恐怖
ベルティーナとハイデの交代という形で落着した話し合いが終わると、レクトは急いで鞄を持って校舎の外に出た。
明日の練習の前に、今日もう一度庭園に行っておかないと。
ネルソンに教えてもらったことをちゃんと実行するためには、とにかく自分で本気になって練習することが必要だった。
僕にだってできる。
それを見せるんだ
ウルリケが、僕を障害物競走に残してくれた。
それは間違いじゃなかったと証明してやる。
みんなの僕を見る目を、変えさせてやるんだ。
勢い込んで道を歩き出したところで、レクトは後ろから呼び止められた。
「おい、レクト」
もう、その声で誰なのかは分かっていた。
嫌な予感とともに振り向くと、案の定、ラウディがジルコとエダーを従えて立っていた。
「な、なんだい、ラウディ」
レクトは足を止めることなく、言った。
「僕、今日は急ぐんだけど」
「お前に急ぎの用なんかねえだろ」
ラウディは大股でレクトに追いつくと、彼の肩を掴んだ。
ジルコとは比べものにならない力の強さだった。肩を掴まれただけなのに、圧倒的な力の差を感じて身体がすくむ。
仕方なく、レクトは振り向いた。
「何の用?」
「レクト。お前さあ」
ラウディはいつものにやにや笑いを浮かべてはいなかった。顔を歪めて、冷たい目でレクトを見た。
「今からでも遅くねえから、ルネのところに行って、僕がベルティーナと交代するって言えよ」
突然の言葉に、レクトは戸惑う。嫌な汗が背中を流れた。
「ど、どうして」
「分かるだろ、いちいち言わなくたって」
ラウディは面倒そうに顔をしかめる。
「俺は勝ちてえんだ。他のクラスに負けたら、気分悪いだろうが。それにはお前がいたんじゃ邪魔なんだよ」
邪魔。
ラウディは言葉を選ばない。端的にそう言われるのは、つらいことだった。
「そんなこと言われても」
「お前がいなけりゃ勝てるんだよ」
ラウディは吐き捨てた。
「お前は板の塗り替え競争の方に行って、思いっきりレオンたちの足を引っ張って来いよ。あいつらは間抜け揃いだから、そんなことには気付かねえから。それであいつらが負けたら、お前を俺たちの仲間にしてやってもいいぜ」
なんだ、それは。
レクトは思わずラウディの顔を見上げた。
「そんなことしないよ」
レクトは言った。
小さな声で、それでも失望を口にする。
「僕、君の勝ちたいっていう気持ちは本当だと思ってたのに」
「ああ?」
ラウディが鼻に皺を寄せた。
そういう顔をすると、ラウディはまるで大人のならず者のように見える。そして、彼は自分でもそのことをよく知っていた。
「勝ちてえに決まってるだろ」
ラウディは言った。
「レオンの野郎にな」
「レオンに?」
他のクラスに、じゃなくて?
「だけどあの野郎、お高くとまってこっちを相手にしようとしねえ。だから、一度思い切り惨めな思いをさせてやる必要があるんだよ」
ラウディはその光景を想像したように、にやりと笑う。
「あいつと戦うのは、その後だ」
「その後って」
そんなことのために、せっかくのクラス対抗競技会を使うのかい。
一年生の交流を深めるための行事だって、ルネも言ってたじゃないか。
そう言いたかったが、ラウディに抗弁する勇気はレクトにはなかった。
「ごちゃごちゃうるせえな」
ラウディはレクトに顔を近付けた。
「ベルティーナと交代するのは、お前だ。これは命令だ、いいな」
その迫力は、ジルコに凄まれた時の比ではなかった。
恐怖で脚が震えた。
怖い。
誰か、助けて。
コルエンさん。この際、キリーブさんでもいい。
助けを求めて周囲を見回すが、そうちょうどよく何度も、知り合いの三年生が通りかかったりはしなかった。
「ちらちらと、どこを見てんだ」
ラウディはレクトの肩を掴む手に力を込めた。
痛い。
「お前は今、俺と喋ってるんだろ? なあ」
ラウディは怖かった。
こんな思いをするくらいなら、頷いてしまったほうが楽だ。レクトはそう思った。
「お前、ちょっと三年に仲のいいやつがいるからって、調子に乗るなよ」
ラウディの後ろから、ジルコが言った。
「三年なんて、来年には中等部に行っていなくなるんだからな。そうしたら、誰もお前を守ってくれねえぞ」
やはり、コルエンたちにやられたことを根に持っているのだ。
ジルコの言葉に、エダーがにやにやと笑う。
「二年にも仲間を作っておけばよかったなあ、レクト」
「二年なんか怖くねえよ」
ラウディが鼻を鳴らす。
「俺は三年だって怖くねえからな」
それは、嘘だ。
レクトは知っていた。
三年生のエメリアが近くにいるときは、ラウディだって大人しくしている。
そして、いなくなるとまたふざけだすのだ。
「ぐっ」
不意の痛みに、レクトは呻いた。
ラウディに腹を殴られたのだ。
ラウディにしてみれば軽めの一発といったところだったが、レクトには強烈だった。
腹を押さえて身体を曲げる。
「ううっ」
「もう一発要るか?」
ラウディは言った。
「なあ、どうするんだよ。ベルティーナと代わるのか、代わらねえのか」
答えないレクトの腹を、ラウディがもう一度殴った。
「うぐっ」
痛みは、抗いがたい恐怖を連れて来た。
とにかく、この暴力から逃れたい。
頭の中はそれだけでいっぱいになった。
それには、ラウディの気に入ることを言わなきゃ。
「おい」
その声とともにラウディが足を踏み鳴らすと、その音だけでレクトは身体をすくませた。
怯えた無様な姿に、ジルコとエダーが笑う。
「ははは、あんなにびびってらあ」
「情けねえな」
もう無理だ。
「わ、分かったよ」
半ば反射的に、レクトはそう口にしていた。
「交代する。僕が、ベルティーナと。だからもう殴らないで」
「わかりゃいいんだよ」
ラウディは満足そうに笑った。
「安心しろよ。俺がお前の分まで頑張ってやるからよ」




