始まりは塵芥 (最下層 王間)
「世界平和の為だ!!」
ふう、と。
鮮血に染まったかと見紛うほど赤い唇。そこから漏れた溜息が、壁に掛けられた灯を揺らしていく。
ここは地上より遥か奥底に佇む地下迷宮の最深部。しかし地下とは思えないほど広々とした空間は篝火に照らされ、敷き詰められた真っ赤な絨毯をも更に燃え上がらせている。
伸びた炎の舌が全て舐め尽くす、幻想且つ荘厳な景色。
【 紅蓮の間 】
呼ばれ伝え、畏れられていたのも遥か昔。今や僅かな伝聞に残るのみ。
そんな時代から取り残された王間の中央で。玉座に深々と腰掛ける麗しき存在が再び漏らす。嘲り混じりの溜息を。問い掛けるように。吐き掛けるように。
――眼前で剣先をこちらに向け笑み浮かべ佇む、自称勇者の末裔と名乗る男に対して。
「嘘を申すな、愚か者が」
「ハハッ、嘘じゃないさ。世界の為、お前はここで僕に倒されろ――」
翳された両刃の長身剣。刀身が篝火に煌めき男自身の顔を映し込んだ。見るからに年若く、一見女性かと見紛うほどの甘い表情。その美貌を醜悪に歪めながら。
「古の大災厄。焔の魔女めっ!!」
――ふう、と。三度漏れた溜息。魔女は静かに目を瞑る。
久しく聞いた渾名だった。思わず感傷に浸る程。魔女と呼ばれた迷宮の主は、瞼開け憂い帯びた眼差しをあるものに向けた。そのまま手に取り、陶磁器の如く白い肌をしたその長い指に絡め眺めてしまう。腰まで伸びる焔の舌。燃え盛る炎を連想させるそれ。
この空間を炙る篝火よりも更に濃く紅色に染まった自身の髪を。
「何千、何万の魂を焦がした?忘れた何て言うなよ?」
「忘れはせぬさ、遥か昔とて。汝ら人や亜人との長き戦いは」
今より千年も前。魔族と呼ばれた者、そしてそれ以外の者たちの争い。長きに渡り繰り広げられた大戦争は悲喜交々膨大な伝承歌を世に産み落とした。
だがそれも済んだ話。互いに傷付け傷付き合った争いは、多大な代償を支払った末に仮初めの和平という形で幕を降ろした筈だ。
過去の因果は全て棄却し未来に持ち越さない、永劫に……と。
「貴様とて知らぬ筈もない。我の渾名を知るなら尚更にな」
この契りを破る者は極僅か。とは言え、月日が過ぎ行きたせいか次第に増えつつもある。
偏った思想や宗教に囚われた者。そしてある種の野心を胸に潜ませた者――
「数年…数十年……して数百年前にも来おったな。お主のような恥知らずの輩が」
焔の魔女は口開く。淡々と。髪と同じ色をした瞳に侮蔑を纏いながら。
「極火石。紅蓮弓。冥斬竜斧に死霊の涙。国堕神鏡に永久の酒。まだまだ我が宝物庫には眠っておる。
……で、何が望みだ?人の子よ」
「――何がなんてケチなこと言うなよ。僕が望むものは全てさ」
欲に溺れ歪となった唇は悠然と言い放つ。
「安心して。……差し出せとは言わないからっ」
男が跳んだ。剣を振り被り。真っ直ぐ玉座に向かって。
それはまさに雷光の如く。己を勇者末裔と驕るには十分過ぎる早業だった。
―――瞬く間に詰めた間合いから放たれる必殺の一撃。振り下ろされた刃は神の祝福で眩く輝き、歪めた男の笑みを更に歪め映し出す。
「お前を滅したら全部貰ってや――」
『じゅごぁっ!』
一瞬の火柱。そして上がらぬ断末魔。
天をも舐めた焔が泡沫の如く消え去ると、後に残るは漂う塵のみ。ただそれだけ。
―――それが自称勇者末裔の最後である筈だった。
「ふむ」
漂い舞う塵を眺め魔女は頷く。ゆらりと腰を上げ、地に積もり始めたそれを前にし佇んだ。
既に蒸発した男の剣。かなりの業物と見受けはしたが、それ以上に纏っていた魔力の残り香が気になり己に問い掛ける。
記憶の奥底。千年も前の淡き陽炎。黄昏の時間。
薄れゆく世界の狭間で、確かにその影は存在していた。
「あやつめ。剣の才は溢れても子を育む才は枯渇しておったか……」
しなやかに伸びたる美しい睫毛が伏せられ、捨てた台詞は床に落ちる前に掻き消えていく。だが憂いた表情は長く持たず――むしろ男が浮かべていた表情に近い笑みを模ると。
未だ微かな漂い見せる塵芥。数刻前までは勇者末裔だった筈の下へ静かに歩み寄り、喜々とした声色で呪文の詠唱を始めるのだった―――。