知ってるのか」
コルエンは笑顔でウルリケを見た。
「入学したばかりなのに、たいしたもんだな」
「ノルク魔法学院の武術大会は、有名ですから」
ウルリケは澄ました顔で答える。
「ガライ王もわざわざ臨席なさると、フォレッタでも耳にしたことがあります」
「そう。武術大会には、王様も観に来るんだ」
コルエンは気取らない口調でそう言った後で、レクトに向き直る。
「毎年、夏の休暇が終わった後に、武術大会が開かれる。初等部の三年生と中等部の生徒は、それぞれの学年でクラス対抗戦をやるんだ。高等部は人数が少ないしクラスもないから、個人戦になるけどな」
「三年生と中等部の生徒」
レクトはコルエンの言葉を繰り返す。
「じゃあ、僕ら初等部一年生は」
「普通の授業だ」
コルエンはにやりと笑う。
「まあ退屈だろうけど、頑張ってくれ。俺はやっと今年から武術大会だ。今から楽しみで仕方ねえよ」
そうか、僕らはまだやらないのか。
やったこともない武術の試合を、いきなり王様の前でさせられるわけではないと分かって、レクトはほっと胸を撫で下ろした。
「ええと、それから」
コルエンは実に愉しそうに、武術場の用具置き場や控室の説明をしてくれた。それを見て、レクトは、この人は本当に武術が好きなんだろうな、と思う。
魔術師なのに、変なの。
「あと何か質問はあるか?」
一通りの説明が終わって、コルエンがそう言ったときだった。
黙ってコルエンの説明を聞いていたウルリケが、冷たい声で言った。
「武術は、魔術師になるために何か役立つのでしょうか」
ああ、ウルリケ。言っちゃった。
レクトは顔を強ばらせてコルエンを見た。
こんなに武術が好きそうな三年生相手に、そんな言い方をしたら、怒るに決まってるじゃないか。
だがコルエンはレクトの予想に反して、むしろ嬉しそうな顔で首を捻った。
「さあ、どうだろうな。武術が魔術師になるための役に立つか、か。考えたこともなかったな」
その答えにウルリケは失望したような表情をするが、コルエンはまるで意に介さずレクトを見た。
「そういえば、レクト。お前、武術をやったことがないって言ってたよな」
「あ、はい」
「ちょっとやってみるか」
「え? でも」
「いいから、いいから」
コルエンはレクトの返事も待たずに長い脚で走っていくと、練習用の剣を持ってきた。
「ウルリケもやるか?」
「私はいいです」
「そうかい?」
コルエンは気にした様子もなく、レクトに剣を持たせる。
「ほら、これが剣だ。ちょっとわくわくするだろ」
「え、あ」
ずしりとした重さ。
コルエンの言う通りだった。男の子の本能と言ってもいいかもしれない。
どうしてだろう。剣を持っただけで、レクトの胸は高鳴った。
「構えてみな」
「ええと」
適当に構えてみる。
「よし、そのまま突いてみな」
言われるがままに剣を前に突き出してみる。
自分ではかっこよかったように思えたが、ウルリケが眉をひそめたのであまりうまくはいかなかったようだ。
「ちょっと脇が開きすぎな気がするわ」
「お、ウルリケ」
コルエンがにやりと笑う。
「やる気になってきたな」
「なっていません」
慌ててウルリケがそっぽを向く。
「まあいいや。じゃあウルリケはちょっと観客席で見てるか」
そう言うが早いか、コルエンはウルリケをふわりと抱き上げた。
「え、ちょ」
驚いた顔で身体を硬直させるウルリケに構わず、コルエンは観客席に歩み寄ると、その長身を生かして最前列の席に彼女の身体を優しく下ろした。
「ここでちょっと見てな」
コルエンはウルリケに微笑んでみせる。
「レクトの突きを、もう少しかっこよくするから」
ウルリケは何か言おうとして口を開きかけ、だが何も出てこなかったようで、困惑した顔でまた口を閉じた。
「レクト。お前の構え、あと三箇所くらい直せばすげえかっこよくなるぞ」
呆気に取られているレクトに、コルエンはそう言いながら歩み寄る。
「ウルリケが言ったみたいに、脇をしめて、それから腰を落とす。そうだ。それと、顎を引いてみな」
言われたとおりにレクトは自分の構えを直す。
何だか、さまになった気がする。
「力が外に逃げねえように、腿の内側にぎゅっと力を入れるんだ。それから、思い切り突いてみな」
言われるがまま、レクトは剣を突き出した。
突きが、今度はぶれなかった。
さっきはしなかった、びゅっという風を切る音がした。
「どうだ、ウルリケ」
コルエンが観客席を振り返る。
「よくなったろ」
まだ頬に赤みを残したウルリケが、素直に頷いた。
「ええ、レクト。さっきの突きよりも今の方がずっといいわ」
「本当かい」
「もちろん、まだ全然足りないけれど」
そう言われて、レクトはがっかりする。
「ま、あとは練習だな」
コルエンがレクトの肩を叩いた。
「お前、武術のセンスあるぜ」
それが本気なのかそれともお世辞でからかっているのか、コルエンの表情からはまったく分からなかったが、レクトも誉められて悪い気はしなかった。
さっきまで得体の知れなかった武術の授業や武術大会が、急に楽しみになってきた。
そうすると、俄然目の前の三年生にも興味が湧いてくる。
これだけの体格を持った生徒の突きって、いったいどんなだろう。
「コルエンさんの突きも見せてくれませんか」
レクトが言うと、観客席のウルリケも頷いた。
「私も見てみたいです」
「え、俺か」
コルエンは少し困った顔をする。
「俺の場合、本気でやると止まらなくなっちまうから。じゃあ、軽くな」
そう言って、コルエンはレクトから受け取った剣を言葉通り軽く突き出した。
だが、そのしなやかで伸びのある突きは、レクトのさっきの突きとはまるで次元が違った。
びゅん、という突風のような音がした。
「すごい」
レクトが呟く。ウルリケも観客席で目を丸くしている。
ちょうどそのとき、時間を告げる鐘が鳴った。
「移動の時間だな」
コルエンは剣をくるりと回した。
「じゃあ、俺の案内はこれで終わりだ」
そう言って、観客席のウルリケに腕を伸ばす。
「ほら、下ろしてやるから掴まれよ」
「じ、自分で下りられます」
ウルリケは真っ赤な顔でそう言うと、脇の階段から武術場に下りてきた。
「ありがとうございました」
二人が改めてお礼を言うと、コルエンはにやりと笑った。
「俺は別に武術の先生でも何でもねえけど、まあ、あれだ」
そう言って、ウルリケを見る。
「ウルリケがさっき言ってた、魔術師にとって武術が役に立つかどうかってやつだけどな。やりもしねえうちから、役に立つとか立たねえとか言ってたって始まらねえだろ。結局のところ、実際にやってみなきゃ分からねえことだと思うぜ」
「……はい」
ウルリケは頷いた。
「どうせ、授業でやることになるのですから、きちんとやります」
「そうそう。どうせやらなきゃならねえなら、楽しんだ方がいいだろ」
コルエンはそう言ってまた笑った。
「さあ、次の場所に行きな。次の生徒が来たみたいだ」