参
「う、わっ────えっ?」
水溜まりが跳ねる。スラックスの裾を汚して、次いで地面に転がった為に上着のブレザーには砂が擦り付けられる。アイタタ……なんてジジ臭く腰を支えながら身を起こす。空を見上げれば、太陽がジリジリと容赦なく肌を焼くのに咄嗟に目を眇める。
ふと、左右を見渡した。レインコートの子供達の姿はどこにもなかった。あれぇ……もう帰っちゃったのかな。まぁ、それが目的だったんだから別に構わないけど。(どうして?)
「よいしょ──あ、れ」
前髪の毛先からぽつんと雫が垂れて手の甲を濡らすのに、どうして僕は濡れてるんだ?と不思議に思った。────こんなにも、空は晴れているのに。
「──……まあ、いっか」
(違和感は違和感となる前に断ち消えて)立ち上がった。大きく伸びをして、それからブランコの側に置いておいたスクールバッグを肩へと戻す。地面には(僕の)傘も転がっていたが、僕の物ではないので(見て見ぬふりをして)公園を出る。
とんだ道草を食ってしまった。早く帰らないと。兄ちゃんが家で僕を待っているのだから。
スーパーに寄るのは明日に回そうと決めて、真っ直ぐ足を進める。五階建てマンションの三階までエレベーターを使って上り、キーケースから鍵を取り出す。難なく玄関を開けば、リビングから帰宅済みの兄が顔を出す────筈、なのだけど。
「と、時政さん?」
そこにいたのは、兄ではなくバイト先の上司兼雇い主である土御門時政だった。あ、あれー!? ここ、時刻探偵事務所じゃないよな、僕の家だよね!? なんでこんなところに時政さんが!?
「どうしたんですか、時政さん。というか、これは流石に不法侵入では、」
「はぁ? お前こそなに言ってんだ、忠行。兄ちゃんに向かって」
「────」
よく見慣れたジャージ姿でふんぞり返る〝兄ちゃん〟に、ああ、それもそうだと納得して頷く。僕ってば、兄をわざわざ『時政さん』だなんて、なんだってそんな妙な呼び方をしたんだろう。
──これまでずっと、一緒に暮らしてきた家族なのに。
「ごめん、兄ちゃん。あと、ただいま。すぐ夕飯にするから、兄ちゃんは座って待っててよ」
「ん、おかえり。手伝おうか?」
「別にいいよ。兄ちゃんだって、仕事で疲れてるでしょ。怪我人は大人しくしてなって」
「? 別に、怪我なんかしてねぇけど」
「え? あれ──だって、僕のせいで、腕を……」
数日前、彼はある事件の解決に尽力する最中に、腕を数針縫う大怪我を負った。それには少なからず僕の責任もあって、だからこそ完治するまで彼の腕の代わりを担おうと、僕は。僕は、……ええと、なんだっけ。
──ともかく、だ。現在の彼は清潔な三角巾で右腕を吊りながら生活せねばならない不便を強いられているはずで────でも、兄ちゃんにそんな事実は無い。だから、なにもおかしくなんてない。
「……なんでもない」
兄をリビングへと追いやり直して、自室にスクールバッグ諸々を下ろすと、カッターシャツの上からエプロンをして台所へと立つ。昨日のうちに仕込んでおいた甘辛ダレしみしみのブロック肉をフライパンへと放り込む。焦げつかない程度に火を通すあいだに、傍らに寄せたボウルへとハムとコースローのサラダを盛り合わせ、主菜に合わせた和風ドレッシングをたっぷりとかける。汁物には菜っ葉の味噌汁。白米が最高の塩梅で炊き上がっているのを確認して、さっくり杓文字で混ぜ合わせてからそのまま保温のスイッチを押す。この調子で簡単に添え物も拵えてしまおうと冷蔵庫を覗いたところで──我が家のチャイムが鳴った。
「? はーい、どちらさま…………後藤さん?」
覗き穴の向こうでしゃんと佇む檜垣高校女子制服のその人は、確かにクラスメイトの後藤さんだった。どうしたのだろう、と慌てて扉を開く。そんな僕の様子に彼女はコテンと小首を傾げると、続けてニッコリ笑ってさも当然とばかりに我が家の敷居を跨いだ。
「こんばんは、タダくん」
「……え?」
「久々にタダくんのご飯が食べたいなーって、つい押し掛けちゃった。どう? タイミングぴったりだったでしょ」
「なに、言って」
「どうしたー? 忠行、誰だった……なんだ、×××か。相変わらず急だなぁ、お前は」
「ご無沙汰してます、時政兄さん。お夕食のご同伴に預かっても?」
「許可する前にもう靴脱いでんじゃねぇか。しょーがねぇなぁ」
後藤さんと時政さんが旧知の距離感──いいやいっそ、家族のような気軽さで言葉を交わす。パッと顔を見合わせ、こぼれ落ちる笑い声と共に勝手知ったる風に寛ぐ様子を見せる。そこには、僕を待つみたいに誰かに対するあたたかな団欒の空白がある。
異様な光景だった。だってこの二人は、初対面の筈なのに。
「ちょ、ちょっと待ってよ、後藤さん」
「なぁに、タダくん。後藤さんだなんて、他人行儀に」
後藤さんのしなやかで細い指が、そうっと僕の頬へと触れた。
時政さんの大きな手のひらが、ぐしゃりと僕の頭を掻き混ぜた。
二つの顔が、ゆらり。僕をのぞく。
「いつも通り××くん、て呼んでよ。タダくん」
「そうだぞ、忠行。兄ちゃんのことを名前で呼ぶわ、コイツのことは名字だわ……今日のお前、おかしいぞ」
(僕を糾すあなたの声のやさしさに、ゾッと悪寒が走った)
おかしい。
そうなのだろうか。僕が、おかしいのだろうか。ぼくが、間違っているのか。──そうか。そうかも。だって時政さんは僕の兄ちゃんだし、後藤さんは僕の幼馴染みなんだから。
大切な、家族じゃないか。
「──そうだね。兄ちゃん、××くん」
どことなく張り詰めていた気が抜けて、間抜けっぽくへんにゃり笑えば目の前の二人も安心したように微笑む。そのまま兄ちゃんはソファへと座り直し、××くんは制服のポケットから総レースのハンカチを取り出すと僕のこめかみの辺りへと当てた。
「ところでタダくん、髪が濡れてるけどどうしたの?」
「あ、そうだ、バタバタしてて拭き忘れてたや。帰りに雨に降られちゃったみたいで……梅雨だから仕方ないけどさ」
「〝梅雨なのに雨が降ったの?〟」
くるん。再び四つの眼が僕を見る────
「梅雨に雨が降るだなんて、おかしな話だね」
「珍しいこともあるもんだな。こんなに晴れてるのに」
ああ、まったくだ、と頷く。
梅雨だっていうのに、雨に降られるだなんて、ツイてない。
「それじゃあ、ご飯は後にして一足先にシャワーでも浴びてくる?」
「ううん、そこまで大したものじゃないから大丈夫。もう出来上がるから、××くんも座って待っててよ。あ、そうだ、どうせ兄ちゃんが書類を散らかしてるだろうから、机の上を片付けておいて」
「よーし、任された。というわけで、時政兄さん。さっさとしまう物はしまう!」
「はいはい。お前はほんと、忠行の味方しかしないよな」
ワイワイ騒ぐ男女の声を背に、僕もまた声に出して笑いながら夕飯の仕上げへと入る。お肉はしっとり柔らかく焼きあがっているし、量も問題なく三人分はある。思えば、独り暮らしの我が家に他人の温度がある食卓なんて珍しいからと、張り切りすぎた気がする。このままではうっかりデザートにまで手を出しかねない勢いだ。それは流石に、うん……佐竹でも呼ばないと処理しきれないかな。
「お、なんだなんだ。×××がいるからって、今日は随分と豪勢じゃねぇの」
「家で誰かと一緒にご飯を食べるなんて久々だから、つい……嬉しくて」
「もーっ、かわいいこと言ってくれるなぁ、タダくんは!」
「うわっ! 急に飛び付くなよ、危ないだろ」
相変わらずスキンシップの激しい××くんを背に引っつけながら食卓へと着く。向かいには時政さん、隣には後藤さんがどことなく悪戯っぽい表情で僕の言葉を待っている。よくよく知るありふれた光景に、いただきますと手を合わせながら、なんて幸せな日常なのだろうと笑って、
「あのさ────二人は本当に、僕の家族なんだよね?」
そして、ソレ等は答えた。
「「よだそう」」




