弐
佐竹──?
返答のつもりでその単語は僕の口から滑り落ちた。呼ばれた気がしたのだ。だから、今、僕を呼んだのは佐竹なのかと────そんなわけはないのに。
「…………」
風呂上がりでまだしっとりと濡れている首筋に一筋の汗が垂れる。火照っていた筈の身体が急激に冷める。嫌な予感がする。虫の知らせってやつが脳に齧りついてくる。
頭からタオルが落ちるのも構わずに居間に置きっぱなしの携帯電話の元へと走った。着信履歴の二番目(一番目はアルバイト面接の詳細電話だ)を素早く開く。コールを開始する。プルルル……プルルル……プルルル……三回。コールの数だけ早く早く早く出てくれと相手に念じる。プルルル……プルルル……プルルル……六回目に達した。焦れったくて握り潰さんばかりに携帯電話に縋った。プルルル──────ピッ「っ!」
『お掛けになった電話番号は──』
やがて、伝言サービスへと名前も知らない女性の機械的な音が促す。
携帯電話は完璧に役目を果たしきった。確かに伝えてくれた。──佐竹は現在、携帯電話を手に取れる状況にないと。
「…………」
単純に考えるならば、携帯電話を手放し彼は別の作業をしている。遅めの夕飯を食べているのかもしれないし、それこそ僕と同じように風呂に入っているのかもしれない。なんなら肝試し兼不法侵入なんて考え直してとっくに就寝しているかもしれない。どれにしろ、彼は平和な理由で携帯電話から離れている。確率としてはこちらの方が断然高い。けれど。
──明日、朝一で学校に行こう。一番にアイツの無事を確認するんだ。
僕は再び僕の直感を信じることにした。より自分が後悔しない選択を選んだ。
その日、転がった使用歴三年目の布団は初めて手にした日のように薄っぺらかった。
運命の翌日だ。睡眠が足りてないと執拗に文句を訴えてくる脳ミソと目を無理やり活動させて学校へ向かう。通勤ラッシュでない電車の車内はこんなにも快適なのかと新鮮さを味わう。心做しか肺に送る空気すらも普段のものと違うような気がする。たぶんそれは真実だし、大部分は錯覚だ。
結果、ルーティンスケジュールから一時間早送りして動いた僕は決意の通り登校一番乗りを叶えられたらしい。毎朝校門前に立ち、登校する生徒を柔らかな笑顔で迎え入れてくれる教頭先生の姿がないのだから。
先客がいない沈黙の教室。自分の席に座る。チョークの消し残しがうっすら写る黒板を見遣る。
──学校って、不思議だ。例えば教室に独りでいたって必ず誰かの息遣いを感じる。グラウンドでは運動部が部活動に励んでいるし、どこかの教室から吹奏楽部の伸びやかな音色が響く。隣のクラスにはお喋りが好きな女子だったりあるいは男子だったりがたむろするのだろうし、廊下を生徒のみならず教師に用務員が横切っていく。校舎にはいつだって生命の息遣いがある。
けれども、今このとき────校舎は息を潜めていた。
別の場所みたいだ。──学校という胃袋の中にいるみたいだ。
立ち上がる。こんな機会、次はない。呼吸の停まった静寂は僕にそう思わせるには十分だった。このままでは消化されてしまう。だから、動こう。
無人の廊下に一人分の足音が増えた。
──なにもない。
新入生として檜垣高校校舎までの桜並木を歩いた一ヶ月と少し前。それから、移動教室だったり部活動見学だったりを経てとっくに学舎のことは知り尽くしたつもりでいた。とんだ思い上がりだった。
こんな冷たい廊下は知らない。こんなにも話さない校庭は知らない。
友人のことを想う。もしかすると彼は、この胃袋の中を一人きりで歩いたのだろうか、と。それは────とても、こわい。
立ち止まる。下駄箱を覗いて、彼の上靴が無いことを知って、一階と二階を繋ぐ階段の踊場に呆然と立ち尽くす僕は孤独だった。
──ふと、違和感。ぽつんとしたもの。それが、仲間を呼ぶみたいに僕の目を引いた。
「────ビデオ」
片手で支えるタイプの極ありふれたHDビデオカメラだった。個人用にも家庭用にも使える程よいサイズ感で、新品と中古の間くらいの使用感が見て取れた。──それが、ぽつりと。踊場に設置された消火器の裏に、隠されていた。
「…………」
ビデオカメラを拾う。手酷く扱われたのだろう、割れた液晶画面をじっと覗く。見慣れた自分の顔が不気味に僕を覗き返す。
彼の物だ。きっと、そうだ。だから、拾い物として彼に渡さねばならない。このあと何食わぬ顔で登校してくるだろう彼へ──無事に届ける為に拾うのだ。
上靴は、なかったけれど。
学校のどこにも君はいないのだから。ならば、これからやって来るんだ。その為に、僕はこれを拾うのだ。
誰に向けるでもない言い訳を口の中だけで転がして、持ち主不明のHDビデオカメラを慎重に抱える。昨夜、虫が無遠慮に齧った脳の一部がカッと熱をもった気がした。
◆◆◆
ガラリと引戸が引かれる。すっかり喧騒を取り戻した教室内に担任教諭が入室する。それを合図に朝の団欒に花を咲かせていた生徒の何人かがヒラヒラと自分の席に着く。
「そんじゃ、出席取るぞー」
「せんせえ、佐竹はー?」
まるで小学生のような無邪気さでクラスメートの誰かが伺った。それも致し方ないと他人事に思う。
佐竹の存在感は大きい。リーダーシップとはまた違ったカリスマ性を彼は持っていると友人の欲目を抜きにして思う。その佐竹が────いないのだから。
「そのことなんだが──落ち着いて聞いてほしい」
不穏な前置きをして、気だるそうな雰囲気を引き締めて担任教諭の島は教室内を見回した。呑気に先生へと疑問を投げ掛けた生徒を中心にピリリと空気が緊張した。
「さっき佐竹の親御さんから電話がかかってきてな、──佐竹が昨夜から帰ってないそうだ」
ぎゅっと、息が詰まった。
ざわめくクラスメート達の様子が途端にチープな演技めいて見えた。
「なんだよう。佐竹のやつ無断外泊かよー」
「しかもサボりとか不良じゃん」
「まぁそれは……佐竹だし?」
「ハイハイ、騒ぐなー。そういうわけだから、一応この中に佐竹の居場所を知ってるやつがいたら後で先生んとこ来てくれ。じゃ、ホームルーム始めるぞー。委員長、号令」
日常が進む。お決まりの流れに添って、佐竹を除いて今日が始まる。誰もが自分にとって当たり前の一日をなぞり出す。
どうしよう。
暴れる心臓を制服の上から押さえる。
どうしよう。
こんなこと、誰に、相談すればいいの。
「────あ、」
捨てていなかった────捨てられなかった〝名刺〟が指に触れる。
『あなたのお悩み、承ります』
────これを、後に僕等は運命と呼ぶ。