8.
太陽が沈みかけた頃、ようやく香波を見つけ出した。
行く場所がないと言っていた香波は、結局は川原に戻ってきたのだ。すでにその足下までが消えている。
見えないが、実体はあるのだろう。香波は流れ続ける涙を拭いながら、陽光の視線から逃げるように、透明な足で川の中へ入っていく。
「咲原! 何してるんだ!」
水深は浅いはずだが、深みにはまって足を取られることもある。連れ戻そうとする陽光を振り向き、香波は涙に濡れる顔を上げた。
「本当に、森先生から聞いてないんだね。……私は、もうすぐ消えるのに」
「……え?」
(消える……って――)
思わず透明な腕に目をこらし、困惑する陽光に向かって、香波は続ける。
「森先生が言ってたの。私は、相手の感情をそのまま自分のものとして受け取ってしまう。他者と自分の間に境界が引けない。それが高じて、相手の気持ちまでわかるようになってしまった。……このままいけば、いつか、周りに溶けてしまうかもしれないって」
「は……?」
人間が、溶ける?
陽光は絶句した。香波の顔をまじまじと見つめる。
人間が一人、周囲に溶けて消えるなどと、慧が言ったというのか。そんなオカルトじみたことを。れっきとした、一人前の医師が。
「そんな、馬鹿なことが……」
「でも、実際に消えかけてる」
香波は悲しそうにほほえんだ。
「同じような症状を持つ人の多くが、失踪っていうか、行方不明になってるみたい。確かなことはわからないけど、先生は、人柱っていう昔の慣習の代わりなんじゃないかって言ってた。昔々に、神様の怒りを鎮めるために、定期的に捧げられていた生け贄。その本当の意味は、人口抑制。人は、自分たちが多くなりすぎたと感じると、自主的に人口を減らしてきた。でも、それは昔のこと。そんなことは、もうできない」
陽光はレミングの話を思い出した。集団自殺をするというネズミたち。そのときの香波の表情。
「その代わりがきっと、私みたいな性質を持つ人間なんじゃないかって。誰からも強制されず、自ら望んで、人柱になる。……私は、それでいいと思ってる。私が側にいただけで、陽光君にも嫌な思いをさせた。私が消えれば、そんなことも無くなる……」
「――違う!」
陽光は大きくかぶりを振って否定する。
それは、さっきのことを言っているのだろうか。だとしたら、香波のせいであるはずがない。むしろ、香波は傷つけられた方だ。それなのに自分を責めてしまう香波の優しさが苦しくて、陽光は胸を押さえた。
「……そうじゃないだろ。咲原は全然悪くない」
「ありがとう。でもね、いいんだ」
香波は首を横に振る。
「先生はきれいな理由をくれた。人口抑制って意味では、私達だけじゃ数が少なすぎるでしょ? だから、私達は、地球を浄化する仕組みの一部なのかもしれないって。選ばれた命を捧げることで、地上を浄化することができるんだって。私達は、消えて無くなるんじゃない、溶けて地球と融合する……、それが本当なら、初めて私は誰かの役に立てる」
「咲原!」
陽光はのどが切れるのではないかと思うほど強く叫んだ。
香波の話は滅茶苦茶だ。全部慧の憶測で、全部香波の思い込みだ。
初めて見る香波の心からの笑顔が、この世のものとは思えないほど美しくて。
泣きたくなるほど悲しかった。
「オレはバカだけど、咲原が消えて世界が良くなるなんて思えない。世界を変えるっていうなら、咲原は、生きていなくちゃ駄目なんだ!」
「……!」
香波の救われたような表情がさっと曇る。そして、みるみるうちにゆがんでいく。振り絞るように、言葉を紡ぐ。
「でも、私は、もう……、疲れたの。ずっと、変な子だって言われてきた。物や他人の声が聞こえるなんておかしいって。だから、普通になりたくて、聞こえないふりをしてきた。……だけど、苦しい。普通をよそおうのは苦しくて。でも、普通を諦めて、自分のしたいように行動しても、苦しいの。――だったら、私はどうすればいいの!?」
最後の方は叫びだった。今まで誰にも言えなかった、ため込み続けていた本音を、全身を使って叫ぶ。
香波は、透けている両手を見つめて慟哭する。
「もういいって言ってくれてるんだよ? どうしたって苦しいだけなら、これ以上我慢しなくていい、このまま消えてもいいって! ずっと疎まれていた私が、ようやく誰かの助けになれるのに、どうして邪魔するの!?」
香波の目から、とめどなく涙がこぼれ続ける。その涙さえも、空中ではかなく消えていく。空を明るく照らす月影が、彼女の姿を透過して見えそうだった。