婚約破棄についてお話します
学院最大のイベントである卒業記念舞踏会、その前座である立食パーティで事件は起こりました。
わたしたち学院生はまだ未成年とあって、大人のように真夜中ではなく健全な日中の開催。それでも、学院の卒業を控えたパーティ参加者たちはグラスを鳴らすと腕を交わしてお互いの杯を口にしたり、柱の陰などで恋の遊れの予行演習とばかりに異性と親しく触れ合って盛り上がっています。
いわゆる、貴族子女の仕上げ学校――最近は女子だけではなく男子も入学するようになりましたが、直訳すれば女子寄宿舎学校という昔ながらの名称で呼ばれています――の学生としては不謹慎で不適切な振る舞いと言わざるを得ません。とはいえ、パーティと舞踏会は二年間の学院生活最大のイベント。しかも、学院生が主催するイベントです。厳格で鞭を手にした教師陣の目もないとあっては、まだ若い学院生たちが浮ついてしまうのも致し方ないというものでしょう。教師陣もあまりに羽目を外しすぎなければパーティと舞踏会での出来事は黙認するのが慣例です。しかし、その華やかで楽しげな空気は、広間の奥に設えられた壇上からの一言で霧散してしまいました。
「舞踏会の前に、この場ではっきりさせておきたい。私は、エーデル侯爵令嬢との婚約を破棄する!」
突然の衝撃的な宣言に、会場は驚きの声があがります。ただ、この声の主は会場でもっとも権威のある最上席者――帝国の皇太子とあって、声はすぐに囁き程度に静まりました。もっとも、口を噤んだからこそ、疑念はいやましてしまうのは世の道理。パーティの参加者たちは皆一様に、信じられないという視線を皇太子に向けました。視線での問いかけに対し、皇太子は無言のまま壇上で胸を反らすのみ。わたしの位置からは皇太子の表情は見えませんが、この態度だけでも先の発言はたちの悪い冗談ではなく本気であると雄弁に物語っています。
抑えようとしても抑えきれないさざ波のような、あるいは風の夜の葉群のようなざわめきが会場全体に広がると同時に、パーティに参加していた学院生、壁際や大広間に続く控えの間に待機していたお付きの家士や侍女たちが慌ただしく退出していく姿が大広間の奥からも確認できました。誰も彼も、いささか以上に早足です。中には、あまりにも急ぎすぎてカーペットに躓きかけた家士もおりました。
躓きかけた粗忽者は勿論のこと、早足でバタバタと退出するなど、学院生ならびにその従者として相応しからざる振る舞い――いつもであれば学院総務の職責として注意を促していた皇太子ですが、何故か全くの無視を決め込んでいます。皇太子の取り巻きである学院自治会に所属する帝国宰相や、内膳長あるいは典厩長といった宮中世襲職を独占している名家の息子たちも、皇太子と同様です。沈黙を保ちつつ壇上で皇太子の傍を固め、他の学院生などが確認の声を掛けるられないような雰囲気を作り出しています。
この緊張した膠着状態を破ったのは、この日のために心を込めて誂えた令嬢たちの色とりどりのドレスの海から進み出てきた、控えめなリボンやレースで甘やかさも添えつつひときわ華やかで気品のある真珠色のドレスを身に纏った少女でした。
高原の花を思わせる青く澄んだ瞳。真っ直ぐに伸びた、高く細い鼻梁。やや薄めながらも形の良い紅唇。耳もとから顎にかけて、女性らしい優美な線を描く顎。年齢よりも大人びた端正な美貌を縁どる輝かんばかりの豊かに波打つ金髪は丁寧に結い上げられて、こちらも控えめにレースと花で飾られた帽子を被っています。
夜会ではない昼間の舞踏会のため襟高で長袖という落ち着いた装い、そして、踝まである長いスカートの裾の捌きようなど、まさに将来の貴婦人――いえ、すでに社交界に出ても気高く美しい花として誉めそやされることでしょう。
しかし、その優雅を体現した挙措とは裏腹に、その眼差しには長い睫毛が影を落とし、仄かな憂いを感じさせます。ただ、それもほんの一瞬のこと。水面に揺れた影のように、たちまちのうちに消えてしまいました。
装いだけではなくその精神性も完璧な淑女の振る舞いを体現してみせたこの少女こそ、今まさに皇太子から婚約破棄を申し渡されたエーデル侯爵令嬢その人です。
帝国でも名門中の名門である帯剣貴族の娘らしく、騒然とする大広間の雰囲気に委縮することなく皇太子の前まで進み出ると、無礼に当たらない程度に頭を下げます。
この場での最上位者は皇太子ですから、彼の許しがなければいかに侯爵家の令嬢であっても沈黙を守るしかありません。上位者の許しがないまま下位の者から挨拶や発言することは、極めて無礼なこと。身分が低い者は上位者の視界にさりげなく入り、声を掛けられて――存在を認められて初めて口を開くことができます。
礼儀作法に通じた侯爵令嬢は無視も覚悟していたことでしょうが、皇太子は発言を許しました。
「呼ばれる前に出てくるなどフロイラインにしては珍しく僭越だが、不問に処す。フロイラインにも関係あること故、発言も許そう」
「感謝いたします、殿下」
皇太子に許されて初めて、侯爵令嬢は優雅に屈膝礼――帝国だけではなく各国の宮廷で後ろへの挨拶とも呼ばれる最敬礼を行います。
「それでは、理由をお聞かせ願えませんでしょうか。わたくしは侯爵閣下より、今回の皇帝陛下のご決断についてなにひとつ伺っておりません」
「フロイラインの父君にはまだ話していない。父上にも、まだだ」
「陛下にも、侯爵閣下にも……?」
「ああ、私の婚約のことだ。私が決める」
「それは全く決まってないと同義かと存じますが……それにもかかわらず、このような場で仰るとは、一体、どのようなおつもりなのでございましょうか」
これがサロンのような場所で他に人もいなければともかく、舞踏会の前の立食パーティです。学院の主だった生徒たちが集まっており、しっかり皇太子の宣言を聞いていました。
言い換えれば、学院生たち全員が皇太子の発言の証人となりえるということです。侯爵令嬢はその点を危惧していましたが、皇太子はむしろそのつもりであると返します。
「私とフロイラインとの婚約もパーティで発表された。であるからには、破棄もパーティで発表しなければならない。故に、この場で発表しただけのことだ」
これには、侯爵令嬢の眉宇がわずかに寄りました。
婚約に限らず大事な取り決めを多くの貴族たちの前で宣言するのは、反対がない――皆承知したという合意を形成するためです。これは貴族に限った話ではありません。平民でも結婚にあたり両家との合意が取れた後、教会前の掲示板に結婚の告知を三週間にわたって貼り出して誰も異論がないことを確認した上でようやく結婚が認められます。
ただ、皇太子は、それを承知の上で、侯爵や皇帝陛下の許可はおろか全く話を通していないことを自白しました。侯爵令嬢の美しい眉根も寄ろうというものです。しかも、皇太子はそれにと続けながら、今までで自分の後ろに半ば隠れるように控えていたドゥムハイト男爵令嬢の腕を取って、自分の横に立たせました。
いきなりのことに足をもつれさせながら引っ張り出された男爵令嬢は、薄いピンクのモリスンのドレス姿でした。胸元にはリボンで小ぶりの薔薇をあしらい、レースを周りに飾っています。帽子はボンネットとやや古風ですが、今風に白い羽飾りをつけるなど工夫を凝らしています。集まっている他の貴族令嬢と比べて素朴にすぎてはいるものの場違いとまではいかず、ぎりぎり及第点といったところでしょうか。
装いに比べると、容貌は厳しい評価となります。目鼻立ちは整っていると言えなくもありませんが、彫りが浅い上に化粧が薄いため、全体としてどこかぼんやりとしたものになっています。分かれて一時間もすれば会って話したことを忘れていそうな印象の薄さです。妍を競うべく化粧を凝らし、自分の魅力を最大限に引き出そうと着飾っている上級貴族の娘たちとは比べ物になりません。量の多い癖のない黒髪も、豊かに波うつ金髪が好まれる社交界では重たく野暮な印象しかありません。これは、はっきりとしたマイナスです。
そして、社交の場で衣装の華やかさと同じくらい注目されるのは立ち姿を含む典雅な挙措ですが、男爵令嬢はそちらも今ひとつ。なにしろ、あまりの居心地の悪さに皇太子の後ろに隠れようとするほどです。まあ、この点については弁解できない点もないわけではありません。なにしろ、男爵令嬢が立っているのは皇太子の隣。先の皇太子の発言もあいまって、広間全体から向けられる視線は物凄い圧力となっています。しかも、好意的なものは一つもありません。
もともと、男爵令嬢は学院でよく思われていませんでした。男爵令嬢とはいうものの彼女は生まれながらの貴族ではなく、平民の母の許、市井で育てられていた私生児。それが母の死後、その当時は他に子供がいなかった父である男爵に認知され、庶子として引き取られたという経歴の持ち主です。
戯れに孕まされて屋敷を放逐された平民出身のメイドが産んだ娘が幸運にも認知されて男爵家に引き取られた――そのような話は、貴族の社交界では実に好まれる醜聞です。男爵家は隠そうとしましたが噂は瞬く間に広まり、父母たちからそれを聞いている貴族の子女たち――学院生も、男爵家の事情を知っていました。男爵令嬢に対して同情的な視線が一つもないというのは、皇太子の発言もさることながら、そのような彼女の経歴も大いに影響しています。
そして、皇太子がこの状況に油を注ぎました。
「フロイラインよりも、彼女のほうを愛しているからだ」
皇太子はそれきり口を閉ざし、優しげな瞳で男爵令嬢を見つめます。強まる周囲の視線にさらにいたたまれなくなった男爵令嬢は、わざわざ腕をとられて横に並ばされたにもかかわらず、最初と同じように半ば皇太子の背に隠れました。他の令嬢がこのような貴族にあるまじき情けない真似をしようものなら、皇太子は即座に叱責したことでしょう。しかし、注意するどころか周囲の視線から守るように男爵令嬢に向き直ると、軽く抱きしめました。
この場に何一つふさわしくない、正式な婚約者を放置した上での男爵令嬢に対する気遣いと贔屓。それを目の当たりにしながらも侯爵令嬢は表情を変えずに皇太子の背を見つめていたようでしたが、皇太子は男爵令嬢を抱きしめたまま。侯爵令嬢には言葉ひとつ掛ける様子がありません。
やむなく、侯爵令嬢から口を開きます。
「殿下……よもや、婚約を破棄する理由というのは、それだけなのでございますか」
「それだけで充分だろう」
そこでようやく抱きしめていた男爵令嬢を離して振り返った皇太子の声音は、一転して厳しさを感じさせるものでした。皇太子の取り巻きたちも、フロイライン・エーデルは何故分からないのかと苛立ちを隠さずに文句を言っていましたが、男爵令嬢と違い侯爵令嬢は少しも怯んだ様子はありません。
このやり取りを受けて、大広間を後にする者たちがさらに増えました。しかし、皇太子も取り巻きたちも学院生や家士、侍女たちの動きは視界には入っているはずですが、全く気にとめた様子はありません。
一方、侯爵令嬢は広間から退出する貴族や家士たちを一瞥した後、淡々と皇太子に答えます。
「いえ、それだけでは充分とは言えないかと存じます」
「何故だ? 私と彼女の間には、真実の愛がある。フロイラインとの間には存在しない、真実の愛が。婚約を破棄する理由としては、それで充分だろう」
「愛……? ますます理解いたしかねます。わたくしのことはともかく、殿下がその女に寵を賜るということでしたら、愛妾として侍らせればよいではございませんか。何故、侯爵家との婚約を破棄することになるのでしょうか」
侯爵令嬢がこの女と告げた瞬間、男爵令嬢は大きく身を竦めました。
皇太子から婚約破棄を言い渡されても毅然としていた侯爵令嬢とは実に対照的です。やはり、数年の教育を受けた程度では生まれ育った精神は変わりません。生まれながらの貴族たちにとっては、男爵令嬢のこの振る舞いはまるで平民のように見苦しいものです。視線だけではなく、全く肯定的ではない囁きが其処此処に交わされました。
しかし、貴族の中の貴族であるべき皇太子は、男爵令嬢のまるで平民のような振る舞いに他の貴族の学院生たちとは異なる感想を抱いたようです。男爵令嬢の目じりにうっすらと浮かぶ涙を何と思ったのか、皇太子は再び振り返ると人目もはばからずに男爵令嬢を胸に抱きしめました。
先程の軽い抱擁ではありません。腕に力を入れて胸元に引き寄せるような皇太子に、広間はざわめきます。まあ!と誰かの令嬢の小さな悲鳴もあがりました。さすがにやりすぎたという自覚があったのか、また、男爵令嬢からも殿下と囁かれたこともあり、皇太子はすぐに彼女を解放します。ただ、その眼差しには未練がありありと浮かんでおり、人目がなければいつまでも男爵令状を抱きしめていたことでしょう。
皇太子は名残惜しさを隠そうともせずにゆっくりと振り返ると、男爵令嬢を守るように侯爵令嬢と対峙します。
「なんということだ……このような冷たいことを平然と口にして人を傷つけるフロイラインを愛することなど、私には無理だ。やはり、フロイラインとこのまま結婚し、子供を作ることなど考えられない」
これには侯爵令嬢の眉が上がりました。
「殿下、結婚を何だとお考えなのですか。結婚というものは、両家の血筋を引く子供を作るという契約です。婚約を結んだということは、両家の間で合意に至ったということ。であれば、契約にともなう義務を果たしていただかなければなりません」
まことにその通りと、大広間では今度は賛同の頷きがいくつも見られます。
侯爵令嬢の表情には抑えた怒りと、それ以上の呆れが浮かんでいました。それもそのはず、侯爵令嬢の発言は、貴族階級であれば極めて常識的な話であるからです。結婚が家と家の結びつきと言われるのは、婚姻により両家の血を引いた正当な継承権を持つ子供を為すためです。子供が生まれないことが神の前で誓った結婚の正当な離婚事由となるのは、結婚の目的が果たされないためです。
また、裏を返せば契約を履行――子を為してさえしまえば、あとは何をしても咎められることがありません。夫婦それぞれに恋人や愛人がいることは当たり前、寝室や客間もそれぞれ別の棟にあることが多く、帝都の貴族の館はそれぞれ入口が別となっていてお互い鉢合わせることがないように設計されています。
ただ、隣の王国には恋愛で身を持ち崩す貴族も少なくありません。恋人との子は当然、私生児となりますが、何をどうとち狂ったのか実子として認知して正当な継承権まで与えようとする愚かな男が珍しくないと聞きます。正妻やその子たちと揉めることも想像できないなど頭の病気に違いなく、帝国ではそのような軽率な行為を揶揄して王国病と呼んでいます。
おほん――話が逸れてしまいました。
帝国貴族、しかも学院に入学するような年齢の子女であれば当然のように理解している内容とあって、侯爵令嬢の口調はまるで頑是ない幼子に噛んで聞かせるようなものでありました。侮られているというのは言い過ぎですが、少なくとも皇太子は理解が足りていないと侯爵令嬢に認識されていたことは確かでしょう。
ただ、幸か不幸か、皇太子がそのことに気づいた様子はありませんでした。
「契約! 義務! フロイラインは、それで納得しているというのか」
「結婚というものはそういうものでございます。わたくしは、それを理解しております」
言外に、あなた様はご理解されていないようですがとの含みがありましたが、皇太子はやはり気が付いていません。
「何度言われても、私には理解できない。そのように家の都合で決められる結婚など不毛だし、好きあった者同士でなければ、結婚してもお互いが不幸になるだけだ。フロイラインは、どうしてそれが分からないのか……」
ため息交じりに首を横に振る皇太子は、驚くべきことに心からそう思っているようです。
これにはさしもの侯爵令嬢も目を見開き、言葉に詰まりました。
大広間に残っていたほぼ全員が同じ気持ちだったでしょう。皇太子殿下は、一体、どうなさってしまったのか、と。
いえ、思い起こせば、兆候は確かにありました。学院の上級生にあがってすぐの頃、貴族と平民で身分差があるのはおかしいと発言したと噂になりました。また、貴族は質素倹約に努めるべきであり、領民の税で暮らすことができることを感謝せねばならない。利殖に励み、民のために国を裕福にする高貴なる者の義務――何故か皇太子が口にしたのはノブレス・オブリージュと王国風の言い回しであったそうですが――があるのだ、とも。
それまでの皇太子はまことに立派で非の打ち所がない貴公子だったのですが、急に言動がおかしく、言葉を飾らずに申し上げれば貴族の精神を失ってしまわれました。そもそも、利殖に励むなど、先祖代々の帝国封を正しく後世に受け継がせることが義務であり人生の使命である帝国貴族には無縁の話です。歴代の家産のない平民たちが職に就いて動産を残すべく利殖に励むと言うのであれば分かります。利益を集積して資本となした富裕平民とよばれる階層が出現していることも承知しております。しかし、なぜ、帝国貴族が平民の真似などしなければならないのでしょうか。貴族は貴族らしく、平民は平民らしくということが社会秩序の安定をもたらすというのに、全く理解に苦しむ発言です。
侯爵令嬢は婚約者として皇太子の錯乱に心を痛め、心配して何度も諫めていましたが、皇太子がそれを煩わしいものだと公言してからは、取り巻きたちが皇太子に近づけないようにしていました。
今の皇太子の取り巻きになっているのは、その意見に賛同している者たちです。
そして、皇太子は学院内だけではなく、外でも同じような主張をしていたと聞きます。当然ながら、皇帝陛下のお耳に達していましたが、廃嫡という話にはなっていませんでした。今までは。
いくら言動が怪しくなってしまったとはいえ、学院に入るまではまるでお手本のような貴公子でした。ゆえに、これは若気の至りで一時的なもの、この学院を卒業して宮廷――良識ある貴族の男性たちの元に戻れば妄言もなくなると皇帝陛下はお考えであったと後から教えていただきました。侯爵令嬢もそのようなお考えであったと、こちらはご本人からお聞きしました。
学院に入ってから他の女に――男爵令嬢だけではなく、婚約者の有無をとわずに令嬢たちに親しげに話しかけるようになっていました――うつつを抜かす皇太子に愛想を尽かし侯爵家のほうから婚約破棄を願い出るのではという噂もありましたが、今回の舞踏会の皇太子のパートナーは侯爵令嬢でした。学院のと注釈はつくものの、公的な催事に正式な婚約者の侯爵令嬢ではなく男爵令嬢をパートナーに選んでしまえば、決定的な破局だと公言するようなものです。舞踏会のパートナーは侯爵令嬢であると発表されると、学院最後にして最大の催事で皇太子がぎりぎり踏みとどまったと学院生たちは安堵に胸をなでおろしたものでした。
もっとも、侯爵令嬢の本日の舞踏帳にはどの曲にも皇太子の名前がないという噂は公然の秘密のように囁かれていましたが、それは恋人や愛人を作るようなもの――許容範囲と言えるでしょう。
それがよもや、皇太子と言う身でありながら、貴族における結婚という実に基本的な事柄の常識を否定するとは! 皇太子のあまりの無分別な発言に、学院生たちはざわめきをあげるどころか、開いた口が塞がらないといった様子です。そして、同じように、いえ、当事者であるだけにより誰よりも大きな衝撃を受けたであろう侯爵令嬢に、皇太子は残酷にもさらに続けます。
「それに、これはフロイラインのためでもある。貴女も好きでもない相手と結婚するよりは、他の好きになった男と結婚するが幸せになれる」
今度は、侯爵令嬢の二重の瞼がすっと細められました。
その美しい双眸に、皇太子に対する明確な瞋恚が浮かびます。
「……殿下がわたくしでは嫌だとお思いあそばされた故の仕儀ではございませんか? それを、こともあろうに、わたくしを理由にしないでいただきたいものですわね。さすがに、不愉快でございます」
「違う。これは、フロイラインを気遣ってもいるのだ」
「畏れながら、お気遣いであれば、せめて、触れられるのも嫌だという嫌悪を抱かせないよう振舞ってくださいませ。義務を果たし終えた後は、本日の舞踏会のような公的な場以外ではどうぞお好きに。わたくしもその暁には、気随にいたしますので」
「だから! そのような家庭を持ちたくないと思っているから、私はフェアレーテリン――フェアを選ぶんだ。彼女は身分は低いかもしれないが優しく穏やかで、とてもよく気が付く女性だ。しかも、謙虚で慎ましやか。一緒にいて、とても寛ぐことができる。フェアであれば、共に一生を添い遂げられる。身分など関係ない。私が望む暖かい家庭は、彼女でないと駄目なんだ」
皇太子は男爵令嬢の名を親しく呼びます。
対照的に、侯爵令嬢の声からは色や温度が抜け落ちていきました。
「家庭など、まるで平民のようなことを仰いますのね。わたくしたち貴族にあるのは公的な生活、つまり家のみであり、私的な家庭などではございません。それは、殿下もよくご存じではございませんか」
「私は、それが嫌だった! そのような非人間的で血の通わない、そして、非法な振る舞いは許容できない」
皇太子の周りからは、なんとお優しい、慈悲深い方であられると誉め言葉が上がります。勿論、侯爵令嬢は少しも感銘を受けた様子はありません。ただ、細く長い息を吐きました。
そして、手にしていた扇子を軽く開いた後、ぱちりと閉じます。
「義務さえ果たせば、後はお好きにと先ほどから申し上げております。以前にも、申し上げました。一体、それのどこが非人間的であると?」
「家の犠牲になっているではないか」
「わたくしたちは家とともにあるのです。まさか、殿下にこのようなことを口にする必要があるとは思いもよりませんでしたが……」
溜息を飲み込み、侯爵令嬢は冬の吹雪のような声で続けました。
「貴族が貴族たりえるのは、貴族に相応しい振る舞いをしているからです。先祖の勲功をその血統によって代々継承する者たちが貴族であり、血統こそが我々のよって立つ所以でございましょう? 法によって守られているのは平民だけ。貴族とは、自らの立ち位置を自らが保障せねばならないのです。あるいは証明すると言い換えても良いでしょう。もし、そのような振る舞いができないということであれば、どのような生まれであっても、貴族としては認められませんわ」
平たく言えば、侯爵が侯爵であると誰もから認められているのは、法律などで立場が保障されているからではありません。皆が侯爵であると納得するような振る舞いをしているからこそ、というわけです。当然ながら、振る舞いとは生活全般に及びます。その振る舞いには家屋敷の格なども重きをなすため、先の質素にという皇太子の発言がいかに貴族社会では頓珍漢なことかお分かりになるでしょう。
また、安易に貴族の生活様式が平民と近くなるということは、社会秩序を揺るがすことになりかねません。一体、何のために青い血と呼ばれる4世代前の16人が全て貴族でなければ帝国封の継承が認められず、帝国の官職や将軍職にも任じられないという厳しい貴族規定があるのか、為政者となるべき皇太子が全く理解していないことに、正直に申し上げて驚きを通り越して呆れと恐怖の念を覚えました。
隣の男爵令嬢がぶるりと身を震わせたのが分かったのか、皇太子は今度は抱擁ではなく手をそっと握りました。
そして、侯爵令嬢に力強く返事をします。
「フロイラインに認められなくてもかまわない」
「どうやら、本気で仰っておられるようですわね」
「ああ。俺は最初から本気だ。フェアだけを愛している」
皇太子の一人称の変化に、侯爵令嬢は言を重ねることを諦めたようでした。
「……全ては侯爵閣下や皇帝陛下がお決めになられるわけですから、これ以上、この場であれこれ申し上げても詮無き事ですわね」
それではごきげんようとくるりと背を向けて、他の学院生たちの許へ戻っていきました。
その背は凛としていて、気品と威厳に溢れた非の打ち所がない貴婦人でありました。侯爵令嬢を見ていたであろう皇太子やその取り巻きの表情は分かりませんでしたが、きっと今までの発言の通りに間抜けな顔を晒していたことでしょう。
その後の顛末は蛇足となりますが、付け加えることにいたしましょう。
エーデル侯爵家はドゥムハイト男爵家に私戦を宣言。多くの貴族たちが侯爵家に与した結果、男爵家の帝都の屋敷は更地となり、領地も全ての城塞が陥落しました。皇太子は、何故フィアの実家を攻撃するんだ!と怒り狂ったそうですが、これは男爵家が皇太子の婚約者である侯爵家に取って代わろうとした政治的敵対行動としか解釈のしようがありません。侯爵家は男爵家の挑戦を受けてたち、実に貴族らしく自らの力と正義を帝国全土に証明して見せたというわけです。
皇太子は戦争だなんてと侯爵家が攻め込んだことも非難していたようですが、これは戦争ではありません。ハインリヒ皇帝が定められた帝国平和令にも、貴族間の私戦は貴族の正当な権利として認められています。侯爵令嬢もおっしゃっておられましたが、己が力で証明するのは貴族の尊い権利であり、義務であります。
侯爵家の動きが迅速果断であったのは、これあることを御当主が予想して用意万端整っていたためです。そして、その侯爵家に多くの貴族たちが追随できたのは、パーティ会場の広間から退出していった貴族や侍女、家士たちがそれぞれの家に急報したからです。勿論、一刻も早く侯爵家に味方することを表明して、男爵家とは関わりないことを示すために。実際、広間から真っ先に動いていたのは多少なりとも男爵家と繋がりがある家の者たちでした。
侯爵家は帝国の中でも力がありますので、他の侯爵家、公爵家などの高位貴族たちは男爵家との争いで疲弊してほしいと願っていたことでしょう。しかし、今回はあまりに男爵家の落ち度が大きすぎて、侯爵家の勝ち馬に乗るしかありませんでした。
侯爵家との私戦に完全敗北した男爵家は、貴族としての面子を保つことができませんでした。とはいえ、侯爵家に対する賠償金で多くの動産ならびに街道上の関所の廃止など各種の利権こそ失いはすれ、男爵家の家産である帝国封の正当な継承権は侯爵家にはありませんので領地が減ることはなく、身分上は爵の字を持ち続けます。ただし、貴族社会ではもはや誰からも相手にされないようになってしまいました。なにしろ私戦に完敗した上に、件の男爵令嬢が学院に入学するまで父の男爵によって性的暴行を繰り返し受けていた詳細な資料が何故か宮廷法院に届けられておりましたので、名誉と恥を知るまともな貴族であれば門を閉ざすしかありません。それでも男爵は書面で宮廷法院に冤罪であると見苦しく主張しましたが、これまた不思議なことに男爵の主張をことどとく覆す資料が宮廷法院に届けられます。男爵は門を閉ざし、男爵令嬢はこの私戦で行方不明となっておりますので、双方の出廷がないとして裁判は中止――公的な沙汰は下されませんでした。しかし、男爵の下劣な行状に加えて書面だけとはいえ男爵が令嬢に完全に論破されていたことは、多くの貴族の知るところとなりました。なお、宮廷法院は男爵令嬢の捜索を数年にわたって続けておりましたが、二年後、先の私戦に巻き込まれて死亡したと裁定。銀の名簿――貴族籍から抜くことを決定しました。
男爵家にはこの庶出の令嬢のほかに後妻との間に幼い男子――令嬢を認知した後に生まれました――もおりましたが、失態に失態を重ねた恥さらしな男爵家の相続など貴族たちの牙城である帝国紋章院があの手この手の難癖をつけて認めるはずもありません。当代で男爵家は断絶ということは決定事項です。すでに目端の利く帝国騎士たちは一度、帝国紋章院に回収される男爵の帝国封を狙って運動を始めております。
また、皇太子は婚約破棄を果たしたと得意満面でパーティ会場を出た後、皇帝陛下より遣わされた帝国騎士たちによって真実の愛とやらで結ばれた男爵令嬢と引き離され、王宮の塔に幽閉されました。幽閉後も男爵令嬢を想って恋々としていた姿に改善の見込みなしとして皇太子の地位を廃されました。これで正気に戻ればよかったのでしょうが、元皇太子はなおさら塞ぎこむようになり、自分は別の世界から来たなどと呟くようになるなど精神的に病んでしまいました。皇帝陛下は元皇太子を帝室からも籍を削除の上、表向きは病気療養で僻地の修道院に押し込んだとの噂です。錯乱した元皇太子の危険な思想に感化していた取り巻きたちも当然ながら軒並み廃嫡されて、有能ではありましたが母の身分が低かった弟や親族の男子が後継として認められました。また、この件で帝国宰相は辞任。皇帝陛下は後任の宰相を置かず、帝国議会に自ら臨席して諸侯に睨みを利かせるようになったことも帝国としては大きな変化でしょう。まあ、雲の上の政治のことなど、わたしにとっては関係のないことですが。
それよりも、文武に優れた第二皇子が新皇太子として正式に冊立され、エーデル侯爵令嬢との婚約が発表されたことの方が、わたしにとっては重要です。結納から二年後、二人は帝国中の祝福の中、盛大な華燭の宴を執り行い、子宝にも恵まれました。その新皇太子には、侯爵令嬢との婚約の前から身分の低い地味な黒髪の侍女が愛妾――そして、陰謀の手駒として仕えておりました。
そう、この話の語り手である、わたしことレーテです。かつてはフェアレーテリンという名前であったような気もしますが、気のせいでしょう。それに、わたしはただのレーテ。貴族のように家名など、そのようなご立派なものはありません。今までも、そして、これからも。
それでは皆様、ごきげんよう。
異世界転生タグ→皇太子の中の人