事件
事件は、それから数日後に起こった。
1年2組の担任のワルハットの、植物の授業でのことだ。
「さて、今日は全員フルエプラムの種とナイフは持ってきているね」
ワルハットの言葉に、生徒たちは「はい」と返事して、黒い種を取り出す。
フルエプラムは赤紫色の甘い果実で、寮の夕食によく出るので、厨房の調理師たちに頼めば、くり抜いた種は簡単にもらうことができる。
レクトもライマーたちと一緒に厨房を訪ね、その黒い楕円型の種を手に入れていた。
だが、そのとき一人の生徒が手を挙げた。
「すみません。持ってきていません」
その生徒を見て、ワルハットは目を細める。
「ウルリケ・アサシア。寮に忘れたのかね?」
「いえ」
ウルリケは立ち上がり、答えた。
「今日の授業で種を使うということを知りませんでした」
「先日、日直の生徒を通してクラスには伝達したはずだよ」
ワルハットはそう言って、長いあご髭を手でしごいた。
「ほかには、持ってきていない者は?」
誰も手を挙げる者はいない。皆、机の上に黒い種を出していた。
それを確かめてから、ワルハットはウルリケに顔を戻す。
「君だけのようだね。情報というのは、誰かが与えてくれると思って待っているだけでは手に入らない。周囲の状況を見て自分から手に入れるよう努めなければいけない」
「……はい」
「そして無論、日直の生徒は、きちんと責任を持って全員に伝えなければいけない。そうしないと、こういうことが起きる」
「先生」
レクトは手を挙げて立ち上がった。
「その日の日直は僕でした。すみませんでした」
「申告してくれてありがとう、レクト」
ワルハットは手振りでレクトとウルリケを座らせる。
「けれど私はこういうことで犯人捜しをしようというつもりはない。今日はたまたま君とウルリケだったというだけのことだ」
ワルハットは、クラス全体を見渡した。
「彼らに限ったことではない。これからどんどん課題も多くなっていく。こういうことが増えてくるだろう。連絡がきちんとなされないと、授業が成り立たないこともある。予習や復習同様、持ち物の準備というのは非常に大事なことなんだよ」
そこまで言ってから、ワルハットはやや表情を緩めた。
「正しい情報を得ることは、魔術師にとっては生命線ともいえる。どうしてだか分かるかね、べルティーナ・ランプス」
「はい」
べルティーナが元気よく立ち上がった。
「魔術師は、ありのままを見なければならないけれど、正しい情報がなければ、見誤るからです」
「そうだ」
ワルハットは頷いた。
魔術師は、ありのままを見る。
それはこの学院の様々な教師たちが皆、異口同音に口にする言葉だった。
「ありのままを見る、とは何も言葉通りに目で見ることだけを意味しているわけではない。そのときの自分が感知できるあらゆる状況について、できる限り主観を排して」
そこまで言ってから、まだ初等部一年生には言い回しが難しすぎると思ったのだろう。ワルハットは咳払いして、まあつまり、と言い直した。
「ぼんやりと日々を過ごさないこと。いつでも、あらゆる事柄に興味と関心を持つこと。みんな、この学院ではそれを心がけて生活しなさい」
はい、という生徒たちの返事に頷き、ワルハットはもう一度ウルリケに目を向けた。
「それでは、ウルリケ。今日は隣の席の人に見せてもらいなさい」
「はい」
少し悔しそうな顔で、ウルリケが返事をする。
「今日、なぜフルエプラムの種を持ってきてもらったかと言えば、この種が一番よく魔力嚢の形が分かるからだ。植物が芽吹くための魔力が、そこには蓄えられている。それでは、種を半分に切ってみよう。みんな、自分の指を切らないように気を付けて」
種にナイフの刃を当てながら、レクトは先日、ワルハットから授業の指示を受けたときのことを思い返していた。
変だな。
どうして、ウルリケに伝わらなかったんだろう。
あのときは、確か。
レクトは思い出した。
そうだ。ワルハット先生から指示を受けて戻ってきたら、教室にはまだべルティーナたちが残っていて。
「じゃあ女子には私が伝えておくわよ」
とケリーが言ってくれたんだ。
だから、レクトは安心して、男子にだけ連絡したのだ。
それがまさか、よりによってウルリケにだけ伝わっていないなんて。
不機嫌そうに隣の席の男子の手元を見ているウルリケの背中を、レクトは見た。
ああ、僕のせいだって怒ってるだろうな。
ウルリケの今の気持ちを想像すると、身体がすくむようなやるせない気持ちになる。
一番前の席で、隣同士楽しそうに話しているケリーとデルマの姿も見えた。
ケリーがちらりとウルリケの方を振り返る。
その表情を見て、突然レクトにはある疑念が浮かんだ。
もしかして。
……ケリーは、わざとウルリケにだけ伝えなかった?
まさか、そんなわけないよな。
自分の考えを慌てて打ち消そうとする。
いくらケリーたちとウルリケの仲が良くないからって、そんな陰険なことをする子じゃないはずだ。
そう思いたかったが、その疑念はなかなか消えなかった。
あとで、ケリーに確かめてみようか。
そんなことを考えていたら、手元が狂った。
「あっ」
妙な力が入り、種が手の中でぐるりと回った。その拍子にナイフの刃がずれて、左手の指先に食い込んだ。
「いたっ」
「おい、大丈夫かよ」
隣の席のライマーが声を上げる。
「気を付けろって言われたばっかだろ」
「うん、大丈夫……」
そうは言ったものの、人差し指からはたちまち赤い血が溢れ出した。
「ああっ」
「先生、レクトが」
ライマーが手を挙げたときには、ワルハットはもうあご髭をしごきながら歩み寄ってくるところだった。
「集中することだよ、レクト」
ワルハットはそう言いながら、レクトの手を取った。
「他の何かに気を取られながらいい加減に扱えば大怪我をするのは、刃物も魔法も同じだからね」
ワルハットの手がレクトの傷にかざされると、次の瞬間には、痛みは消えていた。
「すげえ」
ライマーが目を丸くする。
傷は消え、指先にはそこから流れた赤い血だけが残っていた。
「手洗い場で血を流してきなさい」
ワルハットは言った。
「はい」
恥ずかしさと、それから理由の分からないやるせなさで、クラスメイト達の顔を見ることができず、レクトはうつむいたまま立ち上がった。




