9.
彼女が完全に消えてしまうまであと少し。
陽光は唇を噛んだ。
香波は消えたがっている。世界は彼女を消したがっている。
香波の疑問はもっともだ。なぜ、当事者たちがそれを望んでいるというのに、何の権利もない赤の他人が、彼らの邪魔をするのか。
(そんなの、簡単だ。オレが、ただオレが、咲原に消えて欲しくないと思ってるから)
どんなに苦しくても、生きていて欲しい。けれど、陽光にその苦しみを取り除いてやることはできない。慧に与えられた残り少ない時間を、陽光はすくった砂をこぼすように無駄にしてきたのだ。
そんな陽光にできることがあるとしたら、それは、頼むことだけだ。
「オレは、咲原に色々教えてもらったよ」
「……」
「ゴミ拾いなんてダサイと思ってた。正直、今でもそう思ってて、さっきはごまかそうとしたりもした……。咲原には、ずっと筒抜けだったんだよな。ほんと、今更だと思うけど……。でも、変わりたいと思ったんだ。咲原と一緒にいたら、きっと、変われるんじゃないかって」
「陽光、君……」
「オレは、咲原の苦しみとかよくわからない。想像するしかできないし、それじゃ足りないことはわかってる。それなのに消えないでくれなんて、ひどいこと言ってるんだと思う。けど、苦しいんだったら、逃げるだけでいいだろ? また、戻ってこられる所に、逃げるだけで……!」
きっと、逃げない人間などいないのだ。誰にでも用意されているはずのその逃げ場所を、香波にはまだ見つけられていないだけで。
「もういいって言って欲しいならオレが言うから! どこかに逃げたいときは、オレがその場所になる!」
力不足かもしれない。自信などない。その権利すらないかもしれない。けれど、今、この場でつくるしかないのだ。香波を引き留めるには今しかないから。そして、逃げ場所になれるとしたら、陽光しかいなかった。
「……今は、信じられないかもしれないけど、オレも、覚悟を決めるから。だから、頼む。世界じゃなくて、オレの所を選んでくれ……!」
力の限り叫んだ。今度こそ、彼女と正面から向き合える言葉を。
「……ありがとう」
けれど、遅すぎた。時間切れだ。香波はほほえんだが、目には悲しみが湛えられている。
裏切り続けた陽光の言葉は、香波には軽すぎた。今までとこれからの苦しみを天秤にかける間でもない。心をとりだして見せる必要もない。陽光の感情は全部伝わっている。その上で信じられないとしたら、もう説得する手立てはない。
(……それでも)
それでも、諦めるわけにはいかないのだ。
だって、香波は泣いている。未練がないのなら、これで楽になれると喜んでいるのなら、あんな悲しい顔をしているはずがない。
陽光は足下に目をやった。
何もかもが黒く見える中で、月の光が淡く色を浮かび上がらせた。石ころに紛れたガラス片を拾い上げた陽光は、それを左手首にあてる。香波がひゅっと息を吸う音を聞きながら、力を入れて横に引いた。ぶちっと、思ったよりあっけない感触が右手に伝わる。
「陽光君……!?」
(――ごめん、咲原。オレ、ほんとバカだからさ……)
今の陽光には、彼女を引き留める方法がこれしか思いつかなかった。どんな相手だろうと、目の前で傷ついた者を放っておけない、彼女の優しさにつけこむ卑怯なやり方だ。
香波の悲痛な叫びが胸に突き刺さる。
心が読めなくてもわかる。初めて香波の痛みを直接感じられた。
そんなことを思いながら、大きな水しぶきの音を最後に、陽光の意識は途絶えた。