弐
──視界が開ける。
途端、酷い頭痛と地に足が着いていないかのような酩酊感に襲われる。これらの症状に名を付けるとするならば立ち眩みが近いだろうか。どうにか吐き気を飲み込んで、立つことを拒否しようとする頭を叱咤し壁に手をつく。
なんだ……? 僕は──どうしてしまったんだ?
「う、あ──ああッ」
まさしく濁流だった。記憶が──感情が僕のなかに無遠慮になだれ込んでくる。
──ぐりん。
捩じ曲がった首。空洞。ノイズのような声。
返る。記憶と恐怖。
還る。悪寒と手が。手が、絡み付いて。
冷気。
恐怖。悪意を呑まされる。喉に貼り着く。気持ち悪い。笑顔が、ほら。
寒い。恐怖。嫌悪。吐き気がするのに。恐怖。恐怖。恐怖。怖い。
恐怖が。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
はいってこないで。
「──ひ、ぁ」
膝から崩れ落ちる。頭の先から補食された。そう思った。だって、感覚が──こんなにも生々しく残ってる。
全身に回る震えは毒のように正常であろうとする心を蝕む。
なんだあれは。なんだったんだ。
こわい。こわいこわいこわい。
いやだ。だれか。こわい。たべられる。こわい。だれか。
たすけて、
「ときまささん」
思わず縋るように名を呟いた。
「──?」
あれ。空気が。
軽くなった、気がした。
──時政さん。時政さん。時政さん。
心の中で唱えるたび、淀んだ水が透き通るみたいに沈澱し這っていた恐怖が取り除かれていく。まるで魔法だ。きっと、時政さんの言葉が、時政さんの存在が、僕にとって安定剤となっているのだ。
一つ、二つ、深呼吸をする。そしてまともに前を向けるようになった頃──異変に気付いた。
ヒビが入っていた。
時政さんから受け取ったブレスレットに、小さな亀裂が。
「────」
ざわりと肌が粟立つ。懐かしい誰かの声が脳内に反響した。
『誰かからの心のこもった贈り物が壊れた時は気を付けなさい。それは危険を伝えているから。貰い主に降り掛かる災いか────送り主に迫る危機か』
「────ッ時政さん!!」
***
男と女、その他に向かい合うものはない無人のフロアに少年の声が響いた。まさか、と男は振り返る。無意識にこぼれかけた安堵の息を耐えて歯を食いしばる。ああ──何故。
「──ッなんでまだここにいる!? 裏から出ろっつったろうが!」
男は懸命に怒りを露わにした。近付けてはならない、あの子供を。この、禍々しい女に!
それは一種の懇願だった。怒りに混ぜて、乞う。だがしかし。
──良くも悪くも彼は真っ直ぐ過ぎたのだ。少年は──倉橋忠行は、本能的取捨選択に秀でていた。
「っ冗談じゃねーですよ!! こっちは〝そういうの〟込みでアンタと一緒にいるって決めてんだ! 自分の身くらい自分で守る、男がいつまでも守られてたまるか!」
「────」
怖くて仕方ないくせに。気を抜けばきっと泣いてしまうのに。目に涙を溜めて、震える足で必死に踏ん張っている。
──ああ、ほんとうに。『彼等』はいつだって時政を堪らない気持ちにさせる。
「っわかった、もういい! 説教は後だ! とにかくそこから……」
牽制なんだか威嚇なんだか、馬鹿みたいに大声を張り上げ合う二人の間に入り込む声があった。細く、確かに声は捕らえた。
「圭司さん」
ふらり。ふらり。朧気に瞳を開かせて。怪しい足取りのまま女は手摺りから離れる。
──千代瀬の意識が戻った?
いいや、そうじゃない。時政は釣られて熱くなっていた頭を意図して冷やした。
彼女が瞳に写している人物は決して故人の圭司などではない。圭司を騙る〝なにか〟でもない。倉橋忠行はただのありふれた少年だ。
ならば────千代瀬は彼になにを見ている?
「千代瀬さん──?」
「ああ……けいしさん……けいしさん、」
縋るように。恐れるように。あるいは逃げるように。ゆるりゆるりと白い指が少年へと伸ばされる。救いを求めている。
「──っしっかりしろ、若女将! それは圭司じゃない、惑わされるな!」
とうとう、時政は女へと触れた。乱暴に手を掴み、視力補助としての機能を持たない眼鏡を床へと落として、けぶる睫毛のその奥と己の瞳を合わせる。
息を、呑む。
彼女の目に浮かんだものは────ただただ純粋な恐怖だった。
「なに、それ、その目──────きもちわるい」
◆◆◆
僕にはわからなかった。なにひとつ、わからなかった。
千代瀬さんが僕を圭司と呼ぶ訳も。千代瀬さんの手を取った時政さんが硬直した理由も。
僕に理解できるのは────千代瀬があんまりにも哀れで、それが僕はただ悲しいということ。
きっと誰も望まなかった。こんなことは望まなかったのに。千代ちゃんだって、本当の本当に大好きな人を憎みたかった訳ではないのに。
全ては善意と愛情であったのに、狂わせた。山が。もしかすると──僕が。
かわいそうな千代瀬。やわらかな祈りを呪いに歪められた女の子。僕は君が、こんなにもだいすきなのに──────
「う、え、ぇ」
思わず両腕で腹を抱える。いやだ、いやだ、千代ちゃん──ちがう! 僕は千代瀬さんの幼馴染みなんかじゃない、こんなのは知らない!
まるで自分がもう一人いる感覚だった。喉に胃液らしき物があがり、えずく。今すぐに胃の中全てを引っくり返して吐き出してしまいたい。
怖い。悲しい。哀しい。愛しい────これは、誰の感情だ?
「うぐっ」
ついには堪えきれず嘔吐しようとした、その時。
──パキッ。
耳元でいやに軽い亀裂音が響いた。瞬間、奇妙にも吐き気と悪寒が跡形もなく消え失せたのだ。
「え──?」
──石だ。反射的に見下ろした先には、先程よりもヒビが深くなったブレスレットがあった。まじまじと眺める。殆ど真っ黒の色合いをしている玉の表面に僕の顔が映る。
──僕を、守ってくれたのか?
割れた部分をそっと撫でてみる。──きっと、そうだ。持ち主と同じくらい、優しい黒色なのだから。
だから、こわくない。
ともすれば震えそうになる足をしっかと踏み締めて、僕はブレスレットの持ち主の元へと一歩を踏み出した。件の時政さんは、千代瀬さんと向き合い淡々と訊ねていた。
「お前の名前は何だ?」
「え?」
「お前の名前だ。答えてみろ」
まるで訊問だ──と、第三者ながらに思う。立ち位置の関係から、僕からは時政さんの背しか見えないけれど、千代瀬さんはひたすらに時政さんを見詰めているようだった。ぼんやりと──いいや、待て。彼女の目はいつの間にかはっきりと困惑していた。
「お前の名は」
「……ちよせ」
「そうだ。千代瀬だ。なら、年齢は」
「え? あの……」
「歳だ。千代瀬、お前は今、何歳だ?」
「……二十歳です」
まさしく誘導尋問。言葉の通り、時政さんは尋問によって彼女を正気に誘導していたのだ。
「それじゃあ次は手から力を抜け。両方だ」
「はい?」
「手のひらをパーにするんだよ。簡単な事だ。できるだろ?」
千代瀬さんに語り掛ける時政さんの声は一際優しかった。だからだろうか。千代瀬さんは怪訝そうにしながらも、差程の抵抗を見せることなく時政さんの指示に従った。
そうなれば、当然────ドスッ。
「ッ!?」
身体の一部が如く大事に握られていた包丁は、重力に従い呆気なく床へと落ちた。
「な、ん──!?」
「ン、順調だな。アンタも色々と聞きたいことがあるだろうが、今は我慢して俺の質問に答えてくれ。まずはアンタに自覚してもらわないと話にならねぇんだ」
「へ? あの、土御門さん……ですよね? これは一体?」
現状を掴めずにいる千代瀬さんは実に気の毒な様子だったが、此方もまた切羽詰まった状況にある。動揺する千代瀬さんにフォローを入れる間なく時政さんは続ける。
「出来うる限り、自分の中で整理してくれ」
「あの、お客様? 恐れ入りますが、説明を……」
「二ヶ月と少し前からアンタは夢を見始めたな。故人・海野圭司の夢を」
「────」
目を見開いたまま千代瀬さんは絶句した。好機とばかりに時政さんが畳み掛ける。
「それはいつからだ?」
「な、なにを仰ってるんです……?」
「これはただの確認作業だ。答えてくれ」
千代瀬さんの瞳が不安げに揺らめく。しかしそれは、あくまでも理性的なものだ。包丁を時政さんへ差し向けた時の狂気も、圭司さんの名前を繰り返し呼ぶ不安定さも、今の彼女からは感じられなかった。
「た、確かに変な夢、見始めましたけど……いつからなんて、そんなの、覚えてませんよ」
「──四月の新月から始まったんじゃないか?」
「新月? ん……そう、言われれば、そうかな……」
「海野圭司の七回忌の後だっただろう?」
ぎょっと千代瀬さんが目を剥く。薄明かりに白く光っていた肌が青に染まる。
──七回忌。没年を含む七年。故人の死してからの年数。それが示すのは。
「──圭司さんの命日が、あった?」
「三月にな」
僕の思わずとこぼれ出た呟きに千代瀬さんの顔が痛ましく歪んだ。自罰的責め苦を堪える彼女の表情は、まるで小さな子供が涙を堪えているかのようだった。
「──怒ってる。怒ってるんです、圭司さん。私たちのこと、恨んでる。だから、ああして、」
「いや、違う。それは圭司の感情じゃない。圭司は七年前に死んだんだ。美岬館を恨んでいるのは────あなただ」
「…………」
千代瀬さんは否定しなかった。きっと、本当は彼女だってわかっていた。
「七回忌なら法要に呼ばれるのは親族や遺族くらいのもの。ましてやアンタは、事情はどうあれ圭司を事故に巻き込んだ加害者側だ。……供養、呼ばれなかったんじゃねぇか? そりゃあ、悔しかっただろうな。曲がりなりにもあんたは圭司を愛していたし──家族のように思っていた」
「……はい」
「そしてついには行き場のない怨みのぶつけ先を見付けてしまった。こんな家のせいで──ってな」
力なく俯く千代瀬さんの頬を冷たい雫が流れていく。場違いにも濡れた筋が月明かりに照らされて綺麗だと思った。
「苦しかったな。よりにもよって、自分のせいで大切な人を死なせちまったんだ。悔しいよな。許せないな。自分も、周りも、なにもかもが憎くなっちまうよな。──けれど、自分を想ってくれての行動だってこともわかってるから、愚直に怒りをぶつけるわけにもいかない。どこにこの感情を持っていけばいいかわからない……そうして、自分の中に溜め込んでいくしかないんだ」
時政さんの理解と肯定はゆるやかに千代瀬さんを諭すようで、それでいて別の場所への懺悔のようにも聞こえた。
もしかして、時政さんも昔に大切な人を亡くしているのだろうか──?
じくじくと胸に熱いものが込み上げてくる。──彼の云う〝後悔〟を、僕も知っている気がする。
「──そんなつもり、なかったの。わたしは、わたし──圭司さん、嫌なものがいっぱい見えて、苦しんでいたから。もう見たくないって、そう言ったから──神様ならなんとかしてくれるんじゃないか、て。圭司さんは駄目だって言ったのに、入っちゃいけないって、圭司さんも大人も何度も言っていたのに──私が無理やりあの人の手を取った。こんなっ──こんなことに、なるなんて──これが、罰だっていうなら──」
「──私を殺せばよかったのに」
千代瀬さんのどことなく幼い吐露に時政さんの声が重なった。
「そう、思うよな。──そこに付け込まれたんだ」
「……付け込まれた?」
「七回忌の一件によって無意識に不満が再燃したアンタのその陰の気は、ヤツらにとってめちゃくちゃ都合の良いものだったんだよ。女性は元々『陰』つうマイナスのエネルギーを持っている。受け入れる器になりやすいんだ。ま、この辺りは専門の話になってくるので割愛するが──要は元から持ち合わせている陰の気と恨み辛みの負の感情。死んでもいいという生と自己の放棄。そんでもって贄に使われた圭司との深い関わり──と、媒介とするにはアンタは好条件すぎた。アンタが夢に見た圭司は圭司じゃない。圭司の姿見を取った神奉山に巣食う悪霊だ。それが、あー……まあ、ここ数ヶ月とアンタを通じて悪さしてたって訳だ」
言葉を失う千代瀬さんに思わず苦笑してしまう。だって、かつての僕を見るようなんだもの。
僕には彼女の気持ちが痛いほどわかった。時政さんの〝専門の話〟は、とても常識的に信じられるものじゃあない。
「そんな……どうして? だって、あのお山には神様が、」
「あの山に神はいねぇよ。いや、いるのかも知れないがもう神と呼べる代物じゃない。信仰を失った神に土地を護る力はない」
──憐れだと思った。
地を、人を護りたくともその対象から忘れ去られた神は神通力をうしなう。人間は時として己で己の守護を殺すのだ。──哀れで、愚かな生き物だ。
「なにより死ん……悪い。犠牲になったのが圭司だって事がまずかったんだろうな。圭司は特別で──特殊な子供だった。そりゃあ──そういうモノからすれば随分なご馳走に見えたことだろう。俺らだって良い肥料を使った肉や野菜、食いてえだろ?」
時政さんの例えにウッと顔を顰める。分かりやすいところがなお残酷だ。可哀想に、千代瀬はすっかり蒼白だった。
「惑わされるな。呑まれるな。アンタはまだ完全に侵食されたわけじゃない。かなり危なかったが、今ならギリギリ自分で払える段階にある。自分を見失うな」
千代瀬さんと真っ直ぐ目を合わせ、よく聞かせるように説く時政さんに嫌だなあ、と思う。
なんでだろう。なんだかすごく胸がざわざわする。治まった筈の吐き気が喉元まで這い上がってくる。気持ち悪い。鬱陶しい。ああ……
────この男、邪魔だな。
「でも──でも、あれは確かに圭司さんだった……私が彼を間違うはずがない!」
「じゃあ、アンタの知る圭司は夢に出てまでアンタを苦しめるような奴だったのか? 自分を好いてる女に復讐しろなんて云うのかよ!」
「なんで、それを」
「────あーあ。千代瀬はひどいなあ。また僕を裏切るの?」
それは場違いなほど涼やかな声だった。男のものではない。女のものでもない。もう一人の第三者。傍観者。そして────当事者だ。
「お、前────」
***
おかしいとは思っていた。
いくら千代瀬本人の自我を取り戻したとはいえ、あまりにもはっきりしすぎている。彼女のなかに潜む〝ソレ〟からまるで抵抗を感じないのだ。上手くいきすぎている。
彼女を手に入れることを諦めた? ──そんな筈はない。成就を目前にして、この程度の障害で三ヶ月の積み重ねを白紙に戻せるほど人間の執念は甘くない。
──この違和感はなんだ。
時政は焦っていた。間違えている。なにかを掛け違えている。それが分かるのに──わからない。
俺は、なにを、見逃している?
「あーあ。千代瀬はひどいなあ。また僕を裏切るの?」
悪霊の蔓延る夜は、まだ明けない。




