参
空気が揺れて、肌に纏わりついて、ざらつく。ねっとりとした砂嵐の中にいるようだ。思わず腕を擦ろうとして、あれ、と思う。
「けいし、さん」
千代瀬さんが怯えた目で僕を見ていた。……僕を見ていた? ──今、喋っているのはだれだ?
「どうしてわからないんだい、千代瀬。罪滅ぼしがしたいと言ったのはきみなのに。──死を望んだのは、だぁれ?」
「ッ黙れ!! クソッ、おいバイト! おまえ、自分だって意識はあるか!?」
千代瀬さんをすっかり赤く染まった右腕で背に庇いながら、僕から距離を取る時政さんに愕然とする。──どうして。どうして、そんな顔をするの。どうして、警戒しているの。僕を。僕なのに。あなたの────僕は、あなたの、なんだろう。
「時政さん」
一歩を踏み出す。不安で仕方なかった。やめて。逃げないでよ。あなたがいないと、僕は不安になるんだ。きみの隣に、いたいのに。
「ときまささん」
「──どっちだ?」
解かれないままの牽制に、かなしくてかなしくてじわりと涙が浮かんだ。
ひどいよ、ひどいじゃないか、僕は──────ぼくなのに。
「さあ、おいで────千代瀬」
「ッしまっ──」
時政さんを押し退け駆け寄ってきた千代瀬さんを受け止める。震えていて、真っ青で、それでも懸命に腕を伸ばしてくる千代瀬さんが可愛くて、愛しくて、健気で、可哀想で、だから僕はいつものように千代ちゃんを抱き締めてしょうがないなって笑って────
「……んっ!?」
青ざめる唇をふさいだ。生者の熱はどこまでもあつく甘美だった。
繋がる口腔。迫り上がってくる、強制的な嘔吐感。胃液ではない。なんだ、これ────!?
「──〝口移し〟か!?」
時政さんが声を荒げて僕の腕を掴み『女』から引き離す。
「──っぷは! げほっ、えほっ、う、おえ……っ」
片腕を捻り上げられた状態のまま床へと膝を着いた。う、う、まだなにか喉に残ってる感じがする。まるで腹からナメクジが這って出てきたかのようだ。ツウ、と生理的な涙が目尻を伝う。
「はあ、は……ッうっ!?」
げほげほと未だ違和感の消えない喉を手で押さえていると、突然、丸めた背へと時政さんが強く平手を打った。まるで手加減がなかった。思わぬ仕打ちに、一体なんのつもりだと面を上げたその時。
それは、まるでスローモーションのように見えた。
唐突に身を翻した千代瀬さんが俊敏な動きで僕へと手を伸ばす。喉へ、首へ、食いつく。爪を皮膚に埋め込んで、華奢な手首からは想像もつかない力を発揮して引き千切ろうとする。僕を──八つ裂きにする。
「────」
悲鳴を上げる間などはなかった。千代瀬さんの手は実のところ、僕に届いてはいなかった。──時政さんが容赦なく足払い、彼女を捻り上げたからだ。合気道だとか、柔道だとか、そういった武芸の一つだと判断した。あまりにも整った型だったのだから。
己の手首を庇いよろめいた千代瀬さんと僕の間に身体を滑り込ませて、彼は人差し指と中指を揃えて立て他の指を握り込む。何故だか時政さんのポーズに「あ、刀印だ」と頭が理解する。立てた指を縦横に「リン・ピョウ・トウ・シャ・カイ・ジン・レツ・ザイ・ゼン」の呪が千代瀬さんを襲う。
「──あ゛ッ、あ、あ……!?」
すっかり前の合わせも帯の形も崩れたまま、千代瀬さんは四つん這いになって後退した。──獣のようだった。ぐう、と唸り涎を垂らし眼光を爛とさせて時政さんを睨み上げている。歯茎が見えるほど、目が充血してしまうほどに人体のあらゆる箇所を開いて僕達を威嚇する。人としての理性をかなぐり捨てる。
美しく優しげな千代瀬さんの姿でそうされるのは──ただただ恐ろしかった。
息を吐く間もなく起きた一連の光景に、僕は座り込んだ状態のまま身じろぐことすらできなかった。
「こ、の──〝九字切り〟、だと!? オマエ、まさか法師か!?」
千代瀬さんの口から怨み言のように這い出た声は、確かに千代瀬さんのものであるのに酷く電波状況が悪い場所で流れるラジオのように聴きづらい。そのくせ、嫌に耳に不快感を残す音なのだ。脳が〝声〟を聴き取ることを拒絶しているみたいだ。
──九字切り。
いつぞやの夏のホラーテイメント番組を思い出す。番組内で悪霊退散のニュアンスとして使われていた呪文は、しかし時政さんが口にすればまったくもって違う印象を受けた。動作などは似ているけれど、視聴者サービスのお遊びなんかとは比べ物にならない迫力を持っていた。
たぶん、そうだ──これが〝ホンモノ〟なんだ。
「ぐ、あ、あ──ッ、オマエ、オマエェェ……神道術でないな……!? 何を混ぜた!?」
「ほう。やっぱわかるもんなのか。ま、俺は我流もいいところだからな」
悶え苦しむ千代瀬さんの姿をなんの感懐もないとばかりに冷たく捉え、乾いた音を立てながら踞る彼女の下へと近付いた時政さんは、そして小さく「ナウマク・サマンダ・バザラダン……」と何事かを唱えると、今度は親指を折り込むような形で組み「オン・キリキリ」
すぐさま五指を別の形に変え、滑らかに呪を引き継ぐ。
「ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク……」
まるで日本語に聞こえない。何が起きているのかわからない。呆然と、ほんの少し先の場所で起こっている『現実』を見ているしかない。
「──捕らえろ」
漸く理解できる単語が時政さんから飛び出たと同時に、千代瀬さんの身体が痙攣した。四つん這いから腕の力を使わずぐうっと上半身を上げて、糸に吊られているみたいな不自然さで天を見る。カクンと頭が傾いたかと思うと、身体の自由意志を見えない縄で縛られてしまったかのように動かなくなる。
ただ、目が────『女』の目と口だけが、激しく時政さんを呪い続けていた。
「不動金縛りか──法師めが、憎らしい、憎らしいィィ……」
「古臭い呼び方してくれるなよ。ただのしがない探偵だぜ、俺は」
なんだこれは。なにがおこっているんだ。
息を呑む。呼吸を停める。捕らえるものと捕らわれたモノを僕は見ている。
千代瀬さんはどうして動けないのだろう。時政さんは一体何をしたんだ。あの呪文はなんだ。なに、なんで、なにが、
────これは現実なのか?
脳が悲鳴を上げている。キャパシティオーバー。痛くて、信じられなくて、吐き気がして、このまま気絶してしまいたいと精神を絞め付ける苦痛に縋る。
一歩だ。
たった一歩踏み込んだ非現実は、僕の許容範囲をあっさりと越えて、常識も何もかもをめちゃくちゃに壊してぐちゃぐちゃに掻き回したのだ。
いやだ。こわい。こわい。こわい。
気持ち悪い。頭が痛い。いやだ。やだ。気持ち悪い。吐きたい。全部吐き出したい。
何を? 吐き出したい。痛い。頭が。あれ? 僕はいまどこにいるんだ?
気持ち悪い。きもちわるい。おなかがきもちわるい。ぐるぐるして。
いたい。あたまがいたい。ぐるぐる。ぐるぐる。ぼくなにしてるんだろう、なにをすればいいんだろう、きもちわるいここはどこだぐちゃぐちゃぐるぐる
「ウッ、えぇ……ッ」
滲む視界のまま涙を拭うこともできずに吐いた。胃液は出なくて、唾液ばかりが溢れて顎から滴り落ちる。お酒なんて飲んだことないのに酷い酔い方をしたみたいだ。
何に酔ったんだろう。空気か? 怪異か? もう自分が起きているのだか夢を見ているのかすらもわからない。
「……あ? おい、どうした」
僕の尋常でない有様に気付いた時政さんが振り返る。僕以上にめちゃくちゃな挙動の千代瀬さんを放って、僕の元へと駆け付けてくれる。心配そうに顔を覗き込んでくる。────目が、見えそうだ。
つらいんです。
なんだかわからないけれど、ひどく苦しいんです。
知らない感情が僕の中で渦巻いて、我が物顔で僕を荒らしているんです。
たすけて。たすけてください。
こわい。さむい。ここはいやだ。出してください。
でも僕が出てはいけないというんです。
たすけてください。たすけてください。
どうしてぼくばかり。
そうだ。むかしからぼくばかりがびんぼうくじをひくんだ。
ひどいよ。ひとりにしないで、ていってるのに。
なんでいないの? なんでぼくはひとりなの? どこにいっちゃったの? どうしてかえってこないの? ひどいよ。ひどいよ。ひとりにしないで。
なんてひどいせかいなんだ。こんなことならいっそのこと。
「しんじゃいたい」
あなたの×い目が──おおきくひらいた。
しんじゃいたい。しんでしまいたい。しにたい。はやくしにたい。いますぐしにたい。しにたい。×にたい。死にたい。死にたい死にたい死──────だれでもいいから、ぼくを殺してくれ。
「──××?」
「チッ──瘴気に酔ったな。気付かなくて悪かった、ちょっと我慢しろよ」
あなたが僕のうでを掴んで引きあげる。えっと、だれだっけ。しってる、はずなんだけど。
「ンッ──」
大きな影が僕の唇を塞ぐ。ふう、と送り込まれる息は熱くて、ゾッとするくらい生々しくて、不愉快だ。僕を生かそうとする伊吹だ。邪魔だ。せっかく、死のうとしたのに。あとすこしだったのに。……………………あれ。
「──んぅッ!?」
ふと気付くと、ぐにゅりと弾力ある何かが容赦なく僕の咥内に潜り込んでいた。な、なに、なにが────なにしてんの、時政さん!?
唾液と共に鉄のようななんとも云えない味が流れ込んでくる。反射的に逃げを打つ僕の舌を追って肉厚が絡む。彷彿と、鼻血をうっかり飲み込んでしまった時のことを思い出す。ちょっと待て、これ──まさか血なのか!? 時政さんの!?
「ちょ、とき……っうむぅッ」
頭を振って唯一の熱から逃れようとするのに、窘めるみたいに後頭部へと彼の手を回されさらに深く接触を繋げられる。ぴちゃ、なんて変な音すらしてきて、舌が痺れて感覚が溶けていく。
──キスだ。これ、キスってやつだ。こわくて目を開けられないけれど、さすがに僕だってわかる。これまでに経験したことなんて一度もないけれど、映画やドラマで見たことくらいはある。ディープキスだ。大人のキスだ。それはわかる──けど、わからない!!
なんだってバイト先の上司と(それも同性と!)僕はディープなキスをするはめになってるんだ!?
「なっ──ぁ、なに、するんですか、時政さん!?」
ようやっと開放されたと同時にしっかと目を見開いて男へと捲し立てた。ついでに己の唇も雑に袖で拭う。出るとこに出ればセクハラとして告訴状を取れそうな蛮行を犯してくれた上司兼雇い主さまは、薄い唇からうっすら流れ出た血を舐め取ると「応急処置だ」とか訳の分からないことをシラッとした態度で言ってのけるのだ。反省も罪悪感もまるでなかった。
お、応急処置ぃ!? 一体何の!?
「人工呼吸みたいなモンだと思え。別にファーストキスってわけでもねーだろ?」
「ふぁ、すッ──も、もちろん、ちがいますけど!?」
「…………まじか。それは、その……ごめんな?」
「ちがう、つってんだろ!!」
思いっきり同情した顔で頭を撫でてくるトンデモ上司の手を叩き落とす。犯人はあなたなのに何だってその本人に同情されなくちゃならないんだ。これ以上からかうつもりなら、本当に出るとこ出てやるからな、このセクハラ探偵!
「そんなに長くは効かねぇから、頭ん中で歌でも歌ってろ。なんだったら目も瞑れ」
「ハァ!?」
憤然と、行動も発言も何もかもが意味不明な時政さんを僕なりに目一杯睨み上げるも、その時政さんは話は済んだとばかりに標的を千代瀬さんへと替えてしまう。まったく、なんて男だ。自己中心的にも程がある──っと、ああいや、それどころじゃないと僕も頭を切り替える。そうだ、バカみたいにじゃれている場合ではないのだ。
今度こそ時政さんが見る先を共に追う。千代瀬さんは依然と理性を捨てた有様で呻いている。奇妙で、ゾッとする光景だ。
けれど。
──あれ? 恐怖だけだ。それだけなのだ。僕が今感じているのは。彼女に対する、未知のモノを目の当たりにするごく当たり前の戸惑い──たったそれだけ。先程のような強烈な絶望感はもう襲っては来なかった。
時政さんが、いるから? それとも……
自然とヒリヒリする唇に触れていた。──その人の血の味を思い出した。
「大丈夫だ」
「っ!」
「何も考えるな。──守る、て言っただろ」
再び額の近くに置かれた掌は、熱くて驚くくらい大きかった。
※この作品はフィクションかつファンタジーです。他人の血液に触れたり、ましてや口に含むなんてのは物凄く危険な行為なので決して真似しないでください。




