4.
あるとき、香波の姿が見えなかった。陽光は、クリニックに戻って慧に尋ねてみる。
「ああ、咲原さんなら、通りすがりのカラスに石をぶつけられたとかで、トイレに閉じこもっているよ」
「はあ? 弱っ! メンタル弱っ!」
ついそう叫ぶと、慧に本ではたかれた。
「こら。違うと言っただろう? 彼女は人より、負の感情にも当てられやすいんだ」
「わ、分かった。悪かったってば」
陽光は這々の体でトイレへ向かう。慧が何もしてないということは、彼女を引きずり出すのは陽光の役目なのだろう。
ドアを挟んで事情を聞くと、ためらいがちに返事があった。
「変なカラスが……話しかけてきて」
香波によると、そのカラスはフランス語と日本語を流暢にあやつったらしい。石をぶつけられたことよりも、とうとう自分がおかしくなったんじゃないか、と思って香波は落ち込んでいたようだ。
(ああ、そっか。咲原は、言葉が聞こえるわけじゃないんだっけ)
相手の感情がじわりとわかる程度と、実際にペラペラ言葉を話されるのとでは訳が違う。陽光はそんなカラスを想像してみて、確かに不気味だと納得する。
「カラスは頭がいいらしいし、オウムみたいに、覚えた言葉をただ繰り返していただけじゃないのか? フランス語はまあ……、オレの近所にオランダ人とのハーフが一人住んでるし」
フランス語とオランダ語が似てるのか、陽光は知らない。いやそもそも、そのハーフがオランダ語をしゃべっているところもカラスと会話しているところも見たことはないが、可能性はゼロではないだろう。
誰が聞いても適当百パーセントのフォローだったが、香波の声は幾分明るさを取り戻した。
「そう……だよね。人にもいろんな人がいるし、いろんなカラスがいるよね。もしかしたら、本当にしゃべれるカラスだったのかもしれないよね」
それから少し待つと、「……お騒がせしました」と香波がトイレから顔を出した。二人で川原へ向かう途中、陽光はずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「いつから聞こえるようになったか? うーん……、多分、物心ついたときには聞こえていたと思う。でも、他の人には聞こえないって知ってからは、ずっと、聞こえないふりしてた。母からは、気味悪がられてたし」
「へえ……、子どもの頃からか。それじゃ、なんだかわからなくて大変そうだな」
「うん。普通の子のふりをしてもなかなかうまくいかなくて。どうすれば普通に見えるのか、大人の顔色うかがったりしてると、今度は子どもらしくないって言われた。この声はどんどん大きくなっていくし……。もう、どうすればいいかわからない」
香波は道端に落ちていたたばこの吸い殻を拾い上げる。
「こういうの、聞こえないからできるのかな? 土の悲鳴が、聞こえないから……」
香波は悲しげに手の中のゴミを見つめる。
陽光は何も言うことができない。まだ、香波の不思議な体質に戸惑っているところなのだ。理解はしているが、実感がそれに追いついていなくて、戸惑いを感じている。
けれど、香波の表情に陰りのようなものが見えるたび、陽光の胸は詰まって、さらに言葉が出なくなる。彼女の力になりたいのは本当だ。だけど、もう一歩が踏み出せない。
もしかしたら、彼女のそばにいくためには何を捨てなければならないか、心の底では気づいているから、近づけないのかもしれなかった。