不幸な話
拙作、【ただそれだけの話】( http://ncode.syosetu.com/n5825dk/ )とリンクする部分があります。
トランクの中のその人形を見たとき、僕にはその人形がとても美しく見えたのだ。まるで人のような精巧さで、今にも喋りだしそうな。
人形の持ち主である青年はそんな僕を見て、「綺麗でしょう」と口にした。
その時は青年もその人形も、とても美しく見えたのだ。
不幸な話の産物だとも知らずに。
***
予想外の雨に服がぐっしょりと濡れてしまった。支給された制服なのに。軍服の生地は厚いから、乾かすのにも一苦労なのに。ついてないなと思いながら僕はとある飲食店に立ち寄った。雨宿りくらいなら許されるはずだ。北国の雨は洒落にならない。氷のように冷たいのは珍しくない。そのまま雨に打たれ続ければ簡単に風邪を引ける。
濡れてしまった手袋をとった。絞れば水がしたたり落ちる。すっかりと悴んでしまった手は、血の気もなくて死人みたいだ。甲に入った蛇の入れ墨までなんだかやつれて見える。この入れ墨、入れるの痛かったなあ、などとぼんやり考えた。配属先の部署で【必ず入れろ】とお達しがあったのだ。機密情報を扱う部署ならではの措置らしい。入りたての僕にはよくわからない話だけど。
「お一人ですか」
出迎えたウェイターに「一人です」と告げる。ウェイターは僕の手をちらりと見て──「お待ちしておりました」と告げた。不思議な挨拶だ。この店特有のものだろうか? 普通は「いらっしゃいませ」とかそういう言葉をかけるんじゃないだろうか。
店内を見回してみる。座れそうな席は──あった。ひとつだけ。
「ここの席、あいてますか?」
「ああ。どうぞ」
空いてますよ、と帰ってきたのにほっとして僕はそこに腰を下ろした。バーというには少しカジュアルな、けれど酒場というには落ち着いた不思議な店内。時間のせいか混み合ってしまっているから、相席をお願いするしか席に座る方法がなかった。大抵の場合は嫌な顔せずに頷いてくれるのがこの街の良いところだろう。僕が前にいた町なんか、カウンター席の隣に座るのすら嫌な顔をされたから。
それにしたって静かな町だ。こんなに店に人がいるというのに、少し不気味なくらいに静かなのだ。人の話し声もまばらに聞こえるか否か。雨の夜にはちょうど良いかもしれないけれど。
「すみません。ゆっくりしているところに」
「いいえ」
にこりと穏やかに微笑んだその人に、僕は思わず息を飲んでしまった。長く伸ばされた黒髪は美しく、男性というには繊細な横顔。薄暗い照明の光が照らす彼の顔は、まるで人形のように整っている。柔らかなアンバーの瞳がこちらに向けられるのが気恥ずかしかった。こんなに美しい男性が世の中にはいるのか。どこか古めかしくも装飾的な三つ揃えのスーツ、それから大きな黒いトランク。まるで物語に出てくる人形師みたいだった。すべてが絵画的だ。それゆえに現実からは浮いている。
「大きなトランクですね」
「ええ。中に人形が入っておりますので」
何の気なしにそういえば、青年の見た目通りの言葉が返ってきた。人形師。最近は聞くことも少なくなってきた職業だ。少し前に有名になった女性の人形師がいたけれど、最近はその人も話を聞かない。霞のように姿を消してしまったという話だ。
「あまり驚かれないのですね」
感情のこもらない笑みを浮かべたまま、青年は僕にそう言った。
青年の見た目から、僕には青年が人形師であるということに驚きはなかった。
青年は前髪をさらりと揺らし、薄く微笑む。そんな顔に僕はどきどきとしながら──あることに気づく。
それに無意識下で気づいていたからこそ、僕は彼が人形師であることに驚きを抱かなかったのかもしれない。
「あの……間違っていたら申し訳ありません。人形師グレーテルさんの……グレーテル・フォルトゥーナさんのご家族でしょうか?」
よくよく見ればこの青年、あのグレーテル・フォルトゥーナにそっくりなのだ。パペッターとして、エンターテイナーとして一世を風靡したあの天才人形師に。霞のように消えてしまったあの人に。あの人も人形のような大層な美人であったのを僕は思い出している。ふんわりとした長い黒髪、陶器のような白く滑らかな肌。琥珀のようなアンバーの瞳は、いつだって長いまつげに縁取られてきらきらと輝いていた。
そうだ。ステージの上にいた彼女は、人形師でありながらも人形より美しかったのだ。そして、人形めいた美しい顔を精一杯柔らかに動かして、微笑んで、人々へ娯楽を与えた。彼女の細い指先、それをたどれば細い糸。天使の髪のように細い糸が巧みに人形を動かすのを、誰もが魔法みたいに見つめていた。
「ええ」
青年は嬉しそうに薄い唇に弧を描く。表情があまりかわらない人だと思ったが、笑顔にはバリエーションがあるらしい。どこか魂のこもっていないような今までの微笑みとは違った、本当の笑顔の片鱗のようなものを感じた。
「私はずっと、姉さんをおっているんです。あの人は最高のパペッターで、最高に美しい人だったから」
うっとりと懐かしむような顔で青年は語る。無機質な雰囲気さえ感じられた表情に、命が宿った気がした。
「失礼かもしれませんけど……今、グレーテルさんは何を?」
青年が語った【グレーテル】への言葉が過去形だったのに驚いて、僕は質問を重ねる。青年はすぐに無味乾燥とした笑顔を顔に張り付けて「人形師はやめました」と口にした。
「そうですか……」
何かあったのだろうかと思った。何しろ、グレーテル・フォルトゥーナは人気絶頂の最中に夢か幻のように消えたのだから。手にした名声をあっさりと捨てられる人間などそうはいまい。きっと理由があって彼女は人形師をやめたのだろう。あの人の公演がもう見られないというのはひどく残念だ。
僕が頼んでいたミートパイをウェイトレスが運んでくる。温かそうな湯気まで見えるそれに、僕はなかなか手をつけられずにいた。あの綺麗な人形師が人形を操るのをやめてしまったらしいことに、自分でも知らないうちにショックを受けてしまったのかもしれない。
人の身にありて神の御業。
美しく伸びやかに、すべてを魅了しながら糸を手繰り、魂のない人形に魂を吹き込む人形師グレーテルを、僕はひっそり脳裏に描く。
「グレーテルさんが貴方の姉だというなら、貴方はヘンゼルさん……ですよね。お姉さんの操るパペットを、操り人形を作っていたのは貴方だと聞いたことがあります」
「おや。ご存知で」
「いつかのショーでグレーテルさんがそう話していたものですから」
「姉のショーに来て下さったんですか。それはありがたいことです」
「誰もが貴方のお姉さんの魔法にかけられて……ショーを楽しんで。子供のように楽しみました。……僕もその一人で。結局、そのあとはチケットもなかなか手に入らなくて……」
言葉を切った僕にヘンゼルさんがにこりと笑った。
「このような……少々狭い舞台では、」
店のなかをぐるりと見渡し、ヘンゼルさんは台詞を暗唱するようにすらすらと言葉を連ねていく。
「私のパペットを操り動かすのは難しいことでしょう。けれど、言葉を操りあなたにひとときの夢を見せることはできる。姉のファンであるたった一人へ向けた、今宵限りの公演です」
ふふふ、と蠱惑的な笑みが僕の目の前に。
頼んだミートパイのことなど頭から抜け落ちていた。
店の中の空気が少し変わったことも。
真っ黒いトランクの中身が少し動いたことも。
僕はグレーテル・フォルトゥーナに愉快な魔法をかけられたときと同じくらい、ヘンゼル・フォルトゥーナに見入っていた。彼のかける魔法は、彼女の魔法と同一なのだろうか。
「グレーテル・フォルトゥーナ。親愛なる私の姉。この世で唯一にして絶対の彼女……希代の人形師の、数奇な昔話を致しましょう」
芝居がかったその台詞すら、彼には誂えたようだった。
***
──姉は優れた人形使いでした。
ご存じのように人形使いは、自らの魔力を糸として人形を操る技量がなくてはいけません。よく、『似ている』と揶揄される死霊使いが自らの魔力を死体に直接込め、支配して操るのとは違い、人形使いのそれはあくまで自分の魔力で糸を紡ぎ、操作して操るのです。
──その命令式の違いゆえ、死霊使いは傀儡を多く操れる代わりに複雑な動作を行わせることは出来ず、人形使いは操れる傀儡が少ない代わりに複雑な動作を行わせることができる、というわけです。熟練した人形使いにもなると、パペットをまるでもう一人の自分のように扱うことも出来るのですよ。自分の手足のように、耳や目のかわりとして。人形に自分の感覚を移すことも出来るわけです。私も必死に身に付けました。
死霊使いが傀儡を使い捨てにするのと違い、人形使いは傀儡を長く使い込むのも決定的な違いでしょうか。人形使いにとって、操る傀儡は思い入れのあるものの方が操りやすいというのが大きな理由のひとつではありますが。
そうですね……小さい頃、お気に入りの人形が自分と遊んでくれたらと思ったことはありませんか? 寂しいときに自分と一緒にいてくれたら。友人になってくれたなら。人形使いとは、そういう気持ちの末に生まれた【職業】なのだと姉は話していました。それが真実かどうか、今の私にはわかりませんが。
寂しい気持ちを慰め、共に遊び、そうして絆を深める。人形使いはそうあるべきだというのが姉の持論だったのでしょう。だからこそ姉はあれほどまでの人形使いになれた。人々を楽しませ、癒し、人形と寄り添って生きることが出来た。
──姉の一番のお気に入りのパペットを見たことがありますか? ええ、そうです。帽子を被った男の子の人形。あのパペットの名前を知っていますか? ふふ。ご存じの通り、あのパペットの名前は『ヘンゼル』。私と同じ名前なんです。あれは、私が姉のために作ったものなんですが──名前を決めるとき、どうしても私の名前がいいと姉がいったもので。
ショーの最後に、姉は必ずあのパペットを操っていたでしょう? 私はそういう姉を見るのが好きでした。まるで、小さい頃の私と姉がステージで駆け回っているようで……。
【ヘンゼル】と姉のショーを見ると、幼い頃に二人で遊んだりしたことが頭を駆け巡るのです。
悪戯して怒られたときも、雷雨の中雨宿りしたことも、姉が嫌いなキドニーパイを私に食べさせたことも、二人で一緒にパペットの服を作ったことも。全部昨日のことのように思い出せます。ああ、なんて懐かしい!
そうそう。姉が人形たちを動かすとき、いつも「起きて」と声をかけるでしょう? 私はそれを見るたび、いつもくすぐったい気持ちになったものです。
ここだけの話ですが、姉は朝に弱くて。子供の頃からずっと、朝は私が姉を起こしていたんです。
──『おはよう、グレーテル』。
──『もう少し寝かせて、ヘンゼル』。
それが私と姉との毎朝のやり取りでした。
いつもは起こされる立場の姉さんが人形たちには「起きて」と声をかけているのが、私にはとてもくすぐったかったんです。
舞台の上では姉と私の立場は逆でした。姉はしっかりと【ヘンゼル】の手綱を握り、ヘンゼルは姉の手によって愉快に滑稽に遊び回る。小さい頃の私たちとはちょうど逆なんです。
──姉は素晴らしい人形使いでした。今でもそう思っています。むしろ、同じ道に踏みいった今だからこそそう思えるのかもしれません。私には姉のように人形を扱うことはできません。友達のように、寄り添うべき隣人としては扱えないのです。
あの日……姉が姿を消した日、私はいつもと同じように作業場にこもって、人形の製作を続けていました。姉がショーから帰ってくるのをそうやって待つのが日課だったんです。
私が姉のショーを見るのが好きなように、姉も私が人形を作るのを見ているのが好きなようで──姉が作業を見ていることも度々ありました。腕、足、頭、胴体。ばらばらだった一つずつのパーツを組み立て、一体の人形にする。それがどれ程難しいことなのか姉にはわからなかったでしょうけれども、それでも出来上がった人形を見つめる姉の瞳は、私を見つめる瞳は、憧憬と尊敬に満ちていました。ショーを行う姉に私が向けるものと、全く同じ眼だったんです。
その日も私は姉が帰ってくるのを、人形を作りながら待ちました。けれど一晩たっても姉は帰ってこない。不思議には思いましたが、姉も子供ではありませんから。きっと……そうですね、一晩を共に過ごしたい相手がいるのだろうと考えました。今日の夜には帰ってくるだろうと思いながら、私はまた人形を作りました。
けれど、その日も帰ってきませんでした。
連絡もないのはさすがにおかしいと思い、当時姉の所属していた劇団に話を聞きに行きましたが──。
向かった楽屋は空っぽでした。まるで人形の中身のように。
その場には誰一人いなかったんです。
誰も。
誰も。
誰も。
まるで最初からいなかったように。
──あとで聞いた話ですが、姉がその時に所属していた劇団は【劇団ではなかった】そうです。
姉はほぼフリーランスといった状態でしたし、決まった組織に所属することもありませんでした。各地からめぐってくる劇団に『ゲスト』として一時期所属し、劇団がその地を……私たちのすんでいた故郷を離れるころに抜ける。その繰り返しです。
──劇団ではなかった。では、なんだったのか?
私は調べました。姉の消息と共に。
結論から言えばその劇団はいわゆる諜報組織……サーカスやその類いの姿を借りて、他国の情報を集めるスパイの集団だったそうです。姉はそれに気づかなかった。姉だけではない。一般の客も、僕も、誰一人としてそれに気づかなかったんです。
……いいえ。訂正しましょう。それに気づいたものが一人だけいました。体のどこかに蛇の入れ墨をいれた男。
この国の諜報組織の【蛇】です。
──蛇はその劇団の正体が何であるか看破し、当然取り押さえようとしました。しかし、手遅れだった。劇団は夢や幻のように塵ひとつ残すことなく消えたんです。あとに残ったのは何も知らなかった僕の姉さんだけ。哀れなグレーテルだけ。
一時期とはいえその劇団に所属していたのだから、と【彼】は姉さんを捕縛したそうです。何とかして情報を聞き出そうと。手段を選ぶことなく。
……僕が聞き出した話は、とても話せるようなものではありませんでした。可哀想な僕のグレーテル。何の罪もなかったのに。壊れた人形にするよりひどい仕打ち。口を割らせるための拷問の数々。無責任にもほどのある【聞き出し方】。何も知らなかったグレーテルから、何か聞き出せるわけもありません。魔女裁判にも等しい行いに、グレーテルはそのうち動かなくなったそうです。切り刻まれた身体と虚ろな瞳だけを遺して。
僕がその話を聞き出したとき……グレーテルは、グレーテルの身体は、ある一人の医師によって剥製となっていました。その経緯については不明ですが、どうやら【蛇】によって壊された人間を剥製にして楽しむ趣味を持ったものがいたらしいのです。なんて悪趣味な話でしょう。その医師も誰かに殺されて、長いこと彼の屋敷は放っておかれたままでした。僕はそれを幸いと、姉を取り返すことにしたのです。
取り返した姉は、生前と変わらず美しいままでした。埃臭い部屋のなかに数多の劣悪な骸の剥製と共に飾られているのを思い出せます。美しいグレーテルとその他とを並列するなんて、失礼極まりないでしょう? 僕はそこでも腹を立てました。
けれど、あの美しい姉が腐敗したりすることもなく残っていたのだけは評価してやってもいいでしょう。……瞳だけは生前とは似ても似つかぬものになっていましたが。
青い蒼いガラスの瞳。鮮やかな青のグラスアイに僕の顔が映ったのを、僕は一生忘れません。忘れられるわけがないんです。あの美しいアンバーが、僕に笑いかけることは一生なくなってしまった。僕はかけがえのないものを喪い、その脱け殻だけを取り戻したのです。
虚しかった。苦しかった。悲しかった。
どうして憎まずにいられよう。どうして恨まずにいられよう。姉を囮にするかのように消えてしまった【劇団】も、姉を壊した【蛇】も。それに連なる【医師】も。
全てが憎らしかった。だから僕は人形使いになったんです。
姉を喪った寂しさを埋めるために。寄り添ってもらうために。
そうだ。
僕のお気に入りのパペットを、まだ紹介していませんでしたね。
普段はこうして、トランクに入れているんです。少し重いトランクですが、これを背負って歩いているとき……。僕は昔のことを思い出すんです。遊んでいる最中に怪我をして動けなくなってしまった姉を、背負って家まで戻ったことを。
***
話されたことに理解が追い付かぬまま、僕はヘンゼルさんが棺のように大きなトランクの留め金をはずしているのを見つめていた。何かの壮大な冗談だろうか? 笑ってもどこか空虚な印象が残る彼の言葉は、どこまでが本気なのかもわからない。
「──『おはよう、【グレーテル】』」
トランクを開け、ヘンゼルさんが見せてくれたのは──随分と大きな人形だった。成人女性と大して変わらない大きさのその人形は、青く美しいドレスを身に纏い、まるで眠るようにトランクのなかで丸くなっている。ふわふわとどこか癖のある長い黒髪は、僕が以前見た女性のものによく似ている。その女性は、ステージの上で楽しそうに人形と戯れ、人々に笑顔を与えてくれる存在だった。
「──『もう少し寝かせてよ』」
トランクに収まった人形が瞼を開ける。それから唇も動かさずに台詞を口にした。嘘みたいに鮮やかな青のグラスアイが印象的で、僕はぞっとする。
人形がこちらを見た。僕は目を離せずにいる。
「へ、ヘンゼル……さん」
「人形になっても、姉さんは美しいでしょう?」
ある種の陶酔すら感じる笑顔で、人形使いの青年は血の気のない人形の頬を優しく撫でた。おはよう、僕のグレーテル。そんな呟きが耳を抜けていく。
「あなた……ヘンゼルさん、何てことを! お姉さんを人形にしたんですか!」
「動物の革で鞄を作るのと変わらないでしょう」
何をそんなに驚いているのでしょうか、と人形使いの青年は首をかしげる。本当に理解していないといったそのしぐさに、僕は心から戦慄した。ここにいてはいけないとも思った。狂っている。おかしい。変だ。ぞっとする。
弾かれるように席をたった僕の背中に、青年の声がやんわりとかけられる。
「──『おまちしておりました』と申し上げたはずですが?」
そのあとの記憶はない。糸がたちきれるように、糸の切れた人形がそうなるように、僕は無惨に床に転がったのだから。
不幸な話。
僕の一生についてはその一言だけで説明がつく。
──諜報組織になんて配属されなかったら。
──雨が降らなかったら。
──濡れた手袋を外さなければ。
──蛇の入れ墨を見られなかったら。
──彼が人形使いでなかったら。
***
「【グレーテル】。お行儀が悪いね」
子供が癇癪を起こして人形を引きちぎるように、床に転がった青年を引きちぎる【グレーテル】をみて、ヘンゼルはうっすらと笑った。勢いよく引きちぎったせいで飛び散った【モノ】が、手をつけられることもないまま放っておかれたパイにびちゃりと落ちる。これこそキドニーパイだね、などと笑いながら、ヘンゼルは真っ赤に濡れた人形を呼び戻した。
不幸な青年だ。彼に直接の因果があるわけではない。ただ、【蛇】の組織のものだったからこうした。それだけだ。グレーテルの一生のように、ただの不幸な話だ。
「ああほら……手掴みはいけないよ。姉さんってば。キドニーパイ、嫌いだったのにねえ」
お腹でもすいたのかな、などと笑いながら、がつがつとパイを貪る人形を愛しげに見つめる。まるで生者にかぶりつく食屍鬼のようなその光景も、ヘンゼルにとっては慣れっこだ。
「みんなもお疲れ様。酒場ががらんどうじゃあ、物足りないからねえ」
パンパンと二度ほど手を打てば、動いていたウェイター、ウェイトレス、客がくず折れる。糸の切れた人形よろしく、やはり床に転がった。
「姉さんがいなくなったときは何が【フォルトゥーナ】かと思ったけれど」
パイのくずとケチャップのように、【グレーテル】の口許にべちゃりとまとわりついたそれを拭いながら、ヘンゼルは笑った。
「死んでも一緒にいられるんだもの。名実ともに【フォルトゥーナ】に間違いないよね」