肆
夜は更ける。
満つ月は高く。遠く。狂気を掬い上げて燦然と輝く。
清か、清か、清かに。人智及ばぬ場所でほがらほがらと明けを抱く。祈りを照らし──呪い叶う。
「──ま、そうはさせねぇけどな」
そして、男は不敵に笑って呪いを否定した。ただひとり異常に身を溶け込ませ立つ彼は、夜を斬り、女を蝕むモノへといざや引導を渡さんと歩先を進める。
「リン・ピョウ・トウ・シャ・カイ・ジン・レツ・ザイ・ゼン」──略式ではなく正式に手印を結び最後の音に「バク」を響かせる。刀印を女へと真横に切り裂くようにして振る。
────それはまるで精巧に作られたフィクションだった。
「五行相剋の理の元、水の気は火の気に克つ。これ即ち水剋火の法なり。火の陰を携わりし丁に克つる壬の気を用いて、業火に盛る怨恨をここに鎮め滅せ。キュウキュウニョリツリョウ」
踊るようだった。詠うようだった。男の背に淡い衣が視えた。瞬間──彼等の間から風が舞った。蜷局巻いて、風は暴力を纏い歪に空間を揺るがした。
──目を、開いていられない。腕を眼前へ庇うようにして持ち上げる。固く閉じて視界を黒に塗り潰す。
土と雨の臭いがした。
「う、わ──」
絶叫────『女』が叫んだ。
耳を劈く断末魔の叫びだ。男のような、子供のような、老婆のような、獣のような、鬼のような、地響きのような──聴く者すらも地獄に道連れにしてしまう恐ろしい声。
「ヒッ──」
目を瞑ったまま耳を塞ぐ。蹲り闇から手招く悪意を振り払う。深く深く呼吸する。──惹かれてたまるものかと、甘美な誘惑を退ける。
やがて、鼓膜を嬲っていた声は掠れるように細まり、ついには途切れた。──〝ソレ〟が息絶えたのだと、解った。辺りに静寂が戻る。
そうろりと耳から手を離し、瞼を開く。開けた視界に真っ先に飛び込んできたのは、月明かりに照らされ浮かび上がる彫刻のような女の姿だった。千代瀬さんだ。
髪は振り乱れ、着物は乱暴されたかのように滅茶苦茶で、だけども彼女に付き纏う禍々しさはすっかり消えていた。死相浮かぶ表情には無垢な安らぎが戻っていた。
──終わったのだろうか。
なにもかもが。悪霊蔓延る狂乱が。残酷に湾曲された願いが。永く根付いていた怨嗟が。──────夜が、明ける。
バクバクと興奮冷めやらない心臓を深呼吸することで落ち着ける。
夢でも見ているみたいだった。あまりに濃厚すぎて──僕の脳ではとても処理し切れやしない。科学では説明できない『異常』────これが〝怪奇〟だ。時政さんの視る世界だ。
「時政さ──」
項垂れたまま微動だにしない千代瀬さんに、果たしてこの状態は人体の在り方として無事と云えるのか──と、様々な『不可思議』を起こした張本人へと向き直り問おうとした時。
「────」
その姿は僕から思考を奪うには十分すぎた。
野性的な眼差し。頬に影を作る長い睫毛。真っ直ぐに高慢ぶって立つ鼻筋。薄く赤を透かせる唇────
鼻にかかる程に無造作に伸ばされていた前髪は風に掻き上げられ、そこに常ならば鎮座する眼鏡の存在もとっくに失せていて──それらに堅く阻まれていた彼の素顔をあられもなく夜明けに晒していた。
黄金比だ。一つ一つのパーツが神経質なほどに整っている。これまで鼻から下しか拝めなかった造形が何倍もの比率美を伴って僕の脳味噌を殴る。万人が万人『美しい』と評価する────信じられないほど完璧な男がそこにいた。
ゾッとする。
土御門時政は恐ろしい『目』を持っていた。神秘の目。宝石の目。妖かしく危しい────あかい血の目。
「ときまささん」
呟く。時政さんは答えない。聞こえていないみたいに、僕を見ない。ただ真っ直ぐに千代瀬さんへ向かって片膝を着くと、赤い視線を左右に大きく流し「オン・アビラウンケン・ソワカ」と三度、次に「オン・バザラド・シャコク」と一度唱えてから軽く指を鳴らす。ふつ、と空気が入れ替わる。換気みたいだと間抜けに思い至る。非日常から日常へ──夜から朝へ。
めちゃくちゃだ。時政さんはもしかして、詐欺師ではなく魔法使いだったのだろうか。ああ、だめだ。思考能力が大破している。
「時政さん」
へたり込んだまま尻を引き摺るようにして近付き、その人の目と同じ赤い袖を掴んだ。
見てほしかった。僕を。いないもののようにしないでほしかった。──あなたの目を、見せてほしい。
「時政さん、逃げないで」
ハッとした風に大きく開いた目と──合う。あかい目が僕を見る。僕を見付ける。あまりにも澄んだ色に本能的に恐怖しそうになって──でも、笑う。だって安心できる。どんな顔をしていても、結局はただの時政さんなんだから。
手を伸ばして彼の頬を両手で包んで、コトンと額が当たるのにクスクス笑う。至近距離から覗いた時政さんの瞳は、この世で見たなによりも美しかった。おそろしいけど──綺麗だ。
「……おまえ、変なやつだな」
「こんなの一生懸命隠してた時政さんの方が変ですよ。せっかく、きれいなのに」
「こわくないのか」
「んー……実はこわいです。でも、まあ、綺麗すぎてコワイってかんじかな」
「んなわけねーだろ、バカ。まだ瘴気にやられてんのか?」
「えー? 結構正気に戻ってると思うんだけどな」
「ちげぇよ。正気じゃなくて瘴気……あーもう、いいや」
額から肩へ時政さんの頭が落ちる。いつもならもじゃもじゃぐしゃぐしゃの前髪クッションが挟まれるところだけど、それはすっかり耳の裏にまで散らばっていて僕の首をくすぐるだけだ。
時政さんを受け止めた反動のまま脱力する。シンと静かな世界に血の匂いと雨の匂いが混じる。
「──本能的に、こわくなるもんなんだよ。普通は」
「そうなんですか?」
「おまえ、もしあの千代瀬に包丁を向けられてたら、どう思う?」
「それはめちゃくちゃ怖いです」
「そーいうこと」
「いや、全然わかんないんですけど」
手慰みにいつものお返しとばかり時政さんの頭を撫でてみた。ちょっとだけ感動して、それからムカついた。だって思いのほか毛質が良いのだ。ふわふわでつやつやなのだ。イケメンは髪の先までイケメンなのか、ああ理不尽だ!
「……わかんないなら、それでいいよ」
「わっ──時政さん?」
もしや髪で遊んだことが癪に触ったのか、時政さんに正面から目一杯締め付けられた。うわぁ、とんでもない反撃だとふざけようとして──やめた。彼の震えが伝わってしまったから。
「──終わったんですね。全部」
「……ん。終わった」
ぽつんと返す彼はなんだか子供のようだった。こんなにも背中は逞しいのに。腕も胸板も筋肉の圧を感じるのに、こうして包んでみれば時政さんは暗闇に怯えて小さくなる子供みたいだ。
──怖かったのかな。
思う。だって時政さんだって人間だ。頭は良いし、記憶力は化け物だし、洞察力だって尋常でなくて、体術にも心得がある。そのうえ実は美形だとかいう隠し要素も更新された。時政さんは凄い人だ。だけど。
めちゃくちゃな悪意をぶつけられて、腕を切る怪我までして、寝不足な中あっちこっち駆け回って暴れる人間を取り押さえて──心身から消耗して当然なのだ。それは、大人だ子供だと線引きする以前の問題だ。人間なんだから──当たり前のことなんだ。
「大丈夫ですよ」
今なら許される気がして、時政さんの背を撫ぜた。絆されてるなあ、と頭の片隅が呟く。いいじゃないかと口だけで笑う。どうせこの人から離れる気は当分ないんだから。
「──ん、まずい」
「え?」
ふと、微睡みかけていた僕の意識を時政さんが引き上げた。その時政さんはとっくに僕の腕から抜け出していて、意識のない千代瀬さんを肩に俵でも持つみたいに抱えていた。とんでもない馬鹿力だ。
「このままじゃ俺もお前もここで寝ちまう。さっさと外に出るぞ」
「あ、はい……」
「貴重品は持ってるな? よし。この階の消火器は──確かこの辺りに──」
「……時政さん?」
女性とはいえ成人の大人一人を抱え、その上で消火器を手に取る時政さんに体力お化けすぎないかとちょっとだけ引く。僕より間違いなく働いている時政さんなのに、精力的にも程がある。
「おら、なにしてんだ。しっかり立て。そろそろ上がるぜ」
上がる──?
時政さんの不可解な予言に小首を傾げた、その瞬間。
「ッ!?」
階段の大広場から突如、火の手が上がった。夜明けに差し掛かったとはいえ未だ暗い廊下の薄闇を裂いて、緋がごうと立ち込める。脈絡のない発火に呆然とする。だというのに時政さんは、悠々と火の元へ近付くと訓練の一環みたいな落ち着きで消火活動へと入るのだ。いやいや、なんだそれ。
「さぁて、次は何処が燃えるかね」
大荷物(千代瀬さん・消火器)と共に階段を下りながらも飄々と辺りを見渡す時政さんに「いやいやいや」と首を振る。事態にまったく頭が追い付かない。どうしてこの人は何食わぬ顔で未来予測してるんだ。
「時政さん、ちょっと僕よくわかってないんですけど」
「あん?」
「時間差で美岬館が燃えるように細工されていた──とか、これってそういうやつですか?」
「ふはっ、サスペンスドラマの観すぎ」
ついさっきまでサスペンスドラマよりもよっぽど非現実なやり取りをしていた男は、そうしてくしゃっと笑うと次にはあかい目を細めて非常口を捉える。ここから一階まで真っ直ぐ──そういった算段が時政さんの優秀な頭の中ではされているのかもしれない。
その横顔をチラリと見上げて、息を詰める。うーん──やっぱりめちゃくちゃ綺麗な顔だ。どうしよう、隣に並ぶとほんのちょっとドギマギしてしまう。
「知ってただけだよ」
「知ってた? ……ここが火事になるって?」
「ああ。山の怪がやらかしそうな事くらいは簡単に予想が付く」
もうすぐ一階だ。所々焦げ臭い場所に遠慮なく消火剤を撒き散らしながら時政さんは進む。迷いはない。彼の背を追う僕も──迷わない。
「山に住む動物や人間が最も恐れるものはなんだと思う? 汚染か? 土砂崩れか? ──いいや、〝火〟だ。山火事ほど簡単に山を殺すものはない。火はあっという間に食いもんも寝床も、そこに住むモノの居場所を奪う。それは『生を持たぬモノ』も例外じゃないんだ。だから山の怪は火を嫌う。──他人に嫌な思いをさせたい時は、自分がされて嫌な事をするだろう?」
時政さんが薄らと嗤うのに、ゾッとした。なんて人間らしいのだろう。やり口が皮肉なほど純粋だった。
語る間に一階の非常口へと着いた。非常口なので当然、錠は開いていて、外にそっと千代瀬さんを下ろし壁へと凭れかけさせた時政さんは、消火器を捨て置くとその手で扉下左右の盛り塩を一摘みずつ取って館の内外へと振り撒いた。そして。
「火の陽を携わりし丙に克つる壬の気を用いて、業火に過つ残恨をここに鎮めよ。キュウキュウニョリツリョウ」
パンッ──朝焼けに響く柏手が終幕の合図。
正真正銘の終わりだ。後始末まで完璧に完了したのだと肌で感じ取る。
外は雨が降っていた。漸く六月が梅雨の季節であることを思い出したように──雨の匂いが悪しき炎を呑んで融かす。
「これで妖関連の小火はもう出ねぇだろ。清海野旅館に急ぐぞ」
「清海野旅館、ですか? こんな時間に? そういえばさっきも僕に清海野に行けって──中、放置しちゃっていいんですか? 他のお客さんとか……スプリンクラーだって反応するかもしれないし」
「スプリンクラーは解除済みだし、客はみんな清海野旅館に移ってもらうよう両家から協力を得ている。抜かりはねぇよ。両家が仲良くて、つくづく助かったぜ」
「…………」
感心とか感嘆とか、そういうものを通り越して最早呆れた心地になった。用意周到にも程がある。──ちゃんと傘まで用意してあるんだもんな!
誤解がないよう千代瀬さんの着物をある程度まで整え、自身は雑に前髪を顔半分に被せ直して千代瀬さんを負ぶる時政さんへと傘を傾ける。しとしとと雨音がビニールの上で踊る。
久々に感じる雨の感触は、炎も血も死臭もすべてを地へと洗い流していくようだった。
◆◆◆
明けたばかりの早朝なため幸いにも誰ともすれ違うことなく進んだ先、清海野旅館の正門は開かれていた。まさに一睡もしていないといった出で立ちの女将さんが僕達を出迎える。時政さんが背負う千代瀬さんの姿を目にして愕然とする。
「あ、あの、美岬館の女将より伺いました。お二方は探偵でいらっしゃると……」
「ええ、実は。まあ、こっちはただの助手ですけど」
「あの、そちらは──その子は──」
「はい。千代瀬さんです。どうやら情報が正しく回っていなかったようで、美岬館から避難しそびれていらしたので」
「……時政さん?」
ごく自然に嘘をついた時政さんに、女将さんと並んで僕まで唖然とする。
そうか──そりゃあ、そうだ。館での狂った一夜を何から何まで正直に話したところで詐欺だと思われるのが関の山だろうし──最悪、頭を疑われる。
だけど。……けれどっ!
「そんな……なんてこと……千代ちゃんは大丈夫なんですか?」
「はい。眠っているだけです。ちょっと記憶が混濁するかもしれませんが、じきに目覚めますよ」
「ああ、良かった……本当に。けれど、どうして……まさか犯人が、この子になにか?」
「いいえ、彼女に危害は加えられていません」
「では、不審者は無事に捕まったのですね」
「──いえ。残念ながら、そちらは取り逃がしました」
信じられなくて、無性に怒りが湧いて──時政さんの殊勝ぶった態度に思わず批難が口を衝いて出そうになった。だって──だって!
これじゃあまるで、僕達が失敗してしまったみたいじゃないか。時政さんが──あんなに頑張ったのに、一番苦労をしたのに、全部が無駄だったみたいじゃないか。そんなのって、ない。
けれど、時政さんこそがそれを許さない。前髪の奥から目が僕に口を出すなと命じている。この人は不名誉を笑って背負おうとしている。
「詳しくは皆さんが起きられてからにしましょう。我々もそろそろ休みたいので……ハハ、実は私達、徹夜なんですよ」
「まっ。申し訳ありません、気が回らず」
時政さんの言外の催促に、縁側に寝かされた千代瀬さんを介抱していた女将さんが足袋を滑らせ駆けて行く。程なくして戻ってきた彼女の手には松竹錠が握られていた。どうやら僕たちの為の部屋も事前に用意されていたらしい。
札の漢数字を確かめて、女将さんに会釈で返した時政さんがそのまま宿泊室を解錠するのについて行く。そして。
室内へ一歩を踏み込んだところで────倒れた。時政さんが。
受け身ひとつ取らず、正面からバッターンと。
「──って、ええええ!? 時政さぁん!?」
「ッア゛ー……くそ、頭打った」
「頭!? そこオデコじゃ!?」
「うるせぇ騒ぐな、周りの客が起きるだろーが!」
「で、ででで、でもっ」
「血が足りてねぇだけだ。ただの貧血だよ」
額を押さえ転がる時政さんの顔色は確かに最悪だ。明るい照明の下で見れば信じられないほど顕著だった。
ああそうだ、あんまりにも何食わぬ顔で動き回るものだから失念していたけれど、腕の出血量だって馬鹿にはならない筈だ。
千代瀬さんを背負っている頃には隠れていた(今思えば意図的に隠していたのだろう。そういうところだぞ、時政さん!)傷口部分へと目をやれば、衣服は思わずウッと声が漏れ出るほど夥しい真紅に染まっていた。どう見ても重傷だ。この状態でなんだって人なんて運べたんだ、このひとは。
「時政さん、まだ寝ちゃダメです! 治療してもらわないと──」
「…………ぐう」
「だからダメですってばー!!」
完全に目を閉じきってしまっている時政さんを半泣きになりながら揺する。このまま化膿なんかすればさらに大惨事だ。僕を庇って負った怪我なのだから、なにがなんでも僕がこの人に治療を受けさせなくては……!
「お寛ぎのところ失礼致します。お部屋に不備などは……」
「女将さん! 血! 点滴! 救急車ーー!!」
「へっ!? は、はいっ!」
かくして。
時政さんを叩き起こす勢いで無理やりに治療を受けさせ病院から戻る頃には、太陽は真上まで昇り切っていた。怪我の具合は案の定、全治云週間というやつで、傷口を縫われ三角巾で腕を吊るされた時政さんは大変不服そうにしていた。ので、当分は彼の腕の代わりをしようと決意する僕なのだった。
宿泊室へ戻り、疲労からすっかり死人同然の僕達とは反対に、美岬館の惨状にバタバタする周囲の喧騒を子守唄にして布団へと転がる。時政さんは野比さんのところの長男もビックリな速さで寝入っている。うわぁ、とその横顔を眺めてみて、いざ知ってしまうと寝顔までとんでもなく綺麗だなと仰天しながら観察したりして──眠気に抗えないまま、いつの間にか僕の意識もストンと落ちていた。
あー………………つかれた。




