弐
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男は歩いていた。ただひとりで。夜散歩とするには不用心で不気味な木々の合間をすり抜けるようにして。どこか調子外れな鼻歌まで添えて、闇を縫う。
──木があればいい。多ければ多いほどいい。より自然に近く。そして月の出ずる夜であること。
条件の幾つかを順当に揃え、男は他に何も持たぬ着の身着のままに〝迎え〟を待つ────。
「──なるほど、貴方でしたか」
「やほー、待ってたよーう。〝桜守サン〟」
しかして、先から現れた穏やかな風貌の男に着のまま気ままな彼はぶらりと手を挙げた。だらしなく伸びきった袖もあって、それは芯の一本も通っていないタコを思わせる動きだった。
待ち合わせも都合も関せず〝喚ばれた〟桜守は、土御門の彼に並んで馴染み深い男へと心底から再会を喜び歓迎の声を上げた。
「お久し振りですね──〝不知火さん〟」
どこまでも底抜けに好意的な桜守に応えるようにして、土御門と明確な繋がりを持つ不審な容貌の男──不知火篝がニンマリ嗤う。
嫌悪。軽蔑。厭忌。悪感情──対峙する篝はそれ等をまるっと煮詰めて煮凝りにしたかのような悪意の塊であるのに、向かい一身に眼差しを受ける桜守は余裕さえ感じさせる佇まいでいる。
────それはそうだ。と、篝は密やかに笑みを深めた。この男共は〝自分の女〟さえ美しく在れるのならば、己の価値や命なぞはまるで勘定に含まないのだから。
まったく、吐き気がする──死にたがりはこれだから手に負えない。
「んはは、相変わらずだねえ、桜守サンは。〝あの女〟の餌になる男なら誰だってなんだってかまわないんでしょ~。アハッ。化物の守護もまたバケモノってーか!」
「はっはっは、これは手厳しいなぁ。不知火さんも相変わらず辛口でいらっしゃる」
「んふ。だってぼく、あんた達がキライだもん。──ま、そんなこたどーでもいいのよ。いかがですかぁ、今年の調子は。満開?」
「ええ、ええ! それはもう、大層喜んでいらっしゃいますとも」
篝の問いに桜守は大きく頷いて、〝彼女〟を思い浮かべては年甲斐もなくうっとりした。目皺の寄った瞳が陶酔そのものと三日月を模す様は、まさしく恋に身を破綻させる愚かな男だ。どうしようもなく桜守は〝男〟なのだった。
曰く──桜守の名を戴く一族は、自身の守護する桜に並々ならぬ情を抱くという。皆、皆、例外なく。一見にして狂気の沙汰。揃いも揃って狂っている。
「不知火さんもこれから彼女の元へ? 本日はお一人ですか?」
「ン、いちおーね。別にぼくひとりだって問題はないでしょン?」
「ええ、勿論。今年はありがたいことにお客様が多くていらっしゃいますから」
ふうわりと幸せそうに頬を綻ばせる桜守に、おや、と篝は髪の奥で眉を跳ね上げた。〝花見〟に既に先客があるとは──自分の他に、季節を外したこの時期に律儀に怪異への慰撫の務めを果たす者といえば。
「──マサくん、来てるの?」
「はい、つい先程に。可愛らしい坊っちゃんも連れて」
肯定で返ってきた言葉に、ふぅん……と篝は何の気なしに呟く。
「坊っちゃんね──今年のお供は『シオン』じゃあないわけだ?」
「……あのお嬢さんは駄目ですよ。櫻さんが嫉妬なさる。無論、この世で最も美しいのは櫻さんに違いありませんが、その櫻さんを一片だって陰らせかねない美貌の女性は〝花見〟に許容できかねます。あのひとに相応しくない。──次はありません」
ここに来て、はじめて桜守の柔らかな作りの相貌に不快感が混ざった。それに賛同するようにざわりと昏い草木がわらう。で、あれば。
──『坊ちゃん』とやらは、あのシオンを差し置いてまで櫻の御眼鏡に叶ったわけか。
土御門の──延いては時政の〝お目付け役〟である不知火篝は好都合とばかりに妖しく瞳を光らせた。
例の彼も来ているのだ。この目で直に、時政が新たに掴んだらしい厄ネタがどれ程のものか確かめるチャンスである、と。
「はいはい、りょーかいよン。シオンはこれから先も花見出禁だって、ちゃんとマサくんに伝えておきますよーっと。──それじゃーね、桜守サン、案内ごくろーさま。帰りは必要ないから……とりあえずあんたがまだ化物の餌食にならないことを祈っておくよ。──来年もぼくたち、会えるといーねェ?」
「うーん、それは私の望むところではないですねぇ」
始終、丁寧に並べ立てられた篝の皮肉の一切に反応することなく、桜守は不気味な穏やかさを保ったまま足音を残して去る。それを貼り付けたニンマリ笑いで見送った篝は、表情を能面にさせて漸く腹から息を吐き出した。
──望むところではない、ね。
「ある意味、自殺願望者の一族ってコトかしら」
◆◆◆
「…………」
────睨み合い、である。もしくはお見合いか。
淡い花の擦り合う姦しさが耳を悪戯に撫でる中、どしりと構える桜の大樹を見上げてなけなしの唾を飲む。
「えーっと……こんばんは……?」
陳腐な挨拶をおそるおそると声にしてみれば、ざわ──返事のように音がいっそう華やいだ。そこには間違いなく意思があった。キュッと胃が縮み上がる。
本当だ。植物としてじゃない──もっと明確な知性があるんだ、この桜には。
「あ、あの……お酒飲めなくて、ごめんなさい。僕、未成年なので……。あっ、でも、お弁当は僕が作ってきたんです! 一応、食べられる仕上がりになってると、自分では思うんですけど……」
さわわ。桜からそれらしいリアクション……と取れるさざめきはあるものの、実際のところは大きな独り言だ。いい歳してなんともママゴトじみていた。言語によるレスポンスが無い事実を噛み締めているうちに、うっかり我に返ってしまい、こんな所で一体僕は何をしているんだろうと苦く笑う。
そうして、一人きりなのに会話の続かない気まずさのようなものを味わっていると、奇妙なものを〝視〟た。
──────布?
桜色の布だった。幹の裏から、ヒラリと。やわらかにはためく。丁度そこに誰かが立っているみたいに。
誰かのスカートか、あるいは上着か、それとも。
立ち上がる。レジャーシートから離れて、どことなく発光しているふうにも見えるそれに目を凝らすようにして近付く。
「──あ、」
既視感。その正体に気付いた。──あれは着物の袖だ。かつて共に夕陽に向かって歩いた彼女のものに比べれば儚いけれど。悪霊の拠り所になっていた彼女ほど華美ではないけれど。
とても、きれいな桜色だった。
「あなたが──サクラ、さん?」
するりと袖口から腕が伸びる。白くて細い腕だ。指の先までしなやかで、筆の強弱だけで輪郭を描いた、雅やかな風の流れを思わせる女性の手だった。
不思議と、恐怖は感じなかった。見るからに異質な光景だというのに。
ただただ美しい。息すら呑んで、見惚れてしまうのだ。彼女のあでやかさに。
「僕のこと、呼んでるの?」
なんの疑問もなく、さらに足を進めて手への距離を詰める。だって、綺麗なものは近くで見たいものだし、許されるなら触れたい。この手にして、包んで、撫でて、整えて、大切に愛でていたい。──そう思うのって、自然の摂理でしょう?
だから、僕はこの手を拒絶できない。
あと少し──シワすらない純白の手のひらについに己の手のひらを重ねようとした、その時。
「おぉや、君も自殺願望者かァい?」
後ろめたい悪戯が見付かってしまった子供のように、容赦なく心臓が跳ねた。同時に、彼女も桜の着物ごと誘いの手を幹の向こうへと引っ込めてしまった。ああ──勿体ない。
外的要因のせいで彼女に触れるチャンスを逃してしまった。そんなちっぽけな逆恨みを込めて、ムッと不満顔を作りながら振り返る。すると、男がいる。
──薄紅色に濁った暗闇に、男が立っていた。
「────」
当然、その男は時政さんではなかった。時政さんじゃないのに──視覚情報から、僕は咄嗟に男を時政さんだと思ってしまった。
…………だって、
ビジュアルがまるっと時政さんなんだもの!!
目を覆い隠すほど無造作に伸びたもじゃもじゃの黒髪に、どう贔屓目に見てもお洒落とは言い難い無精髭。お宅にアイロンは無いのかと伺いたくなるくらいシワシワなパーカーとカーゴパンツ。もはや足の指に引っ掛けてるだけのサンダル。
おそらく十人が十人、だらしないと第一印象に取るだろうあんまりな姿だった。
絶句。清々しいまでの不審っぷりだ。まさかここに来て初対面時の時政さんをも超えるインパンクトを再び食らわされることになろうとは。
思わずじりっ……と半歩身を引くと、男は髪で見えない瞳の代わりなのか、大袈裟に大口を開けて笑った。
「わひゃひゃ! ぼくったら警戒されてるぅー? ダイジョーブダイジョーブ、きみを取って食おうなんて思っちゃいないからさァ。──そこの化け桜とは違ってね」
中傷を露わにしておきながら平然と桜の元まで寄ってきた男が、これまた堂々たる態度で硬直状態にある僕の顔を覗き込む。ヒッと漏れ掛けた悲鳴を懸命に呑み込む。
この人は〝桜〟を知っている。ならば、時政さんいわくの『コチラガワ』の住民だ。それこそ時政さんの知り合いかもしれない。人間かどうかすら真偽不明な今は、下手に男を刺激したくない。
「ウーフフ。こんばんは──『坊ちゃん』?」
「こ、こんばんは……」
変な笑い方の男にどうにか挨拶を返して、片手は携帯電話を仕舞っているポケットの中へと突っ込んでおく。
だってだって、どうしよう、オバケとか関係なく普通に通報案件だったら。本当にただの不審者だったらどうしよう、もしも刃物とか隠し持ってたら……助けて時政さーん! あなたの劣化版ドッペルゲンガーみたいな人にあなたのアルバイト君が絡まれてますよーッ!!
「あらやだ、僕ったら泣きそうになってる? よしよし、おじさんコワくないヨー。そうね、自己紹介から始めようか。ぼくは不知火篝。鬼火のシラヌイに篝火のカガリね。気軽にかがりさん、て呼んでねえ。忠行クン」
「えっ」
思わず逃げ腰をやめて目をひん剥いた。カガリ──その名には覚えがある。度々、時政さんがプライベートフォンで連絡を付ける相手だ。時政さんの秘密の協力者。或いは不憫なパシリ。ちなみにロリコン。
その噂の人に、とうとう出会ってしまった。




