第5話 コーヒーとクワイ
ヤカンの煙は透明な朝日の中を立ち上る。魔力を原動力にするコンロを止めて、一杯のコーヒーを淹れた。香りと味で一気に目が覚める。クワイ(発酵させずに寝かした生地を揚げたパン。油条ともいう)をかじり、コーヒーで流し込んだ。
寝間着を軍服に着替えて、官舎を後にする。
ダラット地方一帯を覆うジャングルの中にぽっかりと開いた土地にある中都市『クイユー』は、朝の活気に満ちていた。戦況は決して芳しくないが、悪いわけでもない。100年の平衡そのままに続いている。革命戦線だとか、物々しい名前の軍事政府ではあるが、100年もこの地を治めていればそれなりに平和な顔も持つようになる。
執務室の机には5センチメートルほどにもなる報告書類の山が積まれていた。しかしなんてことはない。演算魔法を使えば10分もたたずに目を通し終わる。
『ダン大佐、連合軍200名を殺傷』
華々しい戦果を官僚的な淡々として文体で報告する文書で一旦演算魔法を解除した。肉眼で書類に目を通すことでその戦果を味わう。
彼女は我々の希望だ。どんな魔法を使っているのか詳しいことは知らないが、翼を使って空を飛び、連合軍に襲い掛かる。
魔法を使える革命戦線兵士としては異例のサブマシンガン使いだが、その強さは他の兵士とは一線を画する。ただ、そのサブマシンガンが連合軍からの鹵獲品というのは、一部の上役が渋い顔をする理由だった。
ノックの音が響いた。どうぞ、とだけ言う。顔は知っているが名前は知らない少尉が入室してきた。
「失礼します! エマール・アンドレ少佐! イシワラ・ヨシロウ少将がおよびです!」
と告げ、中尉は退出した。何の要件かは知らされていないようだ。イシワラ少将はここランソンの最高司令官だ。だが、軍中枢とはいまいちそりが合わないらしく、なかなか首都や副首都で出世の機会をうかがえないでいる。
演算魔法を再開して、私は残っていた書類の山に5分で目を通し、イシワラ少将の執務室へと向かった。世界中の魔術師が逃れてきたこの革命戦線では、ありとあらゆる系統の人名が入り混じっている。しかし、出自によって姓と名の順番が異なるため、軍隊など官僚組織では混乱してしまうことになる。そのため、革命軍ではダラット原住民の伝統に従って、姓が前、名が後という表記に統一している。
ノックをすると、「どうぞ」というイシワラ少将の声が聞こえてきた。入室する。少将は葉巻をふかしながら思案顔をしていた。
「エマール君、調子はどうかね」
「は、演算魔法も上達し、事務仕事にも慣れてきてまいりました」
少佐に昇格して一年が経った。佐官になると修得が義務付けられる演算魔法も、初めのうちこそ使い慣れなかったが、大分上達してきた。演算魔法は先ほどのように書類に目を通す際の補助以外にも、兵員や俸給の管理、作戦立案の際の各種計算に利用できる。
「そうか、君は士官学校では物理系の魔法に特化していた分、演算魔法が弱点だったな。弱点を克服するのは良いものだ。とくに出世を目指すなら演算魔法の巧拙が重要になる。精進するように」
「心得ております」
少将はなかなか本題に入らない。私がいぶかしんでいると、少将は葉巻を灰皿に押し付けて、こう切り出した。
「さて、演算魔法も修得して革命軍中枢を担う人材としての能力を高めているエマール君にはちと酷な話かもしれんが、シェンフー要塞へと行き、指揮を執ってもらうことになった」
「は……」
私は何といえばよいかわからなくなって、つい無言になってしまった。シェンフーはクイユーの都市へといたる交通の要地だ。そして前線の中でも将兵の損耗率が激しいことで知られている。前線に戻ること自体はまんざらでもない。武功をあげられればより一層の出世が見込める。常に戦争状態にさらされている革命軍では、デスクワークのみで出世することは難しい。官僚的な能力を発揮することと同じくらいに、戦争の才能を発揮することも必要だ。ただ、シェンフー要塞はちょっと危険が大きすぎる。
「これも君の能力を見込んでのことだ。確かにシェンフーは危険な場所だが、だからこそ武功をあげる機会も多い。健闘を祈っているよ」
イシワラ少将はそれ以上何も言わなかった。「了解しました。直ちに出立の準備に取り掛かります」とだけ言って、私は少将の執務室を後にした。