嵐(1)
フェリシテは女王に呼ばれた王宮からの帰り、少し遠回りして戻っていた。彼女は同じ道を通るのを好まないからだ。その道々には新しい発見があり楽しいのだ。
今日の女王の用件は良く聞かれる例の夫選びの状況報告だった。でも女王の話の方が驚いた。宮廷の噂ではギスランに決めたのでは無いかと言われているらしいのだ。夜会への出席が尾ひれを付けて広まったのだろう。夜の雰囲気は真実を隠して見かけだけが浮き彫りにされ易い。否定したら、女王は大きく溜息をついていた。その溜息は落胆なのか、安堵なのか分からなかった。
フェリシテも夫の件は考えていないのでは無い。しかし心の中ではそれを避けているのも事実だった。今の状況はとても楽しく充実した毎日なのだ。でも夫を選ばなくてはならない。決めたら今の生活は崩れるだろう。それも嫌な気もする。女王は国王を選ぼうと思わなくて良い、フェリシテが夫にしたい、一緒にいたいと思う者を選べば良いと言う。そう言われると尚更難しいのだった。国王に相応しい人物を選べと言われる方が簡単に思えた。
〝夫にしたい、一緒にいたい〟 と思う感情がどこから来るのか分からなかった。
〝夫にしたい〟 とか言うのは良く分からないが 〝一緒にいたい〟 と言う気持ちは特別な感情だとは思えなかった。四人とも嫌いでは無いし、別に一緒にいて差し支えないからだ。
(これはやっぱり例の貴族用語かしら?含んだ意味があるに違いないわ)
フェリシテは先日、マティアスに質問した時を思い出した。説明して参考書が無いか、もしくは対処方法など聞いてみたのだ。すると何時も冷静沈着な彼がうろたえて答えなかった。それに最近では同席しないユベールが、その日は現れてこの話になると身をよじって笑いに耐えていた。何だか不愉快だったが、マティアスに聞いて分からないのは誰に聞いても分からないと言われている。困った問題だとフェリシテは真剣に悩んでいるのだ。
色々考えて歩いていると回廊の柱で様子を窺う人影を見た。最近良く見かける人物だ。何か言いたそうに見ているから、話かけようとすると逃げられる。今日もそうなのかと思っていると向こうから近づいて来た。
その人物は年頃的にフェリシテと変わらない少女だった。淡い金髪の砂糖菓子のような可愛らしい面差しで深窓の令嬢と言う雰囲気だ。フェリシテの前に進み出たものの恥ずかしそうに俯いている。声がかかるのを待っているのだ。
やっと近づいて来てくれた少女に、フェリシテは輝くような笑顔を向けた。
「こんにちは。今日はとても良い天気ですね」
少女は顔をあげてフェリシテを見ると、その笑顔に呆然としていた。
「私に何かご用ですか?」
「―――本当に天界の神のように、お美しい…」
少女は悲しそうに小さく呟いた。
「 ? 」
「あの、あの、お願いがありまして。今日はギスラン様とお会いなるご予定でございますよね。これをギスラン様にお帰りの時、お渡し下さいませんか?」
少女から差し出されたのは菓子箱だった。確かに今日の午後は定例の稽古日だ。
「え? ギスラン様に? 贈り物ですよね? ご自分でお渡しになられたら?」
「それは…出来ないので…こんなこと貴女様に頼むのは申し訳ないのですが、貴女様からでしたら受け取って頂けると思うので…お願い致します」
(ギスラン様を好きなのかしら? 確かに突然持って行っても受け取らないでしょうね)
フェリシテは涙ぐんで頼むお人形のような少女の手から箱を受け取った。
「確かに。今日お渡しします。ところでお名前は?」
「ありがとうございます。感謝いたします。お渡し頂けたら分かりますので」
少女はそう答えるとフェリシテが声をかける間も無く、ふわりとお辞儀をして風に舞う花びらのように去っていった。
フェリシテは手に残った菓子箱を見た。箱の外まで甘い焼き菓子の香りがする。可愛らしい貴婦人の想いが詰め込まれたものに違いない。
(ギスラン様もご婦人方にとても人気があるから大変ね。しかもあんなご令嬢までなんて幅広い支持者をお持ちだわ。ギスラン様に限らず他の方々もそうね。陛下が王国最高の人選と言われただけあるもの。ご令嬢達にとっても最高の花婿候補達でしょうね。それを私が今独占しているようなもの。早く選ばないと今に宮廷中の貴婦人達に恨まれそうだわ)
フェリシテは大きく溜息をつくと歩きだした。
取り敢えず午後のギスランとの稽古が終わった。今日は時間が無いのでフェリシテの宮殿で行っていた。それと珍しくユベールもいたので、早めに切り上げて皆でお茶をすることになり室内に戻っていた。室内は三人だけだった。フェリシテは侍女が常時世話をしてくれるのを好まず、自分である程度してしまうのだ。だから用事がある時だけ呼んでいる。
フェリシテは預かった菓子箱をギスランに手渡した。
「ギスラン様。これ貴方に渡して下さいと頼まれました」
「私に?誰からだ」
「さあ? 名前は言われなかったので、お渡ししたら分かるとしか…」
思い当たるのかギスランは箱を開け始めたが、ユベールがフェリシテに鋭く言った。
「フェリシテ、不用意に知らない者から食物を貰っては駄目だ!」
「えっ? 何故?」
「何故かだって? フェリシテ、私達の口にするものは全て毒見がしてある。だから決して出所が不明なものは口にすることは無い」
「毒、毒ですって!」
「そう毒だ。私達は常に暗殺の恐れがあるからね。君はこういうのに疎いから狙われたかも…これを渡したのはどんな人物だった?」
「そんな感じの人では無かったわ。とても可愛らしい――」
「ユベール、大丈夫だ。リリアーヌだ」
包みを開けたギスランは中身を見ると、フェリシテの言葉を遮った。
「リリアーヌさん?」
「ああ、問題無い。私の妃だ」
「ええ―――っ、ギスラン様、ご結婚されていたのですか!」
フェリシテは思いもしなかった言葉に驚いた。ギスランは自分の夫候補だから当然未婚と思っていたからだ。
平然と言ったギスランは、彼女が驚く方が不思議のようだった。
「何を驚いている。言ってなかったか?」
「何って、ギスラン様は私の夫候補ですよね。だからまさか既婚者だとは思わなくて」
「ああそれは、王統の条件である第一子がまだだから関係無い。それにそなたと婚姻を結べばそなたが第一妃で、リリアーヌが第二妃だ」
「一番二番の問題じゃ無いし、子供がまだだから関係無いって、でもそれは何時授かるか分からないし…」
「それこそ全く問題が無い。あれはまだ本当の妃では無いから」
妻なのに本当の妻でない? 意味不明な話にフェリシテが困惑していると、ユベールが耳打ちした。その内容に顔が真っ赤になってしまった。
その内容はと言うと社交界でも有名な話だそうだが、ギスランは五年前に結婚したものの花嫁が幼くて夫婦の契りは無く、彼女が大人になるのを待っていたそうだ。もう近々かと思っていた矢先、フェリシテの夫候補となったとのことだった。それで今リリアーヌは実家に帰されて別居しているとの事だった。そしてギスランはそれ以降、彼女と音信も絶ち会っていないと言う。こんな事情だから彼女も直接ギスランに会いに行っても、会って貰えなかっただろう。
しかしユベールとマティアスは、この出来すぎた話しがギスランを犯人では?と疑った一つであった。幾ら幼かったからと言っても二、三年過ぎれば問題は無かったのに今まで一子もいないのは不自然であった。まるで〈天の花嫁〉が現れるのを待っていたかのようだからだ。
今度はフェリシテがユベールに小声で訊ねた。
「そんな幼い時にわざわざ結婚しなくて良いじゃないですか?それに二人の妻なんて」
「貴族は家の事情とかあるから歳は関係無いよ。花嫁なんて跡継ぎを産ませるだけなんだから若くて丈夫だったらいいし、まあ美人だったら言うことないけどね。だから妻は多いほうが実家の後ろ盾も増えて、子が出来る確立も高い。分かった?」
「な、なんですって! 最低! 」
「何を騒いでいる」
フェリシテの突然の罵倒にギスランは驚いた。フェリシテとユベールが何やら小声で話していたと思ったら、彼女がユベールに向かって激怒していたのだ。
「彼女が訊ねるからですね、一般的な貴族の結婚について説明したら。この通り」
「最低! 最低! 王子なんか嫌い! 」
「ユベール、そなた何と説明したんだ」
「別に普通ですよ。家の事情と跡継ぎのために結婚すると言っただけです。フェリシテ、君は理解出来ないみたいだけど、私達はそんな因習の中で生まれ育って来たんだ。皆が皆そうでは無いけど家同士で、子供が生まれる前から男か女か分からないのに、婚約の話は当たり前のように結ばれる。そう言うものなんだよ」
「そんな、生まれた時から決まっている人もいるなんて」
ギスランはユベールの弁護に廻った。
「そうだ。婚姻は特に貴族の勢力分布に大きく関わってくる。王家の血筋となれば絶大な権力が動くから慎重になる。庶民のように自由ではない。私の結婚は遅かったぐらいだ。だからもちろんマティアスもシャルルも既に何年も前から婚約者はいる」
「シャルルとマティアス様にも ユベール王子は?」
「ユベール? ああ、ユベールはいない」
その言葉にフェリシテは、ほっと胸をなでおろした。
「女王は〈天の花嫁〉が現れるのをご存知だったから、ユベールには婚約させなかったのだろう。それが期待通りにならなかったと言う訳だ」
「期待通りにならなかった?」
「分からない? 母上はジェラールが死んでからだから随分前から私と君を結婚させようと思っていた。だから婚約者は決めていなかった。ところが成長した私は期待外れで困ってしまった。だけど一応私は王家直系の第一位。無視すると周りが納得しないのもいる。だから母上は候補者の中から君に選ばせる苦肉の策に出たという訳。それなら天の采配だと大義名分がつくからね。母上もこんな面倒なことをせずに誰か一人を指名すれば良かったと思うな」
「そんなの嫌よ。私は陛下に感謝するわ。もしジェラール王子が存命で、この人が貴女の夫ですよって、決められていたら絶対逃げ出したと思うわ」
「逃げ出すだって! 」
「そうよ。選ぶ権利の無い貴族の因習なんて私には関係無いもの。私は自由が良いの。だから少なくとも選択の自由を頂けたことに感謝するわ。それに陛下はどうしても今の候補者が気に入らないのなら他を探そうとまで言って下さっているのよ」
ユベールもギスランも彼女の考えと、それを支持する女王に呆れてしまった。
「母上はご自分が自由恋愛したから変わった思想の持ち主で困った人だけど、君は〈天の花嫁〉だよ。逃げ出すなんて出来ない。自分の義務は分かっているだろう? 国家の存亡に関わるのだから。本当は王族より自由が無いんだよ」
「分かっているわよ。そんな気持ちと言っただけだよ。自由じゃなくて一人ぼっちなんて生まれてからずっとそうだったもの。だから心だけは自由に羽ばたくのよ」
そう言い切ったフェリシテに自分を哀れむような悲観した感じは無かった。何にも囚われない光りのような輝きに満ちていた。初めて王城に連れて来られて不安な様子は無く、期待にキラキラと輝く翠の瞳で城を見上げていた時のようだった。皆が魅入ってしまった眩しい女神―――ユベールは思う。
(天人の彼女が此処に来なければならなかったのは不幸としか言いようが無い。それでも心だけ遠い異界まで駆け続けたと云う 〝豊穣と美の女神〟 のように、君の心は自由に飛んで行くだろう。その心をつかまえるのは果たして誰なのか…)
天界と人界の時の流れは違う。天界人からしたら人の一生など彼らの瞬きほども無い。天界より降りたフェリシテは、永遠に近い時を捨てて限りある時を刻んでいる。その彼女の犠牲により成り立つ平和。ユベールはフェリシテの幸せを願いたかった。願わずにはいられなかった。
そして彼は優しく語り掛けるように言った。
「君の言う通りだね。誰も君を束縛なんかしない。自由に空を飛びまわるといいよ。だけど君は今一人ぼっちじゃない。此処が家で天の血脈である私達が家族だよ」
ユベールとフェリシテは確認しあうように見つめ合った。羽ばたく空のように碧い王子の瞳が言葉よりも強く語ってくれているようだった。
「王子…私は自分の義務も役割も理解したうえで此処にいます。それも結構楽しんでいますから心配しないで下さいね。ではこの話はお終いです! それはそうとギスラン様、そのお菓子は手作りですよね。見せて下さい! 」
フェリシテは明るくそう言うと、彼が手に持つ菓子箱を覗き込む。
「うわぁ~お上手ですね。美味しそう。一つ頂いたら奥様に悪いかしら?」
「いや、構わない」
「ちょっとフェリシテ待って! それは止めた方が良いと思うよ」
「どうして?」
ユベールはギスランを、チラリと見て彼から睨まれるのを覚悟して言った。
「公は甘党で、それもかなりの。だから奥方の作る菓子はその嗜好に合わせた特別品なんだ。歯が融けるかと思うくらい極甘で絶対止めたほうが良いって!」
ユベールの話にフェリシテの菓子に伸ばしかけた手が止まった。
「無礼な! 食べたら害になるような言い方をするなど。この味を分からんそなたの方がおかしいのだ!」
「そ、そうですよね。お菓子が甘いのは当然ですもの。それにこれなんかとても美味しそうだわ。ねえ、ギスラン様?」
フェリシテは果実を使った見た目も綺麗な焼き菓子を指さした。それをギスランも見る。
「果実を使うとは珍しい。リリアーヌの新作かな。初めて見た」
ユベールの瞳が鋭く光った。
「どれ? へえ~これならあまり甘くなさそうだね。私も頂こうかな。ちょうど二つあるから私の分と、フェリシテの分」
ユベールはその新作菓子を手早く摘まんで取り上げた。
「ユベール! そなたにやるとは言っていない。それは私も食べたいのに! 」
「まあまあ天下のオベール公が、たかが菓子の一つ二つで怒らないで下さいよ。そんなに食べたいならリリアーヌを呼び寄せて作って貰ったらいいじゃないですか? ついでに彼女も食べてしまったら良いではありませんか。リリアーヌは叔父上のお好きな砂糖菓子みたいですしね」
「ユベール! そなたとリリアーヌのことで議論するつもりは無い! 不愉快だ。今日はこれで失敬する! 」
ユベールの揶揄にギスランは憤慨して、菓子箱をユベールに押し付けると、足音も烈しく去って行った。
「王子! 何故あんなこと言ったのですか! ギスラン様が怒るのも当たり前です」
「そう? 私はリリアーヌも可哀そうだな、と思っただけだよ」
「それはそうですけど…あ~あ、それにしても折角お茶も用意していたのに。仕方ないな。でもギスラン様のお菓子があるからそれを食べながらお茶にしましょうよ」
「それは止めた方が良いと言っただろう。それよりもっと美味しいお菓子をあげるよ」
「美味しいお菓子?」
「そう、甘い私の口づけなんてどう?」
「―――王子。何を隠していますか? 言ったでしょう。私にそんな誤魔化しは通用しませんよ。瞳が違いますよ。瞳が! 今なんか何人か殺してきたよと言ってもおかしく無いような荒んだ瞳の色をしていますよ。何があったのですか?」
「はは、何言っているの? まるで心理学者のようだね」
「ふざけないで! 教えて下さい!」
フェリシテは何かを察して頑として引く様子は無い。ユベールは溜息をついた。
「本当に君は鋭い。口外しないと誓ってくれる?」
フェリシテは頷いた。
ユベールは卓上に用意された茶器を手に取ると、観賞用の水槽で泳ぐ小魚をすくいあげた。それからさっき彼が摘まんで取った焼き菓子の欠片をそれに落とす。それを突いた小魚は、あっと言う間に白い腹を浮かべて死んでしまったのだ。