肆
***
「あーらら。ユキちゃん寝ちゃったや」
コテン、と電池の切れた人形を思わせる動きで弛緩した少年を男の腕が受け止める。不知火篝だ。そうして、篝は忠行の頭を大切そうに支えると、己の膝の上へと導いた。
有難みのない膝枕だとからかいを混じえて時政が笑う。指先で子供の前髪を軽く払い、小振りな鼻の先にちょこんと振り落ちた桜の花弁を弾く。
──健やかな寝顔だった。思わずほう、と息をついてしまうような。空気を含んだ柔らかそうな睫毛は繊細に天を向き、少年のふんわりとしたまろやかな頬はどことなく笑みを浮かべているようにも見えて、つられて篝も綻ぶようにして微笑んでいた。
──掴みどころのないコイツにしては珍しい笑い方だ。横目で大人と子供の言葉のないやり取りを眺めていた時政は、そう、ぽつんと心の内で呟いた。
「お前、意外と子供が好きだよな。きおくちゃんの件といい」
「そうでもないよ。ただ、ほら、無垢なものって無条件に守りたくなるものだろう? きおくはその辺り、無垢というよりは無知が正しいんだろうケド」
とある少女──の、形をした異形──に関して語る篝の口調には、身内に向ける純然たる慈愛が滲み出ていた。事実、〝アレ〟は彼にとって誰よりも近しい相棒で、そして姉のような娘のような存在だ。血の繋がりはなくとも彼等は家族なのだ。
相変わらずだな、と篝の感情に触れた時政は、互いに隠した瞳を密やかに伏せる。
不知火篝は一見はとてつもなく扱いにくい人間だ。見た目からして常識というものを打ち砕く個性を放っている。飄々とした奇っ怪な語り口調も、彼なりの処世術なのだと理解している。
その上で──無垢なものを守るべきものと無条件に認識できる篝は、間違いなく善性なのだと時政は思う。
「今日はきおくちゃんは連れてねぇんだな」
「さすがにこのバケモノの前には連れてこられないでしょお。きおく、美人だしい? ここで妖怪大戦争を引き起こすわけにもいかないしね」
「…………幼女には手を出すなよ?」
「出さねぇよッ!! ぼくの職種知ってんでしょーが!」
酒も入り、気安い仲であることも相俟って、すやすや眠る子供の上で大人達が子供のようにはしゃぐ。
なつかしい。まるで学生の頃に戻ったようだ。そう、互いに感じているだろうことを言葉なく噛み締める。
どうしようもなく愚かで、無敵で、無力で、最低に最悪で、最高に楽しくて──この先、永久に取り戻すことのできない青春という作られた時間。
時政にとって『記憶』は痛いものだ。はじまりから痛くて堪らなかった。
母の記憶。追われる記憶。死人のように息を殺す記憶。孤独の記憶。奪われ抗えずに搾取されゆく記憶。喪失。
痛みだけで構成されたそれ等を『青春』に塗り潰したのは。
「マサくん」
手を、取る。だれかを探しているようだったから。時政を求めるみたいに指先を伸ばしてくれたから。眠りの中にあっても、時政を見失わないでいてくれるから。
子供っぽい手だ。時政の手のひらの中に収まってしまう手だ。料理をするのに慣れていて、深爪気味に整えられた手だ。小煩く文句をつけながらも、器用に書類を纏めてしまえる手だ。空いた時間、教科書を片手にシャープペンシルを握る手だ。
なんて──無垢な────
「ユキちゃんは『サナ』じゃないよ」
「────」
ザァ、と紅が舞った。『記憶』から逃れられない愚かな男達を嘲笑っていた。
「マサくん。きみがとっくに判っているだろうことをぼくは繰り返すよ。それがきみのお目付け役であるぼくの役割だ」
そして、突き付ける。
「どうして、この子をここへつれてきた?」
手を、握っていた。焦燥のままに。こうするしかないのだと駄々を捏ねる幼児のように。欲しくて堪らないものを目の前にぶら下げられた獣のように。
本能のままに。
時政がいつかに与えたブレスレットが時政を写す。黒の向こうで土御門時政が見ている。
「この子でなくてはならない理由はないはずだ。そりゃあ、強欲な女を前に最初から贄としてある桜守や半分以上混ざり物のぼくとちがって、きみが一人で〝コレ〟と対峙するというのは危険な行為だ。友としても兄心としても推奨できない。かといって、普段この手のお供に向いている『シオン』では守人の桜守に弾かれかねない。──それなら、ぼくは? ぼくだって良かったはずだ。いつも通りにぼくを都合良く使えば良いんだ。もちろん、ぼくでなくてもかまわない。雅さんでも、志倉でも──きみが声を掛けたなら、応える者は必ずいる。きみの名前にはそれだけの力がある。そうだろう? 土御門時政」
熱に握り返される。母を父を兄を慕う子供らしい手つき。それが、どんなに心地好いか。どんなに──時政を狂おしくさせるか。
果たしてどちらが縋っているのだか────篝からして、この〝子供たち〟の有様はおそろしく危険に見えた。
「それ等の考えに至らないきみではないはずだよ。だってのに──」
時政は忠行というありふれた少年を捕らえていた。
──忠行は時政という特別な人間を囚えていた。
「これはだめだ」
篝の追及はどこまでも厳しかった。
「これはひどいよ。いくらなんでも、この子はひどい。きみの傍にあってはいけない。互いにひどくなる未来しかない」
断定であり断罪だった。手を取り合う二人の在り方の完全否定だった。
篝は悔しくてならなかったのだ。
せめて────せめて、この少年が『シオン』に並ぶ程の〝特別〟であったならよかった。時政が手を差し伸べるだけの理由があればよかった。時政が夢中になるだけの異質を纏っていてほしかった。
しかし、そうではない。そんな都合のいい筋書きは無い。倉橋忠行はただの子供だ。普通と特別は交われない。
そんなものを──よりによってきみが、自分のそばに置くなんてあってはいけない。
「どうしてこの子なんだ」
時政は答えない。
「この子のどこにそこまで狂わされた? きみにしてはおかしなことばかりしてる。いい加減、自覚はあるだろう? こんな──血代わりの呪具まで与えるほどに」
時政は答えない。答えられる筈がない。時政自身、忠行を選んだ理由が何一つだってわかっていないのだから。
ただ、見付けた。だから、捕まえた。稀有なる存在を。これまで時政に与えられなかったものを。──これから先も、時政に理性ある限り得てはいけないものを。
黙して手を繋ぎ続ける平行線の二人に、篝はついには憐憫の眼差しを向ける。
──彼の気持ちは、おそらく理解できる。篝だってまだ人間の範疇だ。この子はかわいいのだ。真からきれいで、守るべきものだ。守られて当然の生き物だ。
こういうものが己のようなものに隣を許してくれるだけで、赦された気持ちになる。この子の意図に関係なく、勝手に心が救われてしまう。存在そのものが現世への楔になる。時政が理解っていてなお手放せずにいるそれは、きっとあやかしが徒人を求め喰らい永久に飢え続ける原理と同じなのだ。
そうわかってしまうからこそ、時政からこの子供を守らなくてはならない────
お目付け役としては、そうしなくちゃ、いけないんだけどねぇ。
「……決して、忠行くんに依存してはいけませんよ。時政様」
従者の声色を持って、篝は役目を投げ打った。
「ヒトはね、楽を知ってしまうとそれを知らなかった頃には心を戻せないんです。ただ喪失の痛みが倍になるだけ。──それは、『サナ』が教えてくれたでしょう?」
かつて時政の心をとことんまで打ちのめした存在がいた。
誰もが彼を愛した。愛されるだけの理由があった。篝だって認めていた。眩しくて光そのもののような人間だった。
──眩しすぎて、誰も彼もが彼を前に盲目に成り果てた。
そしてついには、時政の精神にケロイドじみた致命傷を負わせたのだ。
「真田刻は貴方の〝眼〟に相応しいひとだった。最悪なほど適していた。だけど──この子はちがう」
結局のところ、不知火篝は時政に甘いのだ。友として、兄として、監視役として──できる限り時政の意に沿ってやりたい。
この子供の為にも時政の為にも、傷の浅い今のうちに二人を引き離すのが正しい真心なのかもしれない。心を鬼にすべき場面なのかもしれない。だけども、忠行少年に安息を求めた時政の意志も守ってやりたい。
そうした感情の矛盾は篝の身内に対する甘さの証であり──人間らしい残酷さでもあった。
「どうしたって手放せないなら、ユキちゃんのこと死ぬ気で守りなよ。シオンと違ってこの子には持ち前の護身法なんてものはないんだから。……今は、とりあえずそれでお目溢しってことにしておいてあ・げ・る」
わざとらしく口調に軽薄さをにじませて、監視役からいつもの『かがり』の顔を取り戻して胡散臭く約する篝に、時政は漸く肩の力が抜ける心地になった。
温情だ。これは不知火篝なりの妥協と温情であり、同時に時政への信頼と牽制を表している。だから時政は、少年の手を取ったまましっかと頷いてみせる。
「大体ね、こーいう悪さするならもっとうまくやんないとぉ。この間だって、けっこうシャレにならない怪我だったんでしょお? 上から報告聞いた時、ぼく思わず血の気が引いちゃったんだから。今回は都合良く土御門の息のかかった病院に運んでもらえたようだけど、ぼくならともかくきみたちが一般の救急車を使うなんてのは言語道断なんだからね! ヤバイと思った時点でさっさと〝ドクター〟なりを喚べばよかったんだ」
「コイツが勝手に呼んだんだよ。……別に、あれくらい我慢できた」
「そこそこ縫っておいてよく言う」
バチン! 酔っ払いに負傷の名残のある腕を叩かれ、咄嗟にやり返してやろうと手を上げた時政は──オマケとばかりについてきた子供の手に、結局、大きなため息だけを残して脱力した。その様子にゲラゲラと声を上げて笑うのは勿論篝だ。
「あらやだユキちゃんったら健気ェ~! ンフフ、寝ててもかわいいユキちゃんに免じて、お説教と警告はこの辺りで勘弁しておいてやるかにゃ。……ほーんと、すやすや気持ちよさそーな顔してくれちゃって。ぼくもユキちゃんのための呪具とか仕入れようかしらン」
「余計なお世話だ。ったく、要件が済んだならさっさと帰れ。きおくちゃんにいつまで留守番させる気だ。──ああもう、おまえもさっきから笑いすぎなんだよ、櫻!」
時政の八つ当たりであることが丸わかりの怒声に、慎ましさを捨てた桜が姦しく葉音を散らす。仮にこの大樹が人の姿を得ていたなら、きっと彼女は今頃腹を抱えてそこら中を笑い転げていたに違いない。それくらいに、夜更けを前にした男達と女の宴会は狂乱していた。
「ッアハ、ハー……ああ、笑った笑った。んじゃ、お言葉に甘えまして、マサくんのことはユキちゃんに任せてぼくはお暇しようかな。愛しのきおくにおやすみのチューもしなくちゃだし」
「おー、そうしろそうしろ。うっかり未成年猥褻行為容疑で通報されねーようにな。お前の身元引受けなんて俺は絶対したくねぇかんな。──きおくちゃんによろしく」
散らばっていた紙皿やら空き缶やらを申し訳程度に掻き集め立ち上がる篝へと、時政の空いた片手が振られる。手の甲を相手に向けて、上下にシッシ──まるきり犬を払う仕草そのものだ。こき使ったり邪険にしたり……まったくもって生意気な弟分だと肩を竦めて、けれどもニヒルっぽく口角を上げてしまう篝にふいに時政が振り返る。
人間には扱いきれないあかい〝眼〟が前髪の隙間から直に篝を見つめる────そして。
「かがり、これだけは訂正しておいてやる。──コイツは、お前が思ってるほど〝平凡〟じゃねぇぜ」
今夜にだけ繋がれた道を辿り闇へと消えていく男の背を見送りながら、やがて時政は血の雨を降らし続ける人喰い桜を忠行の静かな呼吸音と共に見上げるのだった。




