教室でのトラブル
「もう、だからどうしてそうなるのよっ」
穏やかな春の日の午後。
一日の授業が終わった初等部1年1組の教室には、まだクラスの半数ほどの生徒が残っていた。
皆がそれぞれ、これから夕食までの時間を庭園で遊ぶか、森へ行くか、それとも寮に帰ってゆっくりするか、そんなことを楽し気に話しているときだった。
突然響いた少女の怒鳴り声に、教室は一瞬で静まり返った。
他の男子たちと話していたレクトも振り返り、その声の方を見た。
ああ、まただ。
心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚があった。
また、ウルリケが揉めている。
生徒たちは皆、そちらに注目していた。
いつも大声でふざけまわってばかりいるお調子者のライマーまでが、呆気にとられたように動きを止めてそちらを見ている。
「そんなこと、私言ってないでしょっ」
顔を真っ赤にしてそう声を張り上げているのは、べルティーナ。
いつもは朗らかで明るいこの少女が、こんな表情でこんな声を上げるなんて。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、男子たちは互いに顔を見合わせた。
そしてそのべルティーナの前で、平然とした顔をしているもう一人の少女。
ウルリケ。
ウルリケは額にかかった前髪を指でかき上げて、それから冷たい声で、
「でも、そう聞こえたわ」
と言った。
「あなたがそう言ったのよ」
「そんなつもりじゃないっ」
べルティーナは首を振る。
「変な風に捻じ曲げないで」
「捻じ曲げたつもりなんてないわよ」
ウルリケは微かに眉根を寄せる。そうすると、ただでさえ冷たい印象を与えるその整った顔に、さらに近寄りがたい雰囲気が増す。
「あなたの言葉を、私がそういう風に受け取ったっていうだけの話だもの」
「もういい」
べルティーナは叫ぶと、その勢いのままに教室を飛び出していってしまった。
「あ、べルティーナ!」
彼女と仲のいいケリーとデルマが慌てて後を追う。
ウルリケはというと、少し首をかしげてそれを見送り、それから自分の席に戻って鞄に本を詰め始めた。
もう帰るつもりなのだ。
べルティーナからあんなに激しく感情をぶつけられたのに、特に動揺した様子も見られない。
「ねえ、ウルリケ」
その様子を見ていたハイデがウルリケに声を掛ける。しっかり者で物怖じしないこの少女でさえも、少し呆気に取られているのがレクトにも分かった。
「あなたもべルティーナを追いかけたら?」
「私が?」
ウルリケは心底意外そうに、目を見張った。
「どうして?」
「だって」
ハイデは、もうすっかり帰る準備を終えたウルリケを困ったように見る。
「行き違いがあって、それでべルティーナが怒ったんでしょ? 私たちクラスメイトなんだから、そういう誤解は早めに解いた方がいいと思う」
「ただのクラスメイトよ」
ウルリケは、あっさりとそう言い放った。
「ハイデ。あなたはこの学院にお友達を増やすために来ているの? 私は魔術師になるために来たのだけれど」
「私だってそうよ」
ハイデは少しむっとした顔をする。
「ウルリケ。だから、あなたのそういう言い方が」
「私は間違ったことは言ってないから。それじゃあね」
ウルリケは鞄を肩に掛けると、さっさと教室を出ていく。ハイデは腰に手を当てて、頬を膨らませた。
「もう」
「……またウルリケお嬢様だぜ」
黙って一部始終を見ていた男子の中で最初に口を開いたのは、お調子者のライマーだった。
「困っちまうよな。いつもあいつのせいで女子の機嫌が悪くなるんだ」
「そうそう」
気の弱いモリスが肩をすぼめて頷く。
「僕なんかこの間、ウルリケとケンカした後のケリーに八つ当たりされたんだから」
「ほんと迷惑だよな、あいつ」
ライマーとモリスが頷き合うのを、レクトは複雑な気持ちで見ていた。
レクトも、入学当初はウルリケのことを冷たくてとっつきづらい、ちょっと怖い女の子だと思っていた。
けれど、今はその印象がすっかり変わっていた。
ひと月ほど前に、学院内を上級生に案内してもらうオリエンテーションがあった。
そこで彼女とペアになった時に、確かにウルリケは思ったことをずけずけと言ってしまうところはあるけれど、真面目で不器用なだけで、意外に優しい一面もあるということに気付いたのだ。
それからは、レクトは気付くといつも彼女を目で追うようになっていた。
中原の大国フォレッタ王国の貴族であるウルリケと、南の小国の平民出身のレクトとでは何もかも違いすぎて、あの日を境に友達になれたなどとは思っていないが、それでもこのクラスで一番彼女のことが分かっているのは僕だ、という密かな自負のようなものが、レクトにはあった。
「僕、ちょっと用を思い出した」
レクトはそう言って自分の鞄を掴んだ。
「ごめん、先に帰るよ」
「え、レクト。森に行かないのか」
ライマーが声を上げる。
「新しく見付けた水場に行こうって、さっき自分で言ってたくせに」
「ごめん」
レクトはそう言いながら、もう教室の外に飛び出そうとしていた。
「また明日にでも」
「なんだよ、あいつ」
ライマーの不満そうな声を背に、レクトは廊下に出た。
ウルリケは、まだきっとその辺にいるはずだ。
ノルク魔法学院。
南の大国であるガライ王国の領内、南の海に浮かぶノルク島にある世界で唯一の魔術師養成機関の名だ。
普通、魔術師を志す者は、魔術師や魔女の弟子となって魔法を学ぶ。
だが、この学院では魔術師が教師となって体系的に魔法を教授する。
資質、才能が認められて入学できる子供は毎年五十名にも満たない狭き門だが、入りさえすれば、貴族でも平民でもその身分を問われることなく平等に教育を受けることができるのだ。
在校期間は、初等部3年、中等部3年の6年間。そこまでで一通りの魔法を学び魔術師として卒業する者も多いが、さらに高等部に進み専門領域を研究する者もいる。
レクトたちは、この春に入学したばかりの初等部一年生だ。
だから、まだ何の魔法も使えない。
上級生たちと同じように、学院の生徒の証である濃紺色のローブをまとって、格好だけはまるで魔術師のようだけれど、授業ではまだ魔法のことなどほとんど何も教わってはいない。
読み書き計算から、自然や生物、神話や歴史についてなど、勉強しなければならないことは多岐にわたるが、直接に魔法を扱う授業はない。
毎日、かなりの時間が割かれている瞑想の時間だけが、魔法学院らしい唯一の授業と言ってよかった。
ウルリケを追って、レクトは初等部の校舎を飛び出した。
目の前の道を右に行けば、寮の方向。左に行けば、森の方向。
レクトは迷わず右へと向かう。
この学院では、生徒は全員が学院の敷地内の寮で生活している。
だからウルリケも、校舎から雑木林を抜けたところにある寮へと向かうこの道を一人で歩いている途中のはずだった。
レクトは息を切らして走った。
途中、数人の生徒を追い抜かし、ようやくウルリケの背中を発見した。
ウルリケは、歩くのが速い。
それは、最短距離で魔法を学ぼうとしている彼女のせっかちな性格を表しているようでもあった。
「ウルリケ!」
レクトが名前を呼ぶと、振り向いたウルリケはわずかに表情を緩めた。
「ああ、レクト」
ウルリケは、歩く速度を落として、レクトが隣に並ぶのを待ってくれた。
「どうしたの、そんなに走って」
さっき、べルティーナとあんなことがあったばかりなのに、ウルリケはまるで気にしているように見えない。
実は一人で落ち込んでいるんじゃないか、と心配していたレクトは、拍子抜けして、
「あ、いや」
と口ごもった。
「ちょっと今日は寮に早く帰る用事があるんだ」
そんな適当なことを答える。
「ふうん」
ウルリケは目をくるりと回す。
「何かの当番?」
「そういうわけじゃないんだけど」
「あら、そう」
他の女子、たとえばさっきウルリケと揉めていた明るくて朗らかなべルティーナだったら、「え、それじゃ何の用があるの? 教えてよ」などと話を広げようとしてくれるのだが、ウルリケは別に興味もなさそうに頷いただけだった。
まあ、それがウルリケという少女なのだ。仕方ない。
レクトは、ウルリケと初めて口をきいた日、つまり上級生たちに学院を案内してもらったオリエンテーションの日のことを思い出していた。
あれはもう一か月くらい前のことだ。
あの日は、すごく楽しかった。
ウルリケともすごく打ち解けた気がしたし、これからきっと楽しい学院生活が始まるんだなって、素直にそう思えた。
けれど、翌日のウルリケはまるで前日のことが夢だったかのようにそっけない態度だったし、レクトも本格的に始まった諸々の勉強や仲良くなった男子のライマーやモリスと一緒に遊ぶことで忙しかった。
それでも、時々言葉を交わすときのウルリケの口調が、自分に対してだけは柔らかいのは、気のせいというわけではないとレクトは思っていた。
「ウルリケのやつ、お前と話すときだけ優しくねえか?」
ライマーにそう怪しまれたこともある。
そのときは、「そんなことないよ」と慌てて否定したのだが、内心は嬉しかった。
レクトは、隣を歩くウルリケをそっと盗み見た。
こうして嫌がりもせずに一緒に寮まで帰ってくれるのだから、きっとウルリケも僕のことを嫌いというわけじゃないはずだ。
あの日の出来事は、夢なんかじゃない。…はずだ。
「ウルリケは、今日は寮で何をするの?」
レクトはそう尋ねてみた。
「昨日図書館で借りた本を読まないと」
ウルリケはそっけない口調で答える。
「明日には返して次の本を借りたいの」
「そうなんだ」
図書館は校舎に併設されているが、レクトは一度しか行ったことがなかった。
声を出してはいけない圧迫感のあるあの雰囲気がどうにも苦手なのだ。
「レクトも行ってみたら?」
ウルリケが言った。
「難しい本ばかりじゃないわ。面白い本もたくさんあるわよ」
ウルリケの髪が風で揺れる。レクトを見る彼女の目は優しくて、先ほどべルティーナに冷たい目を向けていた子と同一人物だとはとても思えなかった。
「う、うん。行ってみようかな」
レクトは少し照れくさくなってそう答えると、思いのほか機嫌の良さそうな彼女におそるおそる尋ねてみた。
「ねえ、さっき教室でべルティーナと何かあったのかい」
ああ、とウルリケはつまらなそうに頷く。
「大したことじゃないわ。明日の授業で使う薬草を摘みに、一緒に森へ行こうって誘われたから、私はもう昨日自分で摘んだからいいって言ったのよ」
「うん」
「そうしたら、じゃあ一緒に行ってその場所を教えてって言われたの。だから、それってあなたのために薬草を摘むのを手伝えってことよねって言ったら」
ウルリケは肩をすくめる。
「怒っちゃったの。めんどくさい」
「あー……」
昨日摘みに行ったのに、今日も行こうと言われたら、確かに面倒かもしれない。ウルリケの気持ちも何となくは分かる。
でも、ウルリケも少し言いすぎな気はした。
僕だったら。
レクトは考える。
もしライマーに、薬草の生えてる場所を教えてくれって言われたら、結構得意になって教えちゃうけどな。
「私たち魔術師になるんだから、自分のことは自分でちゃんとやらないと」
ウルリケはそう言って、レクトを見た。
「そうでしょ? レクト」
「うん」
レクトは頷くしかなかった。