口づけのゆくえ(1)
フェリシテが王城に来てから二ヶ月を迎えようとしていた。もうすっかり秋に季節も移り変わり王城の庭園も落ち着いた彩りに染まっている。
王宮の一角にある女王ブリジットの執務室に、大神官エルヴェ・ガロアが伺候していた。
執務室は王が一人で使用するもので、特別に広くも無く華美な装飾は一切無い。堅実な女王が好む実務重視の部屋だ。
二人の会話は例の国家の重大事項である〈天の花嫁〉の夫選びの件だった。
「―――その後、進行状況は如何でございますか?」
「そうじゃな…ユベールは相変わらずじゃが、フェリシテもなかなか堅牢であるぞ。候補者達に一向になびく様子も見えない。あと特にギスランはかなりの入れ込みようと見た」
「――さようでございますか。まだ天の姫の気持ちが傾かないのであれば話は進みませんが……ユベール王子が問題でございますね」
「しかしな、エルヴェ、ユベールがここ最近、元帥府に赴いて執務をしているのだから驚きであろう?フェリシテがそう仕向けたようじゃ」
「ええ、それは私も驚いております。天の姫が何をされたのかは分かりませんが、他の方の言うことを聞かれるような王子ではではありませんから」
遠慮深く返答する大神官に女王は、ニッ、と微笑んだ。
「不思議であろう?それに伴ってフェリシテが元帥府で剣の稽古をするものだから、東も西も大事だそうじゃ。余も先日密かに行ってみたが面白かったぞ。フェリシテが丁寧に一兵士に至るまで声をかけるから、将校はもとより笑えるくらい歴戦の勇士どもが舞い上がっていて、ギスランから怒鳴られておったわ。ユベールもなんだかんだ言ってはいたが彼女に付き合わされてやって色々しておった。傍から見ればギスランと対抗している感じにも見えなくもない」
「競われていらっしゃるのですか?」
「さて、どうであろう。それこそ謎じゃ。本気の素振りとは言い難いがな」
「さようでございますか…」
「そこでじゃ。ここは一つ御前試合を主催しようと思うのじゃ」
「御前試合でございますか?」
「そうじゃ。騎士の位だけに限定されてしまうからシャルルは出場出来ないが他三人には出て貰う。勝者には褒美の他に〈天の花嫁〉からの祝福の口づけ付きじゃ。騎士達も多いに張り切って参加しよう」
「陛下、それはオベール公にかなり有利な話ではございません?前回の優勝者でございますのに」
「前回はマティアスもユベールも出ていなかったではないか。マティアスも普段は文官であるが剣の腕はギスランと良い勝負をすると聞き及んでいる。それにユベールじゃ、あれこそ本気を出さないから実力は計れないが…ギスラン曰く手合わせしなくともユベールの実力はかなりなものだそうだ。ふざけていても戦士特有の隙が全く無いそうじゃ。いずれにしても楽しみよ。それと真剣になってもらう為もう一つ付け加えよう。優勝者に嫡流でなくても王家の血脈が多少でも汲むものであれば〈天の花嫁〉の夫候補に追加しようと思う。ある程度の貴族や騎士であれば家系を辿れば王家と繋がっておろうし」
「陛下!それはなりません!これ以上候補者を増やしてどうなさいますか。お考え直し下さいませ!」
大神官は顔色を無くして反対したが、女王は軽く受け流して聞き届けようとしなかった。
「良いでは無いか。士気も上がるであろうし、それにフェリシテも彼らの勇姿を見て心がときめくのではないか? 余はそうであったぞ。愛する夫ノエルが御前試合で勝者となって、余に祝福を受ける為に跪いた時の高鳴る思いは今でも忘れぬ。我らはその時に愛が芽生えたのじゃ。のうエルヴェ良い設定だと思わないか?」
「―――はい。確かにその話は良く聞かされておりました」
思い出に浸りかけていた女王は彼の言葉に、はっとした。
「余計なことを申した。そなたには耳が痛い話であったな」
「いえ。昔の話でございますし、私には関係の無いことですのでお気使い無く」
ガロア大神官は、そう言ってゆっくりと笑みを浮かべた。
彼は女王ブリジットの双子の妹ルイーズの私生児だった。三十数年前の恋物語の片方の物語は悲恋物語だ。御前試合の勝者ノエルはその当時、彼の母ルイーズの婚約者であったのだ。ルイーズの一方的な片思いであったが、姉から愛する勇者を取られて自暴自棄になったルイーズは行きずりの吟遊詩人との間に子を生んだ。それが彼だった。その後、彼の才能を見出した先の大神官の養子となり今に至っている。
「こんな事を言うのも何だがルイーズは心が弱かった。そなたも苦労したであろうな」
「―――いいえ。大神官様と陛下のご厚情を頂きまして感謝致しております」
「そなたが辞退したのは本当に惜しいと余は思っておる。ユベールが駄目であればそなたが夫にと思っておったからな。私の妹の子であるのだから資格は十分であり才覚もじゃ」
「身に余る光栄でございますが、お言葉だけ頂戴いたします。母方の血筋が良くても誰とも知れぬ父を持つ我が身にとって、聖なる王統の血を汚す訳にはまいりません。このような身に大神官と言う大任を頂戴することになったのにも恐縮しているのですから」
「そなた、本当に欲が無いのう。気が変わったら何時でも申しても良いからな」
大神官は微笑んで返事の代わりに一礼した。
そして、この告知は瞬く間に王国中に広まっていった。御前試合は民衆にも開放された競技場で行われる。みんな噂に聞く〈天の花嫁〉を見るのも楽しみだが、それが花婿選びの一環となっているのにも興味津々で最高潮に興奮していた。宮廷はもちろん城下でもその話で持ちきりだったのだ。
フェリシテとユベールは女王から呼ばれて直接聞かされたが、フェリシテは女王の言葉に耳を疑ってしまった。
「陛下!優勝者に、わ、わたしの口づけですか!口づけと言ったらやっぱりその…それに候補者が増えるなんて!」
真っ赤になってうろたえる彼女を、ユベールは愉快そうに、チラリと見た。
「あっ、王子!今、笑ったでしょう?」
「別に。笑ってないよ」
「嘘! 笑っていましたよ! いい気味だ、とか思ったんでしょう!」
「思ってないよ。大変だろうな、と思っただけだよ」
フェリシテは子供みたいに頬を膨らませた。それを見てユベールは笑う。
「そなた達、余の前だと言うことを忘れてはいまいか?」
「あっ、陛下! 申し訳ございませんでした」
フェリシテは慌てて深く礼をして謝ったが、ユベールの方は笑いを噛みしめて肩が震えていた。最近の二人は男女の親密さは全く感じられないがこんな調子なのだ。
「それでじゃユベール、そなたも出場するように。もちろん王命じゃ」
「母上! まさかでしょう?そんな横暴です! 」
「横暴?当然の事を申したまでじゃ。そなたは〈天の花嫁〉の夫候補の筆頭で東の元帥であろう?そなたが出なくてどうする。無様な試合をするのではないぞ。王家の威信に関わるゆえの」
「母上! 私は承知出来ません。王家の威信に関わるなら尚更!無様な姿をさらすより出ない方が良いと言うものでしょう?王家の体面などは叔父上にでも任せたら良いではありませんか! きっと素晴らしく活躍して下さいますよ」
フェリシテは話を整理してみた。要するにシャルルを除く他の三人が出場するようだが、もちろん腕に自信のある者達も出る。
そして優勝者には血縁者だったら夫候補になる権利と、自分の口づけ―――
(口づけ! そうだ、口づけなんだ! 困ったわ…本当に困ったわ。そんな間近に接近してアレをするなんて! 考えただけでも、ぞっとする…えっと、そうだ!)
フェリシテは考えが閃いて、まだ言い合っている二人の会話に入った。
「ユベール王子! 絶対出場して下さい! お願いします。そして優勝して下さい。絶対、絶対、お願いします」
「いきなり何? 出て、しかも優勝しろだって! 」
「そうです。私、知らない人に口、口づけなんて嫌ですもの」
「はあ~何言っているんだ?それなら別に私じゃなくても叔父上だって、そうそうマティアスあれああ見えて、なかなかの腕なんだから彼らに頼んだら?」
「駄目です! お二人だと私、動悸がして苦しいから。王子が良いんです!」
「どういう事じゃ? ギスランとマティアスは動悸がして、ユベールだと大丈夫?」
ユベールは呆れ顔で女王に分かるように答えた。
「フェリシテはちょっと男性恐怖症の傾向がありましてね。男として意識してしまうのは彼らで、私は範疇外と言う訳ですよ」
「範疇外?そなたフェリシテから男として見られていないと言うわけか?」
「別に同性と見られている訳でも無いようですけどね」
ユベールは不服そうな顔をしていた。たぶん見せない本心も変わらないだろう。何時もと変わらないように見えるユベールは時々その本心を瞳に映すことがある。フェリシテを見る時がそうだ。本人は気付いていないようだが、フェリシテにはそれがすぐ分かる。
「幾ら綺麗でも王子を女性だなんて思っていませんよ。王子は良いんです。私は王子が良いんです。王子、駄目ですか?」
一途な瞳で見つめられてユベールも、優勝は別にしても出ない訳にはいかなくなった。そしてユベールは、何でこうなるんだろう? と一人溜息をつくのだった。
とある場所の一室。薄暗い室内には数本の蝋燭の灯りだけが揺れている。以前謎めいた会話をしていた二人の男達が又、人目を忍んで密談をしていた。
「その後は何か動きは何かあったか?」
「いえ、一向に気配さえ掴めません」
最初に問いかけた男が大きく溜息をついた。
「そうだ。我々の包囲から漏れるとは考えられないから、まだ動いていないだけと言うことか…それも有りだな。候補者が増えて的が絞れない上に他の三人を殺してしまったら残った一人が犯人となる。狡猾な者ならそんな茶番演じることは無いだろうな」
「左様でございます。天の花嫁の動向次第と言うことでしょうか?」
聞いていた男は嗤った。
「はは、それこそ問題だ。彼女は全く男に慣れていないうえに、少女が好む恋愛には臆病ときている。剣を振り女王にさえも臆すること無く意見を言う彼女がね」
「あの方は大輪の花です。それがまだ蕾なだけでしょう。それに水を注ぎ陽で照らす者に鮮やかな花を咲かせる筈です。慣れていない分、それは早いと私は思います。きっとそれは誰をも魅了する美しい花でしょう」
「……しかし、今はシャルルには友達以上の感覚は無いようだし、オベール公は そうだな。あの公の攻めにはかなり意識はしているようだ…」
彼の状況を説明する言葉に少し淀みがあった。
「オベール公ですか…最も王座を欲する人物でございますから。普通の貴族ならば長男が継ぐことが当たり前。ところが王家だけの特殊な継承権。矜持の高い公にとって最悪だったでしょう。当時は確か十五でしたか…十分考えられます。動きが無いのは天の花嫁をものに出来るという自信があるからとも考えられますが?」
「それは早計だろう。まだ彼女の心は確定していないのだから。このままでは埒が明かない。いっそ積極的に彼女を陥落させて様子を窺うというのはどうだろう? お前は彼女に尊敬されているし、相手の心理に働きかけて操作するなど簡単な事だろう? マティアス?」
マティアスそう呼ばれた男は、淡黄色の髪に緑青色の瞳。〈天の花嫁〉の夫候補の一人でもある、シャブリエ公爵家、第一公子マティアスに間違いなかった。
表情を余り変えることの無い彼が、意味深な笑みを浮かべて言った。
「宜しいのですか、私で?貴方では無くて王子?」
王子。蝋燭の揺れる炎にほのかに照らし出されるのは、気まぐれに闇夜に訪れた太陽のようなユベール王子その人だった。彼が何時も身に纏っている億劫で気だるげな空気は感じない。今は強い志を持つもの特有の空気を纏っていた。
彼らは探しているのだ。十三年前のジェラール王子を暗殺した犯人を―――
王位継承者を暗殺するなど国家の大逆。その抜け目の無い手際の良さ。当時も徹底的に調べられたが犯人の特定には至らなかった。〈天の花嫁〉が現れなければ王国は危機に直面していた事だろう。しかし、この〈天の花嫁〉が引き金になったのは言うまでも無い。啓示は極秘だった。それなのに漏洩したとしか考えられなかった。
〈天の花嫁〉の正式な夫を殺して手に入れる王座。それは魅力的な果実だっただろう。その果実を自ら欲したかもしれないギスランや、家の繁栄の為に欲したかもしれないシャルルや、マティアスの親族達。優秀なジェラールが邪魔だと思い、御し易いユベールを担ぎ上げたい者達。宮廷に陰謀は数限りなく満ち溢れている。
その中でユベールとマティアスは犯人を密かに追っていた。思惑はそれぞれ違うが目的は一緒だ。マティアスは国家至上主義であり、大逆を犯すものを例え自分の親族であっても許すことは出来ない。国家の名のもとに鉄槌を下すまで追求するつもりだ。
ユベールは自分の片割れであったジェラールを殺した者を決して許しはしない。幼くして命を絶たなければならなかった兄弟の無念を晴らすまで諦める事はない。
(成就すれば自分は―――)
フェリシテが言った 〝生きても良い〟 という言葉が脳裏をよぎる―――
しかし想いを断ち切るかのようにユベールは立ち上がった。
そしてマティアスの問いに答えた。
「私はいいんだ。そんな事よりも犯人を見定めることが先決だ。それに王座は魅了的でもないし。いずれにしても彼女は、私のこと範疇外だと思っている」
マティアスはあからさまに溜息をついた。
「―――王子。それは本心ですか?本当に貴方の心は私でさえも計りかねます。私は王子にお仕えしたいと思っておりました。ジェラール王子亡き今、貴方こそがオラール王国に相応しい王だと思っております」
「ははっ、こんな怠け者でも?」
「そう見えるようにされているだけです。敵の目を欺く為に。事が終われば本来の姿を出されれば良いことです。私が誰であっても反対などさせません」
「興味ないね。ジェラールを殺した奴以外に全く興味は無い」
「……分かりました。王子のお気持ちがそうであるなら、私も遠慮致しません」
「 ? 」
「今度の御前試合。勝たせて頂きます。私は〈天の花嫁〉を本気で手に入れます。もちろんこれは策略でも大義名分でもありません!心から彼女を欲しております。ですから私が水となり陽となって彼女を見事に咲かせましょう。そしてそれを手折るのは私です!」
ユベールはマティアスの初めて聞く言い方に声を無くした。何時も自分を律して冷たいかなとも感じる落ち着いた物言いをする彼が、熱っぽく烈しく明言したからだ。
(マティアスも狂わせる花か…それも甘い果実を付ける花。皆を惑わせているのに涼しい顔をしている。違うか…あれは自分を分かっていないだけだな。自分がどんなに魅力的で男達を虜にしているのか…世間知らずにも程がある)
ユベールは、自分は断じてフェリシテの魅惑に囚われはしない、と繰り返し唱える。そう繰り返し唱えなければならなかった。それだけ彼女の存在は彼の心を揺さぶり始めていたのだった。繰り返し念じなければならない程に―――