誇り
惨めな気分だった。
最悪と言ってよかった。
ラウディに、
「よし。すぐにルネに伝えてこい」
と言われて教室に戻ったのだが、もうルネはいなかった。
それなら必ず寮で捕まえろ、と言われて、ようやくレクトは解放された。
本当なら、元気に走っていくはずだった庭園への道を、とぼとぼと歩く。
ラウディの言っていることがめちゃくちゃなのは分かっていた。
でも、確かに自分が足を引っ張っているという自覚もあった。
だがそれよりも何よりも、殴られた途端、その痛みと恐怖であとはもうその場からどうにか逃げるということ以外何も思い浮かばなかった。
僕は、臆病者だ。
レクトはそう認めざるを得なかった。
乱暴者にやられて、すぐに従ってしまった。
でも、仕方ないじゃないか。
相手はラウディだ。僕なんかがかないっこない相手だ。
ジルコやエダーだって、ラウディにケンカで負けて従ってるんだ。僕と同じじゃないか。
そう考えて自分を慰めようとしたが、気持ちはちっとも晴れなかった。
自分への情けなさと悔しさで目にいっぱいに涙が溜まっていたものだから、道の脇の石の上に腰かけていた生徒にレクトは気付かなかった。
「レクト」
その声に、はっと顔を上げる。三年生の編入生、アルマークだった。
「どうしたんだい」
ひょいっと石から飛び下りて、アルマークは歩み寄ってきた。少し怪訝そうな顔をしている。
「泣いているのか」
「泣いてないよ」
レクトはそう言いながら、涙を手で拭う。
「僕のことはいいから。放っておいて」
「そうか」
アルマークはレクトを見下ろし、頷いた。
「新しい生活は、色々と大変だからね。泣きたいこともある」
「だから、泣いてないってば」
そう反論したが、涙声だったので説得力はなかった。
アルマークはレクトの肩に手を置く。
「でも、泣くほど悔しいことがあるっていうのは、きっと素晴らしいことだよ。レクト」
そんなことを言われても嬉しくなかった。
泣かないで済むなら、その方がいいに決まってる。
北から来た編入生。やっぱり、変なやつだ。
「お互いに頑張ろう」
アルマークはそう言うと、また石の上に座り直す。
「イルミス先生が今日は用があるって言うから、場所を変えて瞑想の訓練をやってみてるんだ」
アルマークは深呼吸して息を整え、それから微笑んだ。
「君もどこか行くところがあるんだろ? 頑張って」
確かに、これから一人で庭園に行くつもりだった。
だがアルマークの穏やかな顔を見ていたら、急にレクトは尋ねてみたくなった。
「アルマークは、編入生なんでしょ?」
「うん、そうだよ」
「魔法が全然使えないんだよね」
「今はまだね」
「そのことで、邪魔だとか言われたりしないの?」
「え?」
アルマークは少し目を見張り、それから「ああ」と微笑む。
「クラスのみんなのことかい。みんな優しいから、あまり言われないけど。でもまあ確かに、授業の邪魔をするな、と言われたことはあるよ」
「そうしたら、どうするの?」
「どうするって」
レクトの質問の意図を汲み取れなかったようで、アルマークは目を瞬かせた。
「どういうことだろう」
「だって」
レクトは今日の自分を思い出して声を震わせた。
「そんなことを言われたら惨めで悲しいでしょ。それなのに、アルマークは平気な顔でずっと瞑想ばっかりしてるじゃないか。もう三年生なのに何の魔法も使えなくて、ほかの三年生はみんなとっくにすごい魔法を使ってるのに」
「うん、そうだね。みんなすごい」
アルマークは率直に認めた。
「かたや、僕はまだ瞑想もまともにできない。色々な魔法のコツとか注意点なんてことをみんなが話していても、僕には何一つぴんと来ない」
何でもないことのように話しているが、それはきっとレクトよりもさらに苦しい状態のはずだった。
初めての環境。初めての勉強。
レクトは少なくとも、学院生活のスタートラインはみんなと同じだった。
けれど、アルマークはスタートラインから違った。
周りがみんなとっくに知っていることを、彼は何一つ知らない。
「そんなとき、どうするの」
言葉足らずの質問だったが、今度はアルマークはレクトの言いたいことを理解してくれた。
「君の言う通り、自分で自分が情けなくなる時もあるよ」
アルマークは言った。
「早く追いつかなきゃって焦ることも」
そう言って、微笑む。
「そんなとき僕は、僕を送り出してくれた人たちのことを思い出すんだ」
「送り出してくれた人?」
「うん」
アルマークは優しい目でレクトを見た。
「君にもいるだろう。頑張れ、とか。しっかりやってこい、とか。そう言ってこの学院に送り出してくれた人が。僕にもいる」
遥か北に、と言って、アルマークは空を見上げる。
「僕は、いつか胸を張って報告がしたいんだ。父さん、あなたの息子は何事にも怯まず挑戦したよ。父さんの名に恥じない魔術師になったよって」
レクトは、アルマークが頭上の空を見ているようで、その実、レクトの知らないどこか遠くを見つめているのだということに気付く。
「父さん?」
「あ、言っちゃったね」
アルマークは照れたように笑った。
「僕を送り出してくれた時の父さんの言葉が、いつも支えてくれているんだ。弱い自分に負けそうになった時や、焦って自分を見失いそうになった時、僕はいつも父さんの視線を感じる。それでいいのか、アルマーク。お前は本当にそれでいいのか。いつだって後ろからそう訊かれてる気がする」
だから、大事なものを見失わずにいられる。アルマークはそう言った。
「きっと君にもいるだろ、そういう人が」
レクト。あなたは、私の誇り。
母さん。
レクトは不意に、故郷の母が旅立ちの日の朝に掛けてくれた言葉を思い出した。
いつも家族のために一生懸命な母さん。四人の妹と弟の世話に手いっぱいで、僕のことを構ってくれる暇なんてなかった。
だけどあの日、母さんは僕を抱き締めて、まるで湖みたいな静かな声でそう言ってくれた。
それは、あなたが魔法学院に合格したからじゃない。
あなたがとても優しくて、とても強い子だから。
寂しい思いをさせてきたわね、と母は言った。
それなのにあなたは、そんな素振りを決して見せなかった。
私や、妹や弟たちを、いつも気遣ってくれていたのね。
僕は、母さんの誇り。
心の中でそう呟くと、ラウディに殴られてぺちゃんこに潰れたはずの自尊心がむくりと顔をもたげた。
それはこの学院に来てからというもの、優秀な周囲に気圧され続けて見失っていた、素のレクト自身だった。
悔しい。
レクトは思った。
惨めだとか情けないとか、そんな感情は消え、心に残ったのは、シンプルな悔しさだけだった。
悔しい。
ラウディの顔を、言葉を、そして殴られた痛みを、思い出す。
僕はあんなやつに、あんな風に扱われていいのか。
僕は、そんな僕を許してもいいのか。
僕を誇りと言ってくれた母さんに、そんな姿を見せられるのか。
唇を噛んで大粒の涙をこぼしたレクトを見て、アルマークは目を細めた。
「もしかして、つらいことを思い出させたかな」
同情しているふうでも、心配しているふうでもなく。
北から来た編入生は、まるで最初から答えを知ってでもいるかのように、あくまでも淡々としていた。
「ううん」
レクトはもう一度、今度はローブの袖で涙を力いっぱい拭った。
「思い出したのは、つらいことじゃないよ」
「そうか」
「ありがとう、アルマーク」
思い出したのは、大事なことだ。
忘れちゃいけないことだ。
身を翻して校舎へと歩き出したレクトの背中にアルマークは、
「どういたしまして」
と声を掛けると、もう一度深呼吸して目を閉じた。
「もう一回言ってみろ」
ラウディの顔は、怒りで赤黒くなっていた。
「もう一回言ってみろよ、レクト」
「だ、だから」
レクトの足はがくがくと震えていた。
それでも、レクトは勇気を振り絞った。
アルマークの言葉を思い出す。
後ろから、母さんが見ている。
母さんに顔向けできないようなことを、するわけにはいかないんだ。
「僕は障害物競走に出る。明日の練習で、僕が足手まといじゃないことを、証明する」
ジルコもエダーも、ラウディの後ろで唖然としていた。
あの弱虫のレクトが、いったいどこにこんな勇気を隠し持っていたのか。
「面白え」
ラウディは獲物を前にした獣のように笑った。
「さすがにもう明日じゃメンバー変更は出来ねえ。それを分かっててそう言うからには、覚悟はできてるんだな」
「でき、てる」
レクトがぎこちなく頷くと、ラウディは右の拳を振り上げた。
「また殴られてえみたいだな」
反射的に身体がすくむ。
けれど、今度はもう殴られる覚悟はできていた。
不意打ちだったさっきとは違う。
「殴りたければ、殴れよ」
震える声でレクトは言った。
「ここは、人が来るぞ」
「なに」
レクトの言葉通り、道には他の生徒たちの姿があった。
皆、他のクラスや他の学年の生徒だったが、険悪な雰囲気の彼らをちらちらと見ながら通り過ぎていく。
「ラウディ、ここは目立つよ」
ジルコが少し怯えたような声を上げた。
「三年に見付かったらやばいよ」
先日のコルエンたちとのやり取りを思い出したのだろう。エダーも固い表情でちらちらと周りを窺っている。
「ちっ」
ラウディは拳を下ろすと、取り繕ったような笑顔でレクトの肩を叩いた。
「それなら明日が楽しみだな」
妙に優しい声で、ラウディは言った。
「結果次第じゃこれからの学院生活がずいぶんと楽しくなると思うぜ、レクト」




