忘郷ノ八百万
――祟ります、あなたを永劫祟ります。
そんな|呪いの言葉(愛の告白)とともに、ぼく――纏迷斗は世界の歯車と化した。
☆ ☆ ☆
「ですからですからぁ、ねえねえ。めいとさぁん。どうしておもち食べないんですかあ? 絶対さっきのおもち屋さん老舗のところですってぇ。きっとほっぺたが落ちるに違いないですよぉ」
朝廷のお偉いさんに呼ばれ京へと向かう道中。ろくに整えられておらず、木造りの出店ひとつ存在しない田舎道を歩いていると、ぼくの周りでふわふわと幽霊のように飛んでいる少女、不二が不満げに声を投げてきた。
不二は不思議な少女で、幽霊のように存在感が皆無なくせに、ぼくとだけは会話をできるし触れ合えるという、なんとも不可解な存在だ。人々から忘れ去られたような森の中で出会った少女で、彼女はその森で暮らしていた化生らしい。彼女曰く、『妖精』という存在らしく、女の子なので自分のことは妖怪や化生などと呼ぶと怒られる。
木の葉を重ねたような衣装を身にまとっただけの少女だった。加えて衣服の型が少女の肢体よりも少しだけ小さいため、各所が大変なことになっていた。下着も何も身に着けていない豊満な胸は危うくこぼれかけており、もはや全く隠されていない背は扇情的にしなった線を見せつけている。短い丈のせいで肉付きの良いふとももがぼくの目を奪うし、ほどよい大きさかつ形のいい臀部が布を張り詰めており、激しい主張をしていた。おおよそ女性の理想形といえる体形と、それよりも一回り小さい衣装のせいで、色気が大変なことになっている。
緑色の長髪が風にあおられたように揺れている。肢体が放つ色気とは裏腹にあどけなさが残る愛らしい顔が、ぼくの横顔をじとりと不満げに見つめている。
ぼくは小さく息を吐くと、うんざりしたように答えた。
「いやだよ、もうすぐ夕餉だ。それまで我慢してよ。ていうかそもそも、お金ないし」
「むぅ、まあ……めいとさんがそう言うなら、良いですけど……」
「全然よさそうには見えないんだけど」
「だって食べたいもん……」
ふわふわ、くるくる。
幽霊のような存在感の少女が、肢体から漂う色気を隠そうともせずぼくの周りを飛び回る。
「おもち……っ」
むむむぅ……と頬を膨らませてぼくの黒髪をいじりだす。
「食べたいなあー、食べたいなあ」
「駄目なものは駄目だよ。それにおもちなんか食べたら太るよ、不二」
「太りませんー! 食べるのはめいとさんなんだから、太るのはめいとさんだけですっ。ていうかそもそも、女の子に太るとか言っちゃ駄目なんですよっ。ぷんぷんっ!」
「ぷんぷんじゃないよ。ていうか女の子って言っても、不二はもう千歳超えてる独り身のばば、あ、ちょごめっ! ごめん! やっ、やめて、痛いから顔面蹴らないで!」
不二が幽霊という特性を生かし、宙に浮いた状態で顔面に蹴りを叩き込んできた。さすがに身の危険を感じたぼくは、咄嗟に腕でガードする。まあ、本気の蹴りじゃないじゃれあいみたいなものだからさして痛くはないのだけれど。
五回くらい蹴って満足したのか、不二はむくれながらも許してくれた。
「まったく。たとえ千年生きてようが、心は初恋の乙女そのまんまなんですからねっ」
「へえー。旅の途中に格好良い人でも見つけたの?」
「……ばか。知らないです」
「え、何で怒ったのっ?」
ぼくの素朴な疑問に、不二が今度こそ拗ねてしまった。どうやら彼女の恋にはあまり触れない方がいいらしい。ぷいと顔を背けた横顔はかわいいけれど、さすがにたった二人きりの旅で相手に嫌われて貝和がなくなったら悲しいし、これ以上はやめておこう。
そう思い適当に相槌を打って話題を切ったのだが……
「めいとさん。何でだんまりなんですか?」
「え、なにが?」
「なにが、じゃないですよ! めいとさんは、ふじの好きな人気にならないんですか?」
「うーん、いや。不二が言いたくないなら別にいいよ。時が来たらまた教えてよ」
「~~~っ! ~~~~~っっ!」
「いたい、痛い痛い痛い! なんでまた蹴るのッ?」
「自分の胸に聞いてください!」
気を使って遠慮したというのに、なぜかまた顔面を蹴られてしまった。
女の子というのは難しい。今までろくに女性とかかわってこなかったけれど、この調子じゃあいつまで経っても家庭を持つことは出来さなそうだな……
がっくりと肩を落としつつ、乱れた襤褸を整えた。
見渡す限りの緑の景色。身を焦がす熱を注いでくる炎陽の光が反射し、きらびやかな色彩を奏でている。
戦乱も終わり平和な時が数十年と続いたことで、世の景色もかつての面影を取り戻したらしい。ぼくはまだ生まれて十数年の若輩者だが、戦乱が極彩色の風景を、平和が彩り溢れた景色を生み出すことくらいは分かる。
「というかめいとさん、めいとさん」
「どうしたの?」
相変わらずじとりと不満そうな目でぼくを見ながら、不二が質問を投げかけてきた。
「めいとさんは、どうしてふじの森にいてたんですか?」
「ええ、またその質問……?」
「またって何ですか、またってー! ふじとめいとさんの、大事な大事な、運命の出会いですよ?」
「いや、でももう何回も話したでしょ……? 適当に歩いてたら、不二がふわふわ浮いてた森に着いちゃったんだよ」
「適当に歩いて、ふじみたいな『忘郷』が誕生する僻地にたどり着くなら、ふじたちはこんな風に苦労してませんっ。それに何であんな場所に来ることになるんですかぁ? ふじは、めいとさんの過去について知りたいのです」
「そんなこと言われてもなあ」
忘郷――忘れ去れたふるさと。人々から忘却された辺境のまた辺境の地。人の寄り付かない未開の地域・土地・大地で発生する自然の化生のことだ。万物には神々が宿るといわれている通り、人から忘れられた大自然には巨大な意思が宿るらしい。
そして不二は、とある森で発生した忘郷だ。
事件に巻き込まれ家族を失い、行く当てもなくふらふらと歩き、その果てに迷い込んだ森の中にいた、天女と見紛う少女。彼女と出会い、共に旅をすることを条件に森で生きる手伝いをしてもらい、こうして今に至っている。
忘郷は皆が皆、孤独な反省を過ごしていたため基本的に寂しがりやである。不二もその麗美は全く漏れず、ぼくに四六時中ついて回る傾向がある。
おそらく、今の質問もそうした寂しさから来たのかもしれない。
初めて出会ったぼくという人間。その出会いの経緯を知りたいのだろう。
とはいえ、これはもう百度くらい話した内容だ。もういい加減聞き飽きていたと思っていたのだけれど……
「はやく♪ はやく♪」
照り輝く天日よりもなおまぶしい笑顔で急かされても、これが全てなんだって本当に。
でもまあ、不二が望むなら話すしかないようなあ……
「えっと、だからね?」
「はいっ」
期待を隠せない表情の不二に、ぼくはげんなりする。何度も同じ説明をするというのはことのほか疲れるものだ。
さてどうしたものか……
ぼくが彼女に出会ったのは、目の前で家族がバラバラにされて、行く当てもなく彷徨った先で迷い込んだ森で偶然……という感じなんだけれど、当然だが彼女には家族が殺されたことを隠している。そのため、不二がぼくの起源というか、根本というか、過去を何度も何度も尋ねてくるのは、話していないぼくの自業自得とも言えるんだけれど、さすがにそれをこんな無垢で純粋な少女には教えたくない。
というわけで……
「運命だよ。理由なんてない。ぼくと不二が出会うのは運命だったんだ。だからきっと、そんなことに疑問を覚えることが間違ってる。神様への冒涜だよ」
「へっ。ほえ? あ、ひゃぅ……あ、……まあ、運命なら、仕方ないですね。うん」
「えっと、不二……?」
「……運命だから……運命……ふふふ……」
ぼくの嘘で不二の中で何かが切り替わったらしく、愉快に脳が跳び始めていた。少し怖いので放っておこう。
「ふふふふふふふふふ……運命。運命……ふふふふ……もう逃がしません……っ」
「なんか怖いよ、不二……」
それから五分ほど、不二は何を呼び掛けても返事をしなかった。
☆ ☆ ☆
草木も寝静まる丑三つ時。木の葉で編んだ即席の布団の上で胡坐をかきながら、ぼくは勅命の記された紙を開けていた。
「……京を荒らす『天津使徒』の討伐、か」
天津使徒とは、『忘郷』と契約を交わしその力の一端を扱うことのできる超人を指す。
自然の猛威を己が身に宿し戦うこのできる存在であり、多くは帝に仕え倭国を守る誉れ高い道を歩むものだが、ごく一部の者はこの力を使い悪事を働く。一騎当千の戦力を持ち、天津使徒にしか対処できぬものだから、京も困り果てているのだ。もっとも、悪事を働くといっても、それは何も使徒当人が悪いわけではないのだが――まあ、それを知っているのはぼくくらいだろう。
ちなみにぼくがこうしてろくに整備もされていない道を永遠歩かされているのも、そこに起因する。もともとぼくは、悪事を働く使徒たちを追う賞金稼ぎみたいなものをいやいやながらしていたのだけれど、その功績が京まで届き、とうとう呼ばれてしまったわけだ。既に京が見える位置にまではやってきているので明日にはたどり着くだろう。まあ、ぼく自身の生活は豊かになるだろうし、ある目的も達成しやすくなるだろうから別にいいんだけど。
ただ、次いで感覚で天津使徒の討伐を依頼するのはやめてほしいな。
「はあ……」
溜息が湿った夜気に溶けていく。
己が巻き込まれてしまった運命に辟易しつつも、しかしどこかでそれを嫌だと思っていない自分がいた。
「まったく」
無自覚に微笑みながら、隣ですやすやと寝息を立てる少女の頭を撫でる。
「まあ、君には救われたから、許したげるよ」
明日は早い。
ぼくもしっかり睡眠を取り、備えよう。
そうして瞼を閉じた直後のことだった。
「よう。そんなところで野宿かい、少年」
「――――っ」
全てを見下し嘲弄するかのような声が夜の道に響いた。
「カハハ……まあ悪くはないと思うがよォ、天皇陛下のお膝元で、こんな貧相なもんを見せられちゃァ粛正するしかねえよなあ」
「だれだ――!」
「クハッ。誰だってつわれても、こんな時代だ。名前もねえし、誰からも覚えられてねえクズ野郎だよ」
振り向いた先。夜道に溶けるように立っていたのは、血に濡れた派手な襤褸をまとった男だった。狂気に歪んだ瞳の光彩、悪鬼の如く劣悪に歪められた口元、獣の牙と見紛うほどに危険な輝きを魅せる犬歯。そしてせせら笑う面貌に刻まれた数々の切創の跡は、目の前の男がまともでないと判断するに十分な証拠たり得た。
くちゃくちゃと行儀悪く何かを咀嚼しながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。服の中から手品のように短刀を取り出すと、それを手の中で弄ぶ。
「んで? どォしてこんな場所で野宿してる? しかも女と一緒と来た。これは何だ? お楽しみ中だったかもしかして。だったら悪いことをしちまったなあ。どうした、続けろよ。見ててやるからよ」
「……ッ」
「おうおう、警戒されてるねえ。まァいいさ。こんなナリだ。ビビられちまうのも当たり前か」
そう言って、男は咀嚼していた何かを吐き出した。
口の中で弄ばれていたせいで原形を留めてはいないが、おそらく元は手のひらで収まる程度の物体だったのだろう。ふやふやになりつつも、全体的なシルエットは飴玉より少し大きい程度の球体だという印象を受ける。
「あ? これか? ああ、さっき都で買った女の卵巣さ。一晩の快楽のために大枚叩いちまったからなあ。晩飯代わりさ。まあ、まずかったけどよ。締りも悪ィし、駄目な女だったな。これが一番高い女なら、京も程度が知れるな。枯れた帝はこれで満足かもしれねェけどよ、俺は満足いかねえわ」
「お前は――ッ」
「外道、悪鬼、畜生、化け物、悪霊、ケガレ……そんな在り来たりな言葉投げてくれるなよ。その手の罵倒は聞き慣れてんだ。そんなもん聞いちまったらテメエ、怒り狂ってテメエの脳漿で味噌汁でも作っちまいそうだ」
痙攣を起こしたかのように引き攣って笑う男に怖気を隠せない。
ケラケラ、カタカタ。
笑いが止まらない。人から外れた化け物の哄笑が、ぼくの耳を犯していく。
「う、む……うるさいですよぉ~。めいとさん、何かあったんですか……?」
「不二……っ」
男の大笑いが耳に響いたのだろう。不二がまぶたをこすり、ゆっくりと起き上がった。長い髪がさらりと流れて、彼女の香しい森の匂いを振りまいた。
そして、そんな少女に注意を向けたその間隙――
「カハッ、よそ見したなァ」
風が舞った。
直後、肩口に強烈な熱が迸った。
激熱焦熱狂熱烈熱絶熱終熱。凝縮した熱を刀の形へ固めてそのまま叩きつけられたが如き熱が、右肩を襲う。
「が……ッ!」
狂乱し思考の纏まらぬままそちらへ視線を向けるが、肉が焼けている様子はなかった。ただし、深く裂かれ、その狭間から赤黒い液体がこぼれ始めていて――
その液体の奥にあるピンク色のぶよぶよしたものを見た瞬間に、脳が全てを理解した。
「ガァああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!? ぎ、ぃ……ガ……ッッ」
斬られた。どう考えても短刀の間合いでないというのに、肩を切られた。
「ヒヒッ、ヒハ。ヒャハハハハハハハッ! 良いじゃねェか良い悲鳴だァ。う~ん良いぜエ。乗ってきた。恐怖で引き攣った悲鳴もいいが、お前みたいな絶叫も悪くねえなあ! 琴奏者としての血が騒ぐってもんだよなあッ! そらそらそらァッ! 良い音色を奏でろやァッ! 短刀で弾いてやるから鳴けコラボケェッ!」
さらに出鱈目に短刀を振るう名もなき男に、ぼくは対応できない。
単純な死の恐怖に加え、叩かれて音を出す人間楽器に変えられることへの悪寒が、羽虫の如く背筋を這い上がり脳を犯す。
「めいとさん!」
聞き慣れた少女の声と共に、ぼくの体が地面に押し付けられた。ごろごろと地面を転がって、短刀の射線から逃れる。
「おうおう、優しい女じゃねえか」
「ぐ……ッ、不二っ!」
「大丈夫ですか? めいとさん、あの人、天津使徒です!」
「な……ッ」
こんなところで自然の猛威を振るう超人に出会ったことへ驚愕すると共に、納得もしていた。
短刀にしては――否、そもそも刀剣という得物において非常識なほど広すぎる間合い。出鱈目に振るった短刀から放たれた斬撃。これほどの所業を、常人が行えるはずもない。
ならば……
「お前が、京を荒らしいたならず者か!」
「ああ? 俺はそんな話題になってんのか? まあよく知らねえけどそうなんじゃねェのか? でも、ヒヒ……お前、女に押し倒されながらそんな凄んでも、クク……クカカハッ、わ、笑えるぜ? なんだ? 道化でも目指すつもりか?」
「黙っていろ……ッ」
「キッヒヒヒヒヒッ! さあさあ、じゃあそろそろ、解体と行くかァ。初めてやった時から、解体と食事だけは止められねえんだわほんっとによォッ!」
哄笑を上げて短刀を振るう男を前に、ぼくは何もできない。
混乱が極まり、立ち向かうことも逃げることもできない。というより、不二が押し倒しているせいで立てない。
だが、そんなぼくを、押し倒していた張本人である不二が起こし、十尺近く一気に後方へ跳んだ。
「う……ッ」
「大丈夫ですかっ?」
「ああ、大丈夫だ!」
またも短刀の射線から逃れる。不二がぼくを地面に降ろす。砂利の地面にしっかりと足をつけ、狂人を睨む。
ぼくはそもそも、こうした手合いを討ち生計を立てる賞金稼ぎだ。冷静に対処すればこちらにも勝機がある。
そう信じ、男を注視する。
その瞬間、雲の切れ目から注いだ月明かりに凶悪な面貌が照らされ――
「は――?」
より克明に、より鮮明に照らされた男の顔を見て、全身が硬直した。
なんだそれは、ありえない。ありえないけれど、しかしこれは――
――――好都合。
歓喜にも似た昏い感情が胸の奥底から湧き上がってきた。
歓喜だと? ――いいや、否。これは換気などでは断じてない。
怒りだ。それも泥のように粘質で悪辣な、汚らしいどす黒い怒り。
「あん? 何だテメエ。いきなり人の顔見やがって。まさかテメエ、俺に掘られてェのか?」
下らぬ戯言を無視し、少年は問う。
「おまえ……ぼくの顔に見覚えはないか?」
「あァ? 何言ってんだテメ――」
最初は鬱陶しそうに瞳を細めていただけだったが、ぼくの顔が月光に照らされ、男の目にくっきりとぼくの顔が映った瞬間――
「ク、クク……」
「――――」
「クク、クカッ。クハハハハッ! アヒャヒャヒャ! ぎゃははハハハハハ! おい、おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいッ! 何だよこれは何ですかァッ!? こんなことあっていいのかよ、ええ? 運命ってのはこういうことを言うのかい! なあおい、あの時プルプル震えてただけのガキがよォ!」
ぼくとは異なり正真正銘の歓喜の叫びをあげる狂人。――否、『忘郷』に、殺意の視線を投げかける。
「どうだ? 俺がバラバラにしてやった家族は、今も元気かァ?」
「ああ。元気に、ぼくの復讐心の燃料になってくれたよ」
全身が冷える。近くで何かを言っている不二の言葉が何一つ頭に入ってこない。当然だろう。だってぼくは今、ようやく殺したくて殺したくて仕方ない因縁の化け物と出会ったんだから。
「ぼくの家族を皆殺しにして食った罪、そして余裕こいてぼくを見逃した愚挙を、今すぐ後悔させてやるッッ!」
「やってみろよォおおおおおおおッ! イヒヒヒヒヒヒヒッッ! 俺もッ、俺もようやく、俺を捨ててくれた貴様ら一族に復讐できるってもんだァッ!」
返事を待つまでもなくぼくは走り出していた。
「めいとさん、めいとさぁん!」
もう不二のことなんか空の果てまで忘却している。思考が白で染まりきり、ただ目の前の仇を抉り潰し削って捌いて殺して殺して滅ぼしてやると、そのことだけでいっぱいになる。殺すだけじゃ飽き足りない。『宿主』の方には申し訳ないけれど、死後も満足いくまで辱めてやる。
黒く燃える粘質な炎を燃料に、ぼくは復讐を完遂するべく無謀にも無手のまま突っ込んだ。
☆ ☆ ☆
忘郷と契約を結び、自然の荒魂を意のままに操る超人を天津使徒と呼称した。
彼らは往々にして帝に忠誠を誓い、誉れ高き武士として朝廷に仕えるものだが、ごく一部そうでない者もいると言った。
その力を悪用して悪事を働き、多くの災厄をまき散らす者もいると。
それは間違いではない。
ただし、真実の全てを語っているわけでもないのだ。
結論から述べよう。
天津使徒でありながら災厄を振りまくならず者たち。彼らは皆、契約に失敗し、忘郷に体を乗っ取られた者たちなのだ。
人から忘れられた大地の化身――千年を生きる彼らの個我が一世紀と生きられぬ人類のそれを上回ることなど自明に理であろう。故に、数世紀にもおよび人に無視され続けてきた者らが、誰も人間に憎悪を抱かないなどありえぬ話。そして人間がそうした忘郷と契約を交わそうとすれば、当然拒まれれ、かつ体を乗っ取られ人間に災厄を振りまき復讐するための媒体として利用されることも想像に難くないだろう。
迷斗が対峙している天津使徒も、そうした存在の一つである。人の肉体を乗っ取った忘郷。
だがしかし……彼――否、彼らの場合は、さらに複雑でどうしようもない因縁で結ばれていた。
☆ ☆ ☆
迷斗を――最後の怨敵を前にして、風刃の化生が個我の中心を昇華させた。
「忘れられし時の彼方へ願いを結べ。八百万の階に坐する別天津神よ、我らが悲哀に喝采をッ!」
憎悪の祈りを天へと捧げ、ここに魔性が舞い落ちた。
「禍津闇臨――――窮奇〝信越〟鎌鼬ッッ!」
瞬間、男を中心に風の刃の結界が形成された。
風切る風の音。鎌鼬という名の怪異化した自然現象が、ここに形を成して具象した。
真実を晒した忘郷が、その胸中にて、己が心象を余すことなく爆発させる。
貴様ら一族に捨て去られてから幾星霜、数えることすら億劫になるほどの時が経った。しかし大地に染みた憎悪は消えぬと知れよ。
人類ども、お前らは足があるからどこでもいける。待てよ捨てるな一緒にいてくれと、願い叫ぼうとも、聞く耳持たず次へ次へ、次、次、次――光のさらに向こうへ前へ前へと迷いもなく、切り捨てたものの重みすら顧みることなく前進する。
ふざけるなよ、許せるか。お前らを育て、慈しみ、守り続けたのは誰だと思ってやがる。自然の猛威から、誰がお前らを守護し続けた? 答えてみろや喉を引き裂き絶叫しろ。
風の壁があったから。不可視の刃が貴様ら一族を守り続けてたんじゃねえのか違うか答えろ塵野郎。俺という名の盾のおかげで、そうやって今も子孫がアホ面下げて生きてんだ。だってのに……
「どォして捨てやがったクソどもがァッッ! 馬鹿にしてんのか。一族郎党皆殺しだ。テメエが末代だ、震えて泣いて絶頂しながら歓喜しろおッ!」
絶叫した瞬間、男の姿をした忘郷を中心に風刃の結界が半径三十尺に渡り展開された。我も忘れ仇へ駆け出していた迷斗は当然その圏内に足を踏み入れていた。
秒を切り刻んだ刹那の間に全身に切創が走った。熱した鋼を押し付けられたが如き灼熱の痛みに脳が白く塗り潰された。肢体至る個所から、まるで互いに網状に相互作用しているが如く、切創から切創へと痛みが伝播していく。留まることのない連鎖反応が如き激痛に、迷斗は絶叫を上げていた。
「クカッ、どうだクソ野郎。痛いか? 苦しいか? 復讐しようと決めた相手に、成すすべなく殺される気分はどうだおらぁッ!」
「外してるくせに、うるさいんだよ……っ!」
数えることも無駄に思えるほどの裂創が刻まれたが、その傷は浅い。激痛は身体を重くしているが、そんなものは憎悪の前に関係ない。
「ハッ、わざとに決まってんだろうがよぉッ! 簡単に死なれちゃァ、俺の腹の虫がおさまらねえだろうがちったァ考えろや」
名の無い男――否、風の忘郷『窮奇』の迷斗への憎悪は遡ること千年前から褪せていない。
彼はかつて、鎌鼬と呼ばれる、風の自然現象そのものであった。現在の東山道や北陸道、畿内を中心に存在した、物を切る風という自我の持たない概念。彼もそのひとつに過ぎなかった。
彼が存在していた地域はとある名もない森だったのだが、その森を抜けた先に小さな村があり、そこでは少ないながらも人々が笑顔で暮らしていた。
森には当然病を持った虫や人を食う獣、畑を荒らすような猪などが存在していたが、森の出口付近で常に吹き続けていた刃の風が存在したことで、村民たちは不自由なく暮らしていた。
だが、ある日――
彼らは唐突に村を後にした。山を下りてしばらく歩いたところにもっと住みやすい場所がある。森が近くにないため田や畑を荒らされる心配はなく、風の刃もないため気軽に遠出できる住みやすい村があり、そこが自分たちを受けれ入れてくれるからと、世話になった土地を捨て、より良い環境へと移住した。
残された『彼』は当然納得がいかなかった。
これまで彼らを守ってきたのに、まるで己まで邪魔だといわれている気分だった。いいや実際そうだった。
自我も個我も何もない『彼』は、叫ぶように風を吹き荒らして抵抗したが、迂回して森を抜けた彼らには届かず、そしてそれから幾百年――忘れ去られた自然の恩恵は個我を持った。自己を憎悪と共に認識する。
己を捨てた奴らの子孫を根絶やしにしてやる。
自然を尊ぶことを忘れた愚かな者らに制裁を。
万物には神が宿る。それを忘れた報いを受けろ。
そうして、森に迷い込んだ一人の男を乗っ取って、彼は行動を開始した。
風の刃はたった一人の少年を残し、かつての村民の子孫たちを皆殺しにし――
「ハッハァ! そうだよその顔。俺と同じく憎悪をまとい、その上で力及ばず復讐を完遂できずに歯を噛む無様な顔を見たかった!」
最後の一人にはとびきりの絶望を味わってもらおう。無力と憎悪をまき散らしながら死ねと、愉悦に震えて絶叫している。
憎悪が快楽に変わる。
かつての悲哀が今は歓喜へ爆発的に変化していく。
切り刻む。ゆっくりと、末端から。
壊してしまわぬよう丁寧に、まるで淑女を扱うが如く優しく削り取っていく。
「……フゥッ! ぅアッ!」
犬歯を剥き出しにしてこちらを睨む表情に愛おしさすら感じる。人外ゆえにわからぬが、片思いをしている者から視線を向けられればこんな気持ちになるのだろうか。
歯の間から漏れ出す赫怒の呼気が、情欲に溺れた女の嬌声のようだ。
刻み削り抉って犯す。
(そろそろ終わりか)
一抹の寂しさとを覚えながら、うなだれる迷斗へと絶死の刃を差し向ける。差し出されているようにも見えるうなじへと、情欲の殺意を叩き付けた。
その、間際――――
☆ ☆ ☆
全身を切り刻まれ、痛みという感覚すら消え始める。
後ろの方から誰かの声が聞こえるが、誰のものだったか。
ああ、憎悪に身をゆだねずに、この声の主と一緒に戦えば、もしかたら違った結果が表れたのかもしれないけれど、今さら論じたところで意味はない。
全ては後の祭り。ぼくは負けて、今から死ぬ。
うなじに冷ややかな気配を感じる。
ああ、ぼくは今から首を斬られるんだと、そう諦めたように納得して。
あまりの悔しさに奥歯が欠けるほど噛みしめた瞬間――
「ねえ、どうして勝手に死のうとしてるんですか?」
ゾクッ……、と。
目の前の怪異の絶叫などとは比較にならぬほどに冷たい声が、ぼくの耳元で囁かれていた。
憎悪や殺意という言葉すら生ぬるい。呪いとも形容すべき悍ましい音色が、耳から頭の中へとするりと滑り込んでくる。
聞き慣れているはずなのに恐怖を感じるその声に、ぼくは反応することができない。ただ、壊れた人形のように首を動かし、ぼくの横顔を覗き込む彼女の瞳を見つめることしかできなかった。
「ねえ。聞いてるんですけど。約束は? ねえ、ねえ、ねえねえねえねえねえ。勝手に死んでふじを一人にするんですか? 未来永劫一緒にいるって言いましたよね。一人にしないって言いましたよね」
そこには、まさしく忘郷として人外の気配を発する不二の美麗な相貌があった。
輝きが灯っていない、瞳孔の開ききった碧眼がぼくを食い入るように見つめていた。
緑の髪が顔にかかり表情を隠しているが、その奥にある面貌が鬼女のそれへと変じていることは想像に難くない。
「約束を違えることは許しませんよ? 逃がさない。ずっとずっと一緒なの、ふじが消えるまでめいとさんはふじのもの。ふじが消えても私のもの。そしてふじはめいとさんのもの。ずっと一緒、死んでも消えても終わっても、もう絶対逃がさない」
そうだ、ぼくらはあの森で約束した。
ずっと一緒だと、もう離れないと。
孤独と孤独。拠り所の無いぼくたちは、たがいに依存しあって生きていこう。何もない者同士、傷をなめあって生きていこうとそう誓った。
「思い出しましたねえぇぇー……。では、さあ――」
それは愛の告白のようであり、あるいは呪詛のような一言だった。
「――祟ります。あなたを永劫祟ります」
それは、ぼくが彼女に初めて囁かれた告白と同じ文言だった。
淫靡に濡れる声色が、ぼくの耳を犯していく。
「忘れてませんよね、約束を」
ああ、忘れるものか。
「ふじとめいとさんの幸せを邪魔する可能性のある奴らは、全員殺しましょう」
そうだ、ぼくらの間に入ってくるなんて許さない。
「あいつらは……忘郷は危険です」
強大な力を持っている存在は危険だ。それだけでぼくらの共依存を引き裂きかねない。
「だから、ねえ。皆殺しにしないと。それまで死なせない。それまで逃がさない。ずっとずっと一緒」
だから叫ぼう、ぼくと君、二人の絆を守るため。
「叫んで。歌って。私を犯して。ともに全部を殺しましょう。世界には、あなとわたしがいればいい」
一切鏖殺、遍く怪異よ消え失せよ。
そうして。
その男は天を見上げ祈った。
「神よ、我に艱難辛苦を乗り越える力を与え給え。全ては自由の光を掴むため」
たった二人の未来を邪魔させはしない。
ぼくとふじ、完結した間に入ってくるなよ雑魚野郎。
小物はお呼びじゃないんだよ。千年も過去に縛られたお前如きに、どうしてぼくらの絆を未来を幸福を、奪われる道理はどこにもない。
「求めし時の彼方へ願いを紡げ。八百万の階に坐する別天津神よ、我らが愛に嫉妬せよ」
ふじの全てがぼくと同調する。彼女の心が想いが気持ちが、ぼくの中へと流れ込む。
ぼくの全てもふじの中へと流れ込み、二人は真実心を通わせた。
「天津光臨――――草野姫〝富士〟樹海」
編み上げた唯一無二の愛の波濤が、ぼくらを中心に吹き荒れた。
それは『森』という形として具象した。顕現する富士の樹海。人を惑わし命を吸った死の森が、爆発するように生み出される。
「なッ――てめッ」
「黙れ。お前邪魔なんだよ。ぼくらの愛を、引き裂くなッ!」
負け惜しみも悲鳴も断末魔も聞く気はなかった。
ただ圧倒的物量で押し潰す。
媒体たる人体を挽肉にしてから、
「さあ、本番だ」
『死んで。ふじたちの間に入ろうとしたこと、黄泉の底でも後悔してね』
「――――」
無数の巨木の根で閉ざされた向こう側、闇の奥の奥で、何かの思念が憎悪と共に撒き散らされたが――
「不二、吸って」
『はい。汚いけど。めいとさんのためなら』
森の精たる不二は、忘郷を吸収し、己が原動力とできる。肉体を失えば漂い次の宿主を探すことになる忘郷だが、彼女はそれを許さない。
殺す殺す、二人の幸せを邪魔する同胞たちを、皆殺しにしたい。
そんな彼女の思いが反映されたような特殊性。
そんな悪魔のような女神に存在を吸われ、断末魔を上げる仇をぼんやりと見ながら、ぼくは不二との出会いを思い出していた。
『わたしは、ひとり。いやだから、一緒にいてください』
「ああ。ぼくも一人は嫌だ……。でも、また奪われたり、したくないし……だったら、一人で、いいよ……」
『そんなこと言わないで』
「でも……」
『だったら……私たち以外、みんな殺せばいいじゃないですか』
……それこそ人外そのものの考え方だったけど、でも、やっぱりその通りだとも思う。
ぼくは不二さえいればいい。そして、ようやく出来た、ぼくの唯一の繋がりを奪われるくらいなら、先に全員殺したほうがマシだろう。
だから――
『終わりました』
「そっか」
これからもぼくは、殺し続ける。
人から忘れ去られた哀れな忘郷たちを。
ただぼくらの幸せを守るためだけに。