口づけのゆくえ(3)
御前試合以降、ユベールは自分が一番損をしたと思っている。優勝してしまったことで配下の将軍達がいい気になって仕事を増やしてくるのだ。今まで出来ない振りして駄目王子を演じていたのに通用しなくなっている。やる気が無いのは認めてくれているが、あの手この手と攻められて結局それらを払うのが面倒になって片付けてしまう。今日はそれらに開放されて諸悪の根源であるフェリシテのところに向かっている。
(全くあいつらときたら、明日はフェリシテの所に行かねばならない、と言った瞬間に山積の書類が帰る頃には跡形も無くなって、二、三日ごゆっくりと言うなり送り出すなんてふざけた奴らだ!)
ユベールが忙しくなったせいもあるが、今は最初の頃のように始終一緒にいる訳では無いのだ。だから今のユベールの役目は、もっぱらフェリシテの自習相手だった。
何時ものように先触れをせず彼女の部屋に訪れた。扉を開けて瞳に飛び込んできた光景に彼は立ちつくしてしまった。
大きな窓の側で朝の柔らかな陽を全身に浴びながらフェリシテは赤ん坊を抱いていたのだ。その子はご機嫌で腕を振りながら彼女に声をあげて笑いかけている。彼女はそれを嬉しそうに微笑みながら愛おしそうに頬ずりしているのだ。
眩いまでの愛が溢れた自分では望むことの出来ない光景に、ユベールは胸が痛んだ。
フェリシテが入り口に立つユベールに気が付いた。
「王子! おはようございます。今日は早いですね」
フェリシテの声にユベールは呪縛から解かれたかのように身体が揺れた。いつの間にか身体中強張らせていて、両手も爪が食い込むぐらい握り締めていたようだった。
「ああ、おはよう。どうしたの? その子?」
「侍女のアンナのお孫さんです。娘さんが尋ねて来られていたから抱かせて貰っていました。アンナ本当に可愛いですね。私、赤ちゃん大好き! 」
フェリシテはまた嬉しそうに頬ずりしている。
彼女の腕の中の赤ん坊を良く見ると、榛色の髪と瞳をしていた。
(榛色か…珍しくも無い色だが…まるで叔父上のようだ)
ユベールは自分で勝手に思っただけなのに何だか腹が立ってきた。
フェリシテは名残惜しそうにその子を侍女のアンナに返していた。
「ありがとうございます。この子も姫様に祝福して頂いて幸せでございます。それに姫様もご結婚なさいましたらすぐに授かりますよ。ご自分のお子様をお抱きになるのもそう遠くございませんでしょう? 私共もお世話させて頂くのを楽しみにしております。どの御夫君になられてもさぞかしお美しく立派なお子様として誕生なさいますでしょうから」
アンナも自分の孫が主人に褒められて嬉しそうに余計なことまで言うから、ユベールは何故か不愉快でたまらなかった。
侍女達が全て退室して行った。用意されたお茶を勧めながらフェリシテは椅子に腰掛けたがユベールはまだ不機嫌そうに立ったままだ。
「? 王子どうかしました? 今日、教えて頂きたいものはですね…王子?」
(何を拗ねているのかしら?)
「今日は私一人? この後、誰かと約束があるの?」
「いいえ、今日は王子だけですよ」
「へ~え。夜も?」
「王子! 何が言いたいのですか! 回りくどい言い方しないでハッキリ言って下さい」
「最近さあ~君、良く叔父上と稽古以外にも出かけているよね。先日は驚いたよ、一緒に夜会に現れたからね」
「断る理由などありませんから、ギスラン様だけで無くお誘いは受けています! 」
確かにシャルルにしてもマティアスにしても彼女を誘って連れ出しているのは事実だがギスランの行動の方が遥かに印象的なのだ。ユベールもマティアスらしからぬ失策に
〝遅れをとるな!〟 と彼に文句を言って焚きつけたばかりだ。
傍から見ればフェリシテとギスランはかなり親密そうに見える。先日の夜会でもそうだ。あれにはユベールも驚いた。夜毎、大なり小なり開かれる華やかな夜会にまさか彼女が出席するとは思わなかったのだ。彼女はお堅い女神官そのままで早々に寝床につき日の出とともに起床する。世の貴婦人には考えられない規則正しい生活を送っていたのだ。夜遊びに誘うなどそれこそ眉間に皺を寄せて蹴られると思っていた。
「夜会とか良く行ったね。夜遊びなんか嫌いかと思っていたよ」
「あれも勉強です! ギスラン様が夜の宮廷とか貴婦人の嗜みの勉強とか言われたので行ってみたのです!」
「へえ~宮廷とかの勉強はシャルルの担当じゃなかった?」
「シャルルは夜の外出できないでしょう?」
「そうだったね。でも勉強のわりには楽しそうだったじゃないの」
「何が気に入らないのですか! さっきから色々嫌味を言われて! 王子こそ私驚きました! あ~んなに沢山のご婦人方に囲まれて本当に嫌らしい。誰彼構わず口づけなんかもされていて、少しは見直していたのに呆れました! 」
フェリシテは立ち上がってユベールを睨んだ。
フェリシテは夜会と言うと余り良い印象では無かった。贅沢に堕落した悪の源のような話を神殿では聞かされていたからだ。しかし夜の宮殿は昼と趣が全く異なり宝石箱をひっくり返したような煌びやかさで目を奪われた。もちろん庶民には考えられないような贅沢かもしれないが、洗練された人々の機知に富んだ会話に数々の話題。此処に来れば馬鹿な噂から驚きの真実まで何でも揃いそうな感じだった。ギスランが変な輩を防いでいたのも幸いして、好奇心旺盛なフェリシテにとって決して嫌悪する場所では無かった。
しかし堕落の象徴のようなユベールを見つけた時には腹が立った。彼はその場にいる誰よりも美しかった。それはまるで気まぐれに羽を広げる孔雀のように目を惹いた。しかも更に彼を飾るかのように、美しく洗練された貴婦人達が囲んで楽しそうに笑っていたのだ。相変わらずフェリシテが指摘するように瞳は冷めていたが、それはご婦人方には関係無く、彼の言葉と素振りだけで満足させているようだった。魅惑的な身体を彼にすり寄せている人もいれば、口づけをねだる人もいた。それに王子は愉快そうに応えていたのだ。
フェリシテはその有様を見て胃がぎゅっと締め付けられる気がした。いずれにしてもそんな王子を見るのは不愉快でたまらなかった。
彼女に何時もの乱行を見られたのは不味かったとユベールは思ったが、そのことを指摘されたのに腹が立った。
「何? 妬いている訳?」
「な、な、何を言っているのですか! 何で私が妬かないといけないのですか! 冗談じゃありませんよ。王子が誰と口づけしようが、抱き合おうが私には関係ありませんから!」
「へえ~そう? 忘れているかも知れないけれど、一応私は君の夫候補なんだけどね。つれないな。だいたいあの約束忘れているだろう? 今して貰おうかな」
「つれない? 別に冷たくして無いじゃないですか! それに何ですか、約束って! 」
「忘れたの? やっぱり冷たいな。優勝商品だよ」
ユベールはそう言うと妖しく笑いながら自分の唇に人差し指を当てた。
「ちょ、ちょっと待って! 」
「待てないよ。あの時は散々恥をかいたしね。さあ、じっとして」
ユベールは花に止まった蝶を捕まえるかのように、そっと近づいてくる。
(あっ、駄目!)
フェリシテは逃げようと左右に瞳を動かしたが、足が床に縫いとめられたように動かない。ユベールの情熱を秘めた碧い瞳が、彼女の自由を奪ってそうさせていた。
「今日は逃がさないよ」
ユベールは彼女をそっと抱き寄せた。その瞬間フェリシテは震えた。今からおこることに対する恐怖なのかそれとも期待なのか分からなかった。
気丈な彼女が儚げに震える様子にユベールも一瞬躊躇した。
(やはり、恐いのか? まるで私が悪いことをしている気分になる…)
もう此処で止めてしまおうかと思ったが、手に伝わる彼女の柔らかい身体の感触を意識した途端、理性は脆くも崩れてしまった。
「恐がらないで、さあ力を抜いて。恐くないから…」
まるで小さな子供に言い聞かせるように優しく囁きながら、最初に彼女の細い首に唇をそっと当てた。フェリシテの肌はまるで花の蜜のような香りがした。甘く蕩けるような香りだ。それから頬に額にとさ迷いながら口づけの雨を降らせる。彼女の強張った背中が少し緩んできたところで唇を重ねた。
フェリシテは、ビクリと大きく震えたが王子の腕からは放しては貰えない。それは夜会で貴婦人達に王子がしていたような簡単な口づけではなかった。
これは何時も感じる嫌悪ではなくて甘い感覚だった。大好きな甘い菓子を一口食べた時のように広がる幸福感と、何時までも残る甘い味―――
身体中に痺れるような感覚が駆け巡った。息もつけないぐらい深く重ね続けられる口づけに、フェリシテは立っているのがやっとだった。
ユベールもふざけ半分に始めたことだったが、彼女の肌に口づけをした時は、理性が崩れたどころか跡形もなく消し飛んでしまった。怯えている彼女を無視してでも無理やりでも支配したくなった。フェリシテの更に甘い蜜のような唇を…思う存分味わうことしか考えられなかった。何時までもこうしていたい感覚に陥っていた。そして彼女に男の恐怖を植え付けさせた忌まわしい記憶を自分が甘美なものに塗り替えてやりたかった。しかしそう思えば思う程、欲望剥き出しで烈しく彼女の唇を求め攻め立ててしまったのだ。
その烈しさにフェリシテの方が先に我に返ると流石に恐くなり、身体の震えが大きくなってきた。ユベールは、はっと我に返り顔をあげた。
「―――すまない。やりすぎた」
「も、もう――っ本当よ! あと十回ぐらい優勝して貰わないといけないぐらいよ! もう、知らない! 王子なんか、大、大、大嫌い! 」
フェリシテも初めてのことで恥ずかしいやら、誘惑に負けた自分が悔しいやら何がなんだか分からない気持ちがぐちゃぐちゃに入り乱れていた。それを引き起こした王子に鬱憤を晴らしたかった。怒ってそうなったのかさっきの余韻なのか?フェリシテは真っ赤な顔をしてユベールに食って掛かった。
「うわっ、本当にすまない。許してくれ! ちょ~とするだけのつもりだったんだけど、あんまり君が甘いんでついつい深みにはまってしまって―――」
「私のせいだって言うんですか! 王子もみんなと一緒ですね! みんな私が誘っている、私が悪いって言うのだもの!」
「違う、そんなことを言ったんじゃ無い! 君が魅力的だったと言いたかったんだ。蜜のように甘くて耐え難い魅力だよ。君は? そんなに嫌じゃなかっただろう?」
「それは…でも駄目! 私はお菓子でいいわ!」
ユベールの瞳が意地悪く光った。
「へえ~君の好きなお菓子みたいに私の口づけは良かったんだね? そうか、そうか」
「良かったなんて言ってないでしょう! お菓子で十分と言っただけだわ! 」
「お菓子みたいに甘くて、美味しくて良かった。だろう?」
「もう―――っ、知らない! 王子とはもう絶交です。勝手に解釈するからもう口も利いてあげません! 」
「それは無いだろう? もうしないからさ、許して」
「当然です! 陛下のお決めになられたことだったから従いましたけれど、接吻なんて誰彼構わずするものではありません!結婚を約束した方だけとする以外は駄目です! だから私も今後は夫と決めた方とだけします!」
「―――ああ、良く分かっている」
ユベールはまた少し不機嫌な表情をした。その様子を見たフェリシテは言い過ぎたかなと思って許してやることにした。
「分かって下されば良いです。それにこれは貸しにします」
「何だって!」
「さっき言いましたでしょう? 優勝十回ぐらいして貰わないと釣り合わないって。もう試合はないから私のお願いは十回きいて貰いますからね。そうして下さるなら絶交は取り消します」
「フェリシテ、君って〈天の花嫁〉なんかじゃ無いな。きっと〈虚無の花嫁〉だ! 」
「あら? そんなこと言って宜しいのですか?」
憎まれ口を吐く彼をチロリと見て言った。
「え~と。あの、すまない。分かった、分かった。言う通りにする」
ユベールは、とうとう十回のお願いをきく事を承諾させられてしまった。彼女のお願いとは嬉しいようで、恐い気もする。無事に克服出来るようにと天に祈った。
「では、一つ目です。不特定多数のご婦人方とのお付き合いはなさらないで下さい。不道徳で不謹慎ですから」
「何だって! それは私が悪い訳ではないんだよ。ご婦人方が勝手に寄って来られるからだね、それを一々断ったり避けたりするのは大変面倒なんだよ」
「あら?私にそんな嘘は通じませんよ。最初に遇った時なんか初対面の私を熱心に口説いていたでしょう? 私、てっきりそう言う仕事の人と思ってしまったぐらいだもの。何時もそうやっているのでしょう?興味なさそうな瞳をしているのにね!」
適当に受け流していたユベールの瞳が光ったような気がした。今のフェリシテの言葉が癇に障ったらしい。
「興味なさそうな瞳か! 本当に君は人の神経を逆撫でするような事をお構いなしに言うね! その通りだ! 私は興味ある振りをしているだけで、何もかも全く興味は無い、どうでもいいんだ。〈天の花嫁〉だって同じだ! 君に興味は全然無い!」
一気に喋ったもののユベールは自分の発してしまった言葉に唖然とした。そこまで言うつもりも無かったし、何故か彼女の前だと隠している本心を晒してしまう。
フェリシテを見た。彼女が今の言葉にどう反応しているのか気になった。傷ついているのか怒っているのか―――
しかし予想に反してフェリシテは微笑んでいた。嘲笑では無く嬉しそうに。
(何がそんなに嬉しいんだ?)
「分かりました」
「何が分かったと言うんだ?」
怪訝な顔をするユベールにフェリシテは、にっこりと笑顔を送った。
「深い意味は無いです。でもようですね~王子はどうでも良いことでしょうが、私は王子に興味はありますよ。とっても」
「えっ?」
ユベールは言葉に詰まってしまった。男にそんな台詞をさらりと言うフェリシテは、恋の駆け引きに長けた貴婦人でも無い。何も考えていない素直な気持ちだろう。それにこの調子なら誰にでも言っているに違いないとユベールは思った。
(しかし何と抗い難い魅力的な言葉なのだろうか…)
フェリシテにしたら 〝王子に興味がある〟 と言うのは当然の言葉だった。彼には興味が尽きない。最近では本心が瞳に見え隠れするようになったし、今日は何時も適当にかわされていた気持ちを、とうとう言わせることが出来たのだ。まるで 〝からくり箱〟 を扱っている気分で一つ鍵となる部分を見つけたような嬉しさだった。
「ふふふっ、王子は 〝からくり箱〟 みたいですよね。綺麗で内側はどうなっているのだろうと開けてみたいのに開かない。上を見ても下を見てもどこから見ても、どうなっているのか分からないし隙間も無い。何層にも仕掛けがしてあって開けれそうかなと、どんどん開けてみてもやっぱり開かない。ねえ、似ているでしょう?」
「……私も色々称えられたことあるけど箱みたいと言われたのは初めてだな。君には参ったよ。降参だ。でも一つ忠告させて貰うよ。私以外の男に微笑んで 〝貴方に興味がある〟 なんて言うものじゃ無い。私だったから良かったものの、そんな言葉は恋の駆け引きの常套手段なんだからね」
フェリシテは驚いて瞳を、ぱちくりさせた。
「こ、恋の駆け引き? そ、そうなのね。大変! 」
「そうだよ。貴方が好きと言っているようなものだからね。もう誰かに言った? 言っていたとしたら勘違いさせていると思うな」
「ええっ! ちょっとまって、えっと、……大丈夫。王子にしか言って無いみたい! 」
「えっ? 私だけ?」
「あっ、もしかしてさっきのお菓子食べた方が良いとか言ったのも、王子が言われたような解釈になるのかしら?貴族社会は普通じゃない意味を含まれることが多い訳ね。これは大変だわ。気をつけないと駄目ね。でもどれがそれに当たるのかも分からないし…何か参考書とかあるのかしら? マティアス様にもお聞きしてみようかしら」
一人で自問自答し始めたフェリシテを、興味など無いと言った筈のユベールが興味深げに眺めた。そしてその口元は微笑んでいるようだった。
(そんな参考書を訊ねられたマティアスの顔が見ものだな。次回は是非同席させて貰おう。それにしても私だけに言ったか…)
少し嫉妬しているユベールとフェリシテも気になり始めました。そして後半に来てやっとラブシーン。私は独占欲いっぱいの無理やりキスシーンが好きなのでパターンだなぁ~とおもいつつ…レギナルト皇子に比べれば無理やり度低いですけどね。ユベールも頑張ってもらいたいです。