4人の候補者(3)
結局ユベールは、日が暮れるまでフェリシテに付き合わされてしまったのだった。しかも自分の隠れ場所を全て把握されてしまった。ついでにそこの近辺にいる警備中の近衛兵はもちろん侍女や従僕にいたるまで声をかけていた。
『ユベール王子を見かけたら私まで教えてくださいね』
と、にっこり微笑んで言うものだから、近衛兵など横のいるユベールが上官の筈なのに直立不動でご丁寧に剣まで掲げ最敬礼して
『御意!直ちに!』
と勢い良く言っていたのだ。きっと目の色変えて見張るに違いない。
―――と言う訳で翌日は朝から、真面目にフェリシテの宮殿へ向かうこととなってしまった。誰もが自分を見張っている気分なのだ。
「おはよう」
「おはようございます!今日はちゃんと来て下さったのですね。ありがとうございます。今日はオベール公だけですから午後は解放して差し上げますよ」
「はいはい。そうして頂くと嬉しいね」
すっかり主導権を握られてしまっている。
今日のフェリシテは剣術の稽古に相応しい恰好だった。髪はうなじで束ねてレースやフリルなど邪魔になりそうな装飾が一切付いてない長着。両脚はそれぞれピッタリと厚手の生地で包まれて膝まである丈長の靴を履いていた。女性の武官用だろう。女王の治める王国だけあって女性の武官や警備兵も組織されているのだ。艶やかなドレスも似合うが、凛とした彼女にはこういった衣装の方が良く似合っていた。
(まぁ…それであと一、二年でも経てば今の身体とアンバランスな幼さが消えて、彼女の瞬き一つで幾らでも命を懸けて盾となる騎士達が列をなすだろうな…馬鹿な男共は幾らでもいるのだから)
ユベールは昨日の近衛兵達の態度を思いだして嗤った。
「何を笑っているのですか?」
「何でも無いよ。ところで叔父上は?」
「少し遅れると連絡がありました。クスッ。でも可笑しいですよね。王子がオベール公を 〝叔父上〟って呼ばれると公とそんなに歳が違うように見えないから」
「まあ母上とは親子ほど歳が離れているからね。私の叔父と言うより五歳上なだけだから兄みたいなんだろう?叔父上は先王がいい年をして若い妃との間に出来た子だし、母上は結婚してから十年目にしてやっと私達を授かったしね。十年もさ!大恋愛とか言っていたけどだいたい王位継承者の自覚が無いと思わないかい?十年も子が授からないのなら夫を他にも持つべきなのに。考えられないよ」
女王ブリジットのこの恋物語は三十年以上も前の事だが庶民の間でも有名な話だ。ブリジット王女には後に結婚したがセゼール侯爵家のアルフォンスと言う婚約者がいたのにも関わらず困難な恋を成就させたのだ。ユベールの父でもあるノエル・ヴァランは家柄的には一応伯爵家であったが王位継承者と釣り合う家では無かった。しかしオラール王国一の騎士で、その功績を認められてブリジットの双子の妹ルイーズ王女の婚約者に指名されていたのだ。これはルイーズ王女の強い希望でもあった。だが、ブリジットとノエルはお互い惹かれあい大恋愛の末、とうとう王を説き伏せて結ばれたのだった。ブリジットもその後、彼一人を愛して王位継承者には珍しく夫は一人だったのだ。これがユベールの指摘した継承者の自覚が無いと言うところだろうが……
ヴァラン卿がまだユベールが物心つかない頃に不慮の事故で死去した後、元婚約者であったセゼール侯爵アルフォンスの婚約当時から変わらない静かな愛で女王は悲しみを癒したとの事だった。その候も五年前、病気で死去している。女王ブリジットは激流のような恋と静かな湖のような愛を与えてくれた二人の夫を生涯愛していると言う。
王女と騎士の恋物語に薄幸の貴公子の愛。神に仕える女神官たちの間でも憧れる大人気の話だ。自分達もそんな恋愛をして、この神殿から出て行きたいと夢描いていたものだった。フェリシテはみんなのように恋愛に憧れは感じてはいなかったがユベール王子の意見には反発を感じた。
(夫を何人も持ったほうが良いなんて嫌な言い方!男の人の考え方って本当に嫌い!)
何だか意地悪を言いたくなってきた。
「王子の意見だと今やっているのは無駄ですよね?」
「何?どういうこと?」
「私の夫選びのことですよ。候補者の方々どなたでも良いのなら全員と結婚してしまったらいいじゃありませんか。その中のどなたかの間に子は授かるでしょう?」
フェリシテはそれなりに自尊心の強いであろう彼に 〝みんな同じだから私は誰でも良いのよ〟 と毒舌を吐いたようなものだ。
そして自分の魅力も知らずに蠱惑な微笑を浮かべる。
その表情にユベールはドキリとしたが…所詮、男女の駆け引きなどお手の物である彼に敵うものではなかった。ユベールのその色に溺れそうな碧い瞳の底が光った。
「へぇ~それは良いね。面倒じゃないから私は賛成だな。それで王代行は他の三人に任せていたら良いし、私は王族としての義務である君の夜のお相手だけさせて貰うよ。ああそうだ、別に夜でなくても良かった。今から予行練習でもするかい?」
そう言うなりフェリシテの細い胴をいきなり、グイッと片手で自分に引き寄せた。
「ユベール!私はそのような戯言、承知しない!」
オベール公爵ギスランが激昂した形相で扉口に立っていた。先ほど到着して、この会話を聞いたらしい。
「叔父上」
ギスランは抱き合うような二人に近寄って、フェリシテの腕を掴んで引き離すと、その腕を掴んだまま彼女に腹立たしく言った。
「ユベール!その呼び方は気に入らないと言っただろう。以後気を付けよ!それに〈天の花嫁〉よ、私は他の者と一列に扱われるのは御免蒙る!他の三人と違って私は多いに王権に魅力を感じているのだ。やる気の無いものは捨て置くがいい!そなたは私を選ぶが良い。いや、選ばせてみせよう!」
「じょ、冗談ですよ。みんなで結婚しようなんて言うのは。売り言葉に買い言葉で、言っていただけで本心ではありませんから、なあフェリシテ。フェリシテ?」
人間臭さを感じないユベールをそんなに気にしたことが無かったのだが、さっきは無防備に彼を挑発してしまった。それによって被ったのがいきなりの抱擁だった。硬い筋肉と骨格それは否応無しに男性を感じ驚愕しているところへ、今度は猛々しいギスランにももっと強烈な男を感じた。
恐怖すら覚える 〝男〟 だ!
様子のおかしい彼女に二人は気が付いた。真っ青になって震えている。
ギスランは掴んでいた手を離し彼女の肩に触れようとしたが悲鳴に似た声をあげられて手を払いのけられてしまった。そして彼女の周りだけまるで空気でも無いかのように息苦しそうにしていた。何か病気の発作なのか検討が付かなかった。
「医師だ!医師を呼べ!」
大きな声で指図するギスランの言葉を聞いたフェリシテは、いらないと首を横に振った。そして何度か大きく深呼吸すると、両手を強く握り締めて震えを止めようとした。
「だ、大丈夫です。ごめんなさい。病気じゃないので平気です」
「平気って言うような顔色ではないようだけど?」
答える彼女の顔を覗き込むようにユベールが言ったが、フェリシテは意識的に大きく一歩下がって返答した。
「あの、ごめんなさい。言い難いのですけど急に近づかないで欲しいのです。以前、ちょとありまして……」
「何?暴行されたとか?」
彼女の様子からユベールは思わず口にだしてしまったが、それは的中したようだった。フェリシテが一瞬のうちに固まった表情になったのだ。
「まあ、未遂でしたけれど……それ以来ちょっと苦手でして。意識し過ぎなんでしょうけれど。急だとちょっと思い出してしまって……困るんです」
「そなたは女神官であっただろう?神官にそんな不埒な行いをする者がいたのか!」
憤るギスランの問いに、フェリシテは言って良いものかと困った顔をした。
「神官ですか……そうですね。あんまり関係ないようでしたけれど…私を襲ったのは神官でしたから」
「何!神官だと!何と言うことだ」
「未遂ってことは…君は運よく見つかって助かったけれどその神官は 〝自分が誘われた被害者だ〟 とでも言ったとか?」
「王子、良く分かりますね。その通りです。それで王都からあの女神官だけの神殿に移されたんです」
フェリシテも随分落ち着いてきたようだった。
見捨てられた神殿でおよそ不似合いな彼女は、あからさまな男達の欲望にさらされて嫌な思いをしていたのも確かだろう。それよりも男女の性を越えた神の使徒である神官が、急に男となって性的暴力を与えようとするなど、彼女の心に深い傷を負わせたに違いない。
「――ということはその男は罪に問われることも無くまだ、神官としてのうのうとしているのだな!神官に有るまじき行いといい、先日のあの神殿での狂乱にしてもだ!神殿はたるんでいる。全く何をしているのだ!エルヴェ・ガロアは!監督不行き届きもいいところだ。大神官は寝ているのか!」
ギスランは益々激昂して怒鳴っていた。
「まあ、叔父…オベール公。幾ら大神官だと言っても数ある地方の神殿の監視は難しいと言うものですよ」
「それでもだ!今度厳しく申しつける」
その後、フェリシテを陥れた神官の末路は言うまでもない――
それからギスランは中庭で剣術の稽古を始めたが、もともと〈光の聖剣〉は普通の剣のように切り裂くものでは無い。もちろん刃こぼれなどしない名剣に違いは無いのだが、本来は剣に宿る神秘なる力を発動させて使用するものである。だからフェリシテが剣で敵を振り回して斃すような稽古ではなかった。基礎的な型と簡単な護身術を習得するような稽古に絞られていたのだ。運動能力の高いフェリシテは初回の稽古にも関わらず、最初彼女を侮っていたギスランが舌を巻くぐらい上達は早かった。
「大変よろしい。次回までに毎日鍛錬するように。これが出来るようになったら十分だ」
以外と簡単な稽古に拍子抜けしたフェリシテは戸惑いながら問いかけた。
「あの、ギスラン様。これだけで宜しいのですか?」
オベール公と呼んでいたフェリシテに名前で呼ぶように彼は言っていた。
「そうだ。剣は舞と同じだ。繰り返しその型と足裁きが流れるように舞うように繋がれば言うこと無い。それに、そなたは 〝光の聖剣〟 を落さずに振るえれば良いだけだ。他の殺傷は必要など無い。それらは我ら騎士が引き受けるのだから。聖剣の支配。その方が最も問題だと思う」
「聖剣の支配ですか?」
「そうだ、聖剣を支配しその力を引き出すこと。それが出来るのが 〝太陽の刻印〟 を持つものだけなのだ。私にその術は必要無いもので体得していないから、それは女王陛下に教えて貰わなければならないが……そうだ!ユベール、そなた聖剣の解放の呪を知っているだろう?ジェラールと一緒に習っていたと言うか、何時も見て真似していたと思うが?呪を詠じるぐらい教えられるだろう?」
「――私が?ですか?随分と古い話ですね」
ユベールはまた、面倒だと言う表情を満面に浮かべて答えた。
「ジェラール様と言うと亡くなられた第一王子ですよね」
「そうだ。ユベールの双子の兄だ。それこそ成長していれば 〝太陽神の如き〟 と言う形容はこの怠けユベールでは無くで彼のものだっただろう。ジェラールは十歳にして既に聖剣を支配し百年に一度行われる〈沈黙の地〉封印儀式に女王を助け封印を施したほどの力の持ち主だった。十歳の子供であっても封印は十分な効果はあって隣国のデュルラー帝国より妖魔の数は少ない。薄まりゆく血脈の中で稀にある先祖返りだったから成人すれば更に力を増すだろうと言われていたが――」
ギスランは言葉を区切った。それ以上言わなくても誰もが知っている事実だった。それ程、期待されていた王位継承者が死去したのだから。それも卑劣な暗殺によって
最近聞か無くなっていたジェラールを懐かしむ話はユベールを追い詰めていた。
彼の何時も投げやりで気楽な気分屋の影が一瞬、消えていた。その一瞬を、たまたまフェリシテが見てしまった。それはまるで崖に立ち…深く更に深淵の闇を覗く狂気にも似た瞳をしていたのだ。
(ユベール王子……狂気?それとも深い哀しみ?憎しみかしら?怖い瞳……)
フェリシテは彼が一瞬見せた真実の心を映し出したかのような表情が気になった。
それを見られていたとは気付いていないユベールは何時もの調子に戻っていた。
「オベール公、言われ慣れていると言っても酷いですよ。ジェラールは素晴らしかった、それに引き換えユベールは…と言いたいのでしょう?立派な兄では無く役立たずの私が生き残ってしまって申し訳なかったですね」
その軽い調子には先程の様子は微塵も感じさせない。故人を悼み美化されるのは良くある話だが…言葉に含むギスランの真意をくみとっていて軽口で返すのに不自然さを感じた。
フェリシテは十三年経つ今でも血が流れ続け、塞がっていない胸の傷口を押さえるユベールの姿を見るようだった。なぜ胸を連想したかと言うとユベールと最初に出会った時、彼は胸の傷を気にしていた。第一王子が暗殺された時、ユベールも一緒にいたとの事だった。その後、犯人は証拠隠滅の為か宮殿に火を放ったと聞く。この今はフェリシテの天女宮となっているが以前はジェラール王子の住まう王子宮であり、その暗殺の現場で火によって焼け焦げた状態のままの部屋が今も残されているらしい。
(王子の気にしていた傷は巻き添えの刃痕なのか、焼けど痕か分からないけれど…)
フェリシテは、ふと思い出しかけた曖昧な記憶に引っかかるものを感じた。しかし今はユベールの親族にも覚らせない心を救うのが先決だった。
「ユベール王子!生きても良いのですよ!この世に無駄な生は一つとして無いわ。でも、どう生きて行くかでその価値が黄金にも屑にも変化して行く――そう思いませんか?」
ユベールは大きく碧い瞳を見開いた。その瞳は青く晴れた空の色だった。
〝生きても良い〟 その言葉は彼が一人で抱えている心に突き刺さった。
(彼女は知らない筈。何故?)
それでも動揺は一瞬で、問いかけたフェリシテも気付かない程の心の揺れだった。
ユベールそんな気持ちをおくびにも出さず、変わらぬ口調で返答した。
「はははっ、何時もの戯言だよ。でも流石だねぇ~元女神官だと言う事が違う。オベール公も彼女ぐらい優しくして下さいよ。はははっ」
「彼女の言う通りお前が真面目にしてくれるならな。関係の無い私のところまで苦情が来ているぞ。東の元帥についてだ!少しは顔を出したらどうだ」
「これは申し訳ございません。オベール公を煩わせるなど、きつく叱りつけておきましょう。それに私は今忙しくて、何しろ陛下のご命令で彼女に掛かりっ切りですから」
フェリシテは呆れた。今にもユベールの実態が見えそうだったが、まるで風を掴んだかのようにフワリとかわされた気分だった。尚更フェリシテは彼をもっと知りたくなった。いつも冷めた瞳をした気まぐれで不精な面と、凍るような暗い瞳で何かを抱えている面を持つ王子の真実を―――
フェリシテは自分もつくづく知りたがり屋だなと思い、クスリと笑った。
「――フェリシテ、何を笑っている訳?嫌な笑い方だな」
「何でも無いですよ、ユベール王子。私も王子の仕事の邪魔をしたらいけませんから、明日の王子との自習は無しにして元帥府の見学にさせてもらいます」
「いや、ちょっと待って!勝手に予定を変えるのは良く無いよ。ほら、マティアスの宿題など沢山あったじゃないか」
「そうですね。それなら今日の午後は空いていますから、宿題は今日しましょうか?」
「彼女の勝ちだ。ユベール首肯せよ!それではフェリシテ、あれと違って私は忙しいのでこれで失礼する」
「ギスラン様、ありがとうございました。来週も宜しくお願いします」
「明日は私も元帥府にいるから寄って欲しい。待っている。では」
ギスランはその容貌に相応しい精悍な笑みを浮かべると去って行った。いつも眉間に皺を寄せて厳しそうな感じの彼の意外な笑顔に、さすがのフェリシテも頬が熱くなった。
「―――〝待っている。では〟 か。さすが 〝紅蓮の騎士〟 絵になるね。ああ、〝紅蓮の騎士〟 と言うのは公の別名でね、あのご気性だろう? それは炎のように烈しい剣筋で、そこから付いたみたいだけど、彼が持つ剣は聖剣でも無いのに妖魔を切り伏せる姿は圧巻だそうだ。刀身から紅蓮の炎が見えるようだってね。まあ 〝選ばせてみせよう〟 もそうだけど自信があるから言える言葉だし、彼はお勧めだよ。どう? フェリシテ」
「王子が斡旋して頂かなくて結構です!」
「おや? 彼は嫌い? マティアスが良いとか?あれも悪くは無いけど堅苦しいのがどうかと思うよ。それともシャルル?今は頼りないだろうけど将来性は高いしね」
「お・う・じ!斡旋は結構です!ギスラン様は嫌いではありませんし、マティアス様は堅苦しくなどありません!それは王子が不真面目だからです。それにシャルルは頼りなく無いなどありません!今自分の出来る事をきちんとしています。年長者と比べるのは間違っています!それに王子は何故、自分以外に選ばせようとするのですか? 私が王子を選ぶと困るのですか?そんな事ばかりするなら私、王子を選びますよ!」
「フェ、フェリシテ。君が怒っている理由は分からないけど落ち着いて。支離滅裂なこと言っているよ。短気を起こさないで!私を選ぶなんて馬鹿なことしたら駄目だよ!」
「そうですか?そう言われたら反対にそうしたくなりました。陛下にユベール王子に決めましたと言ってきましょう」
フェリシテはそう言ってさっさと歩きだしたのだ。
慌てたのはユベールだ。彼女の冗談だとは思うが何を考えているのか全く分からない。
「待って!フェリシテ!」
彼女を引きとめようと手を伸ばしかけたが、その前にフェリシテが勢い良く振り返った。耳を飾る王家の証がシャリンと音をたてて大きく揺れる。誰もが名前を呼ばれるだけで舞い上がりそうな艶やかに光る唇を可愛らしく尖らせていた。
彼女に無関心のユベールでさえもその唇を奪いたい衝動に駆られたが、フェリシテはその一瞬に彼の冷めた瞳に揺らめく情熱の炎を見たような気がした。
「…王子!王子は他のみなさんの事ばかり褒めていますが、私は王子も立派な方ではないかと思っています。何故そんなに自分を誤魔化しているのか分かりませんけれど!いい加減にして下さい」
彼女が言うような事は母である女王も気付いてはいたが、彼に向かってフェリシテのように飾らず真っ直ぐに意見をぶつけることは無かった。
それでもユベールは何時ものように体良くかわすことにしたようだった。
「それは買い被りだよ。確かに一通りは無理やり習わされているから出来るけど。面倒だからやらない。誰かがやってくれるだろうし」
「―――それでは退屈でしょう」
「? 別に。楽しいことは沢山あるし、そんな事考えたこと無いよ」
ユベールは目にかかって陽に透ける前髪を弄びながら答えていたが、目の前のフェリシテを見て息を呑んだ。彼女が涙を流していたからだ!鞭で処罰を受けている時でさえも涙一つ浮かべて無かった気丈な彼女が、目の前で声を殺して泣いている。先程まで可愛らしく尖らせていた唇は、嗚咽が出ないように噛みしめていた。意思の強そうな翠の瞳から溢れる涙が頬を濡らしていた。
フェリシテは泣く事はほとんど無い。泣けば負けだと思っていた。しかし今はどうしてなのか自分でも分からなかった。出逢って間もない人だと言うのに何故だか彼の心が見える気がするのだ。そんな表情も言葉も彼は表に出していないのに何故だか見えてしまう。
彼の心に宿る 〝絶望〟 を――――
何に絶望しているのか分からなかった。
(生きることだろうか?ジェラール王子の死に関係があるような気がする…自分が代わりに死ねば良かったとでも思っているのだろうか…そう王子の瞳は――)
「――死んだ瞳をしていますね。何も映して無い、何も感じ無い。そんなに綺麗な碧色をしていると言うのに硝子のようです。生きる事が退屈ですか?それとも苦痛ですか?ジェラール王子の代わりに自分が死ねば良かったと思っていませんか?自分が死ぬべきだったと…そして自分を自分で殺しているのでしょう?あなたのこと、みんなは太陽神のようだと言いますけどそれは見掛けだけよ!王子はまるで全てを終えて山間に沈む太陽のようだわ!寂しくて切ない……しかも夜が明けることが無い!」
彼女の自分の心を見透かしたような言葉にユベールの取澄ましていた表情が見る間に変わってきた。それは今まで誰も見たことが無いものだった。整い過ぎた容貌でも冷たく感じなかったのは、口元がいつも笑みを刻んでいたからだった。それが皮肉な嗤いでもだ。しかし今は表情が見えなかった。氷のように無表情だった。
フェリシテの涙で動揺したところへ核心をつかれたユベールは驚きと憤りで自分の気持ちを制御できず、偽りの仮面を被ることが出来なかったのだ――――
たかが少女のありきたりの涙に、どうして自分が気持ちを動かされたのか?これが〈天の花嫁〉だからなのか?分からず只、無言で見つめるしか出来なかった。
ユベールの今までと違う様子と無言の答えにフェリシテは彼の禁忌に触れてしまった事を悟った。しかし彼のその瞳は自分を本当に見てくれていた。怒っているのかもしれないが、それでも人形のような瞳で見られるよりずっと嬉しく思った。
フェリシテは涙で潤んだ瞳を輝かせると、今度は満面の笑みを湛えた。
「言い過ぎました。でも謝りません。王子はジェラール王子の分も生きて下さい。ユベール王子とジェラール王子二人分です!とっても大変ですよ。怠けている暇なんか本当に無いんですからね。寝る時間だって惜しくなるぐらい頑張ってくださいな!それでは今日はありがとうございました」
そう言い切ると返答も待たずに宮殿の中へと走り去っていった。
それを見送るユベールの瞳は大きく見開いていた。しかし先程までの無表情は跡形も無く消えて、口元は自然と笑みを刻んでいるようだった―――
お気に入りのギスランの登場でした。彼には活躍してもらいたいのですが“裏ユベール”も結構気に入っているので途中からはユベールが大幅に出張ってしまいました…