二人の王子(1)
レギナルト皇子一行の滞在は数日だけだった。それでも女王は数日に引き伸ばしたのだ。安全の為だろうが皇位継承者が遠くへ出向くことはほとんど無い。だからこの機会を逃さず親交を深めようとしたらしい。
そのうちの半日をフェリシテの時間に当てられた。帰国する前日だ。
その前にせめて聖剣の呪をおさらいしたくてフェリシテは〈光の聖剣〉を携え、ユベールのもとへ向かった。朝起きるのが遅い彼が来るのを待ってはいられなくてユベール王子の宮殿に直接迎えに行ったのだ。少しは待たされるかと思ったらすぐに通された。
「相変わらず君は早いね。まだ夜が明けたばかりだというのに」
「王子こそ珍しく早起きですね。昨日は遅くまで遊んでいたのでしょう?二日酔いしていませんか?」
昨晩はレギナルト皇子を招いての夜会が催されていた。もちろん主だった貴族は出席しフェリシテも出席していた。しかも王族の姫達もいるのにも関わらず、女王の命でフェリシテが皇子と同伴していたのだ。だが皇子は早々に退出し、それと同時にフェリシテも帰って行った。主賓がいなくなっても夜会は一晩中続いていた。
ユベールは幾ら酒を飲んでも酔えなかった。こんな気分になったのはギスランとフェリシテが夜会に現れたよりも酷い感じだった。
彼女の肩を揺さぶって 〝そんな瞳で皇子を見るんじゃない!〟 と怒鳴りたかった。フェリシテの視線は常にレギナルト皇子を追っていたからだ。
早起きどころでは無い。昨日から一睡もしてないのだ。無邪気に尋ねて答えを待つ彼女に苦々しく微笑んだ。
「いくら飲んでも酔えなかったからね。大丈夫だよ」
「水を飲むように次々沢山飲んでたのに?」
「見ていた訳? 」
(皇子ばかり見ていたくせに!)
「もちろん見ていましたよ!ちゃんとお願い通りに、ご婦人方と過ごされているかどうかと思っていましたから」
(何苛立っているのかしら?)
「はっ、ご婦人方は皆、レギナルト皇子に釘付けだったよ。君を含めてね」
「さっきから何に腹を立てているのですか!私が何ですって?レギナルト皇子はそういったご婦人方が苦手だそうで、早々にお帰りになられたのですよ。きちんとお断りもされていましたし王子とは大違いです」
「馬鹿馬鹿しい。君がべったり横に引っ付いていたんだから、それに声をかける勇気あるご婦人はそういない。捌くのも簡単だろうよ。それで仲良く退出して何処に行った訳?」
ユベールの言い方にフェリシテは、むっとした。
「何ですか? その言い方は!逢い引きでもしていたと言うんですか!それこそ馬鹿馬鹿しい!」
ユベールも吹き上がる感情に歯止めがきかなかった。どろどろとした熱いものが心の底で渦巻いているのだ。気付きたく無い感情に突き動かされていた。
「へえ~違うんだ。私はてっきりそうしていると思っていたよ。だって君の瞳。ははっ、君の良く言う台詞を盗ってしまうけど、その瞳が燃えるように熱っぽく彼を追いかけていたからね。恋する乙女のようだったよ」
フェリシテは愕然とした。そんな風に見られているとは思わなかったからだ。熱心に見ていたのは認めるが恋とかそんな感情では無かった。どう表現したらいいのか……
「そんなんじゃないわ。興味があっただ――あっ!」
思わず口が滑って言った言葉も不味かった。これは 〝違う意味用語〟
口を塞いだが遅かった。ユベールが顔色を変えていた。整い過ぎる美貌の無表情も恐いが怒るともっと恐ろしいとフェリシテは思う。その瞳で心臓を凍りつかせることが出来るに違いないと思ってしまう。纏う空気の色さえ変わる気がするのだ。
「興味があるか…それはどちらの意味かな?君の言い方は良く分からないからね。だけど彼は駄目だ!絶対にだ!いくら君を束縛しないと言っても、これだけは言うことを聞いて貰う。それに彼には〈冥の花嫁〉がいるんだ。君は他所にその魅惑的な瞳を向ける暇があるなら、ふらふらする前に叔父上なりマティアスなりシャルルなり、さっさと選んでしまってくれ!目障りだ!」
フェリシテは、ぐっと顎をあげて彼を睨んだ。その瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。
「何故そんな変な解釈ばかりするの!私が何時レギナルト皇子のことが好きって言ったのよ。それに何故、選べ、って言う中に王子がいないのよ!もう知らない―――っ」
フェリシテは最後の方は泣き叫びながら言い放つと駆け出して行った。
ユベールは唖然として彼女を見送ってしまった。駄々をこねる子供のように泣きわめいて行ったからだ。頭から冷水でも浴びた気分だった。
自分は選んでもらっては困る。だけど他の三人を選ぶとしても少し心がざわめくぐらいだった。だがデュルラー帝国の絶対権威の象徴であるレギナルト皇子を選ぶことは我慢ならない。憤りを感じたのは禁忌だからと言う理由だけでは無かった。国を担う彼の皇子としての誇りをまざまざと見せ付けられ、自分の中に眠らせた同じ王子としての矜持が対抗心を燃えさせたのだ。それは他の三人の候補者に感じなかった負けたく無い感情だったのだ。
フェリシテが彼に惹かれていくのに刺激された。自分よりも彼を選ぶのが許せなかった。おかしなことに初めから約束された花嫁を自らその権利を捨てたのにも関わらずにだ。それによって決して気付いてはならない感情に気付いてしまった―――
「あんなに泣いて…私も救いようの無い馬鹿だ。だけど気付いてしまった君への気持ちは永遠に封印する…今まで誰も開けたことの無い私の…そうだ、君の言っていた〝からくり箱〟 に…」
ユベールはそう呟くと自分を嘲笑うかのように嗤った。
一方フェリシテは泣きながら闇雲に王城を走った。腕に抱えた〈光の聖剣〉が触れ合って音が鳴る。涙で前も余り見えない。その時いきなり抱きとめられた。
「剣を持ってそんな風に走るなど危ないではないか!」
振り仰いで見るとそれはレギナルト皇子だった。
レギナルトは毎朝の日課である剣の鍛錬の最中だった。いつの間にか皇子のいる宮殿の庭に迷い込んでいたらしい。
彼はフェリシテの様子を見て眉をひそめた。
「どうした?泣かれたらどうしたら良いか困ってしまう。泣きやまれよ」
「ひっく…ひぃっく、うわぁ~ん」
「こ、困る。エリク、笑ってないでどうかしろ!」
豪快に泣くフェリシテに困り果てたレギナルトは、剣の相手をしていた青年に叫んだ。
「ぷっ、それは出来ません。相手は天の姫です。私の身分で許しも無く話しかけることは無作法でしょうから。皇子頑張って下さい。女性の涙はティアナ様で慣れていらっしゃるでしょう?」
ティアナとは〈冥の花嫁〉の名前だ。
彼女は泣き虫で悲しくても嬉しくてもとにかく良く泣いているらしい。
「お前、それはティアナとは勝手が違うだろう?同じようなことをしたら求婚者達に決闘を申し込まれるではないか!」
「ああ成程。これは失言でした。それでは僭越ながら私めが」
エリクと呼ばれた黒い瞳と髪をした秀麗な青年は、帝国近衛隊の副隊長で今回の遠征に同行してきた。名門貴族の出身で兄が隊長を勤め、兄弟ともにレギナルトの信任厚く用いられている。
エリクが側に用意してあった柔らかな手拭いを二つ持ってくると、その一つをフェリシテに差し出して言った。
「姫、どうぞ。このようなもので失礼でございますが涙をこちらでお拭き下さい。折角のお美しいお顔が台無しでございますよ。それに涙を収めて頂かないとレギナルト皇子の最終手段にお願いするしかございませんから、その前に宜しくお願いします」
「エリク!お前、何を言っているんだ!」
弾かれたようにレギナルトは怒鳴った。
フェリシテはそれを受け取っても泣き止まなかったが、エリクの言っている意味が分からなく彼を見た。
エリクは首を振って大きく肩をすくめると、もう一つの手拭いを皇子に渡した。
「皇子、お風邪を召されます。汗をお拭き下さい。姫、さあ如何ですか? 試してみられますか? 皇子の最終手段を。泣く子が黙る口づけですよ」
「エリク!何馬鹿なことを言っている!ふざけ過ぎだ!」
「大丈夫です。ほら泣き止まれました」
フェリシテは彼の言い回しに驚いて、ピタリと泣き止んでしまった。そして二人のやり取りがおかしくて笑った。
「やはりご婦人は泣かれるより微笑まれた方が宜しいです。どうされたのですか?私どもでよろしければお聞きしますよ」
エリクは、にっこり笑ってそう言った。
自分を引き合いに出されたレギナルトは不愉快そうに手拭いで汗を拭きだした。
フェリシテは親切に言ってくれる彼に、まさかユベール王子にレギナルト皇子との仲を疑われて喧嘩しましたなど言えない。大丈夫だと言おうとした時、瞳に飛び込んだものがあった。汗を拭く皇子の胸元に光るものを見たのだ。
「皇子!それは!」
フェリシテは手に抱えていた聖剣が落ちるのも構わず、レギナルトの胸元を指さした。
地に落ちる聖剣の音がして、レギナルトは汗を拭く手を止めた。それから彼女が指さす自分の左胸が良く見えるようにはだけて見せた。
その胸には銀に煌く星のような刻印があった。
「これは 〝星の刻印〟 だが?オラール王国は 〝太陽の刻印〟 であろう。そなたの胸にもある」
フェリシテは自分の左胸を押さえた。確かに自分の胸には金色で太陽を模った印がある。
彼女はその存在の意味を忘れていた。女王は言った。
刻印を持つものが聖剣を使える。それは直系の証だと――――
「皇子!その刻印は皇位継承者の証ですよね?つまりそれを持っているものは…」
「そうだ。この 〝星の刻印〟 はデュルラー帝国では父の皇帝と私。そして私の花嫁のティアナだけだ。それ以外はいない」
「では、此処では陛下と私だけ…」
「そうだな。王位継承者だったジェラール王子が亡くなっている今はそういう事になる。これは他に移ることなど無いから継承者が途絶えればそれまでだ」
「私うっかりしていた…そうよ…なんで大事なこと忘れていたんだろう…」
「フェリシテ殿?」
「レギナルト皇子!ありがとうございました。お詫びは改めまして、失礼いたします」
フェリシテはそう言うなり聖剣を拾って駆け出した。
残された二人は顔を見合わせる。
「どうされたのでしょうか?」
「さあ、それにしても此方も私同様、花嫁に翻弄されているようだ。天界も冥界も厄介事を我々に与えて高みの見物でもしているのかもな」
「厄介事でございますか? 本当に?」
「そうだとも。つまらなかった私の人生を彩ってくれた愛しい厄介者だ。さて、此方はどうなるのか…」
レギナルトは走り去った〈天の花嫁〉を思い浮かべ、残してきた自分の〈冥の花嫁〉に想いを馳せるのだった。
その日の午後、王宮でユベールはレギナルトとすれ違った。レギナルトは軽く会釈をして去るユベールを引き止めた。
「ユベール殿。少しお時間を頂いてもよろしいか」
「少しでしたら構いませんが」
ユベールはそう答えながら適当な小部屋に招き入れた。
ともに部屋に設えた椅子に腰掛け、レギナルトが口を開いた。
「今朝、フェリシテ殿が泣いて現れました」
ユベールは、はっと瞳を見開いた。
「レギナルト殿の所へ行ったのですか!」
「成程。やはり貴方の所から来られた訳ですか」
「――それは…彼女が何か言ったのですか」
「いいえ、特に何も。ただ泣きじゃくるばかりで大変でした。様子がおかしかったので、少し心配になりましたからご報告までと思いまして」
「………」
「――しかし、さすが〈天の花嫁〉も素晴らしい。無垢で純粋なのに官能的だ。それもあのように泣かれると誰でも放っておけない。そう、抱き寄せて優しく口づけして慰めてしまいたくなる…」
ユベールは椅子が倒れるのも構わず、勢い良く立ち上がった。
レギナルトは、チラリとその彼を見る。
「ユベール殿。そのような顔をしなくても私は潔白だ。やっていない。そんな顔をするぐらいならしっかりと掴まえておくことだ。私は以前、愛しい者の命を失いそうになったことがある。自分の命よりも大切なものが消えようとした時の絶望は…今でも思い出すだけで恐怖する…貴殿は砦に向かう時どう思われた?見ているだけでは何時失われるか分からないと思うが? 本当に失った時はもう遅い―――」
「本当に失う――私は―――」
ユベールは両手を卓上につき瞳を閉じた。その瞼に浮かぶのはフェリシテの無事を祈り狂ったように砦に向かって馬を駆けさせた時のものだった。
「―――貴殿が何を抱えているのかは知らない。ただし後悔しないことだ。私の言いたいことはそれだけだ。それでは失礼する」
レギナルトは優雅に立ち上がるとユベールをそのまま残し退室して行った。続いて警護のエリクが出て扉を閉めた。
「なんだ?エリク、何か良いたそうだな?」
「はい。殿下がこのようにお世話を焼かれる方だとは思っておりませんでしたので、驚いておりました」
「全く、お前達は私の事を何と言っているか想像はつくが。まあいい。私にも経験があるから人事とは思えなくてな。とかく王族と言うのは曲解な心根だと言うことだ」
エリクはその通りだとも言えなくて困った顔をした。