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時刻探偵事務所へようこそ!  作者: 椎名
神のいない山
29/46

 

 ***




 夢を見る。あなたの夢を。


 私は崖の上に立っている。空を仰ぐ。夜なのに明るい空だ。周囲に街頭はないから、星月が攻撃的なほど輝いて見えた。それに違和感を覚えて、足元に目を落とす。覗き込む────その先を。

 空とは反対に光を通さない奈落へと目を凝らした。深く深く抉れた地面に、あなたが────崖から落ちた血塗れの男が死んでいるのを、見た。


 夢だ。


 幾分か成長している姿は、けれど見間違えるはずもない()()()で。男は、ぱっくり割れた頭と空洞のような瞳とひしゃげた口から絶え間なく命を流しながらそうっと囁く。



 ──千代瀬。ごらんよ、千代瀬。



 夢だ。これは夢だ。わかっている。だって────私があなたを()()()日は、皮肉なくらい晴れやかな青空でしたから。

 けれど、死体は確かに〝あなた〟だった。それがわかるから──伸ばしてしまいそうな手を懸命に拳にして私は駆けた。山を下りなくては。────逃げなくちゃ!!



 ──また逃げるの? 僕を見殺しにするんだね。



 走っても走っても声は耳元まで追い付いてきた。いっそ睦言のように彼は吐息に毒を混ぜて私を責めた。

 耳を塞いだってあなたの声は────私を脅かし、心地好くさせた。



 ──千代瀬はひどいねえ。僕を犠牲にしておきながらのうのうと生きて。恥ずかしいとは思わないのかい? 僕に申し訳ないと思わないの?



 ごめんなさい。ごめんなさい。



 ──ほら、振り返ってよ。手を取って。それだけでいいんだ。千代瀬、おおい、千代瀬。僕が恋しいだろう? 愛おしいのだろう?



 ごめんなさい、あなた、どうか、もう────



 暗転──また、目覚めを繰り返す。夢を見るたび、どこかで悪夢を──あなたを待つ自分がいることを知るのが怖かった。

 悪夢は私にとって、あなたとの死の逢瀬となっていた。



 ──苦しいよ。苦しい。助けて、千代瀬。


 ──誰の所為でこうなったと思うんだい? さあ、ここから出しておくれよ。


 ──千代瀬。本当はわかっているんだろう? 聞こえているだろう? これはすべて────()()()()




「千代瀬」




 私は絶叫した。

 頭が痛いのだ。身体が重くて堪らないのだ。息が出来ない。誰か助けて。もう、許してほしい。ごめんなさい、ごめんなさい────




「たすけて、圭司さん」




 プツリと切れた意識の先。大好きなあの人が泣いている気がした。









 ──千代ちゃん、おもしろい話をしてあげようか。あのね、クローバーの花言葉にはね──────




 ***




 痛む右腕も儘に男は照明のない階段を駆け上がった。彼の脳裏を散らついて止まないのは、先程まで側にいた少年の泣き出しそうな顔だ。無垢で、どうにも堪らない気持ちにさせる──そんな顔だ。

 ああ、もう誤魔化せない。時政は認めた。────似ている。

 似ているのだ、あの子供は。かつての人に。過去の人に。時政に日常と当たり前と愛情を与え、奪った人に。

 姿かたちではない。ただ、ふとした表情が──言葉の選び方が、心の感じ方が似ている。優しさが、その表し方が似ている。それに気付いてしまったなら────もう、だめだ。

 無論、初めからそうして彼に声を掛けたわけではない。初対面時に述べ連ねた理由は嘘じゃない。ただ、その直感に至るまでの輪郭が、とうとう見えてしまっただけ。


 アイツ、ちゃんと逃げられただろうか。

 階段を一歩一歩と踏み締めながら男はぼんやり思う。もしも頑固で無鉄砲なところまで『彼』に似ているのだとしたら、堪らない。だけど、実のところそんな気がする。

 本当は、あの子供も周囲と同じく避難させてしまっても良かった。だけれど、千代瀬の手がどちらへ向かうのか──『元凶』か『邪魔者』か。どちらを先に始末しようとするのか、時政には判断できなかった。だから、傍に置いていた。いざとなればこのように──自分が盾になれるから。


 さっさと終わらせてしまおう。そして、迎えに行こう。──思い、馳せる。

 あの子に会いに行こう。もしかしたら悔しくて泣いているかもしれないから──仕方ないから、たっぷり甘やかしてやろう。

 夕膳の豪華さに目を輝かせて。土産物の饅頭に頬を綻ばせて。景色の美しさに感嘆の息をこぼして。拗ねては癇癪を起こすくせに、身の内が素直すぎるから結局自己嫌悪してしまって──ほんのちょっと思い出すだけで溢れる少年の表情の数々に時政は笑った。


 成就まで刻々と呪いを溜め込む暗い廊下をただ一人歩いて、男は場違いな淡さで笑っていた。




 ◆◆◆




 どれほど呆けていただろう。気が付くと周囲から音は消えていた。時政さんはいない。──ひとりきりだ。



「いか、なきゃ」



 力の入らない情けない腰と足を無理矢理に立たせてソファーの背へと手をつく。立ち上がる。ぐっと腹に力を入れる。

 せっかく時政さんが逃げ道を作っておいてくれたんだ。きっとこれも、僕が何も知らず惰眠を貪る間に用意してくれたものなのだろう。時政さんの厚意を無駄にするつもりか? ──そう叱咤するも、足はまるでそこに根を生やしてしまったかのように動かない。僕の足なのに、僕の意思を汲んでくれない。

 ──いいや、違う。僕の身体だからこそ、わかっているのかも知れない。


〝本当にこのまま逃げていいのか?〟

 そう、奥底に眠るなにかが臆病な心に訴え掛けているのを。


 確かに僕は足手まといだ。霊感なんてモノは無いし、そもそも霊の存在を認めた事すらつい最近だ。時政さんがそうだと頷かねば、同じ言葉を佐竹が述べたとしても信じ切られる自信はない。おそらく僕はまだ、〝怪奇怪異〟というものを無条件には信じられない。けれど──それとこれとは話は別だ。

 覚悟したんじゃなかったのか? 時政さんの傍にいることを。あの人の世界に飛び込むことを。あの人の目に──うつしてもらうことを。

 勿論、怖い。怖いに決まってる。当たり前だ。ここは、この空間は非日常なのだ。僕の全く知らない世界だ。だけど、この程度で怖じ気づいて尻尾巻いて逃げ出すような、僕の覚悟はそんなちっぽけなものだったのか!?



「……っ、はあ、」



 かさついた唇をゆっくりと噛み締める。逃げたくない──逃げたくないんだ。子供の意地だってなんだっていい。怒られたって、身の程知らずだって笑われてもかまわない。時政さんの居る場所から、逃げたくない────!


 大きく息を吸い込み、彼等が駆けていった大階段に向かって足を踏み出したその時。




「──本当に君は影響されやすい子だね」




「────え?」



 背後から掛けられた涼やかな声に呼吸が止まった。するりと腰に回った腕は、そのまま僕を抱き込み背後にいるなにかと密着させた。

 冷たい。ゾクリと、背から、腰から、触れた部分から怖気が脳へ競り上がってくる。首筋にかかる息に温度を感じない。


 怖い。違う。怖いんじゃない。わからなくて、不思議なんだ。


 恐怖よりも困惑の感覚が勝つその手は、今にも肋骨を打ち破ってしまいそうな僕の心臓部へと、優しく腫れ物に触れるようにして指先を滑らせた。すると、あれほど暴れていた脈動が背を撫でられ宥められた幼児のように鎮静していくではないか。

 あれ──? なんだかこの手、知ってる気がする。



「ごめんね。また、驚かせちゃったね」



 耳にそっと吹き込まれる声色には、苦笑と細やかな心配の様子が伺えて。ああ──確信した、この人は。


 振り向いた先、拳一つにも満たない距離にあった顔は、以前に神奉山への歩みを止めた青年のものだった。



「なんで……」


「僕もここの宿泊客なんだ。奇遇だね」



 月に照らされ微笑む病的なまでに白い顔に思う。────嘘だ。

 彼はこう言ったのだ。『君、ここの地域の子じゃないね』と。その言葉から推測するに彼は地元民だろう。それなのに何故、安いホテルでもなくこれほど立派な宿泊施設を利用する必要がある?

 そんな僕の不信感を悟ったのだろう。青年は、「これだから賢い子は困るなあ……」と眉を八の字に下げると、僕の手を取って控え目に引いた。



「とにかくここから離れよう。さっき彼が言っていた裏口には僕が連れていってあげるから。今、ここが危険なのは君もわかっているだろう?」



 異常に低い体温の手が、廊下の先へといざなおうとする。



「待ってください、僕……!」


「わけは後でわかるから。だから、今はお願いだから僕と彼の言う事を聞いて。君は空っぽだから、僕達の近くにいては駄目なんだ。もうすぐ『僕』じゃ守れなくなる。喰われる前に、早く」



 戸惑いから、引く腕に対抗して反射的に足を踏ん張ってしまう。意味がわからない。この人は一体何を言っているんだ?

 そもそも何故彼はここにいる? この状況を把握している? 当事者(とするには微妙な立ち位置だけれど)の僕でさえさっぱり理解できないというのに。

 なにもかもがおかしくて。なにもかもが疑わしくて。けれどなにより不思議なのは、こんな状況であるのに彼から一切の悪意を感じないこと。


 この人は、どうして僕を────?


 そんな奇妙な彼の正体に、一人だけ思い当たる人物がいた。写真の中の姿よりも幾分か……そう、きっと〝七年ほど〟歳を重ねた姿であるのなら。



「────貴方は『圭司さん』ですか?」



 ピタリ。


 穏和な笑みを浮かべ忙しなく歩先を進めていた青年は、突如、電池の切れた行進人形の如く立ち止まった。そして。────ぐりん。




『あーあ。ほんと、賢い子は困るよ』




 恐ろしい声だった。恐ろしい形相だった。存在そのものが間違いだらけのノイズじみていて──『彼』の微笑みは悪意と嘲笑と愉悦に塗り潰された。



「い、ぅ、ぐ、」



 息ができない。締め付けられる。脳を。ああいや、もしかしたら──心臓を。魂を。絡め取られて────ほぅら、馴染み深い腹の底だ。


 ぽっかりした闇に宙ぶらりんの意識を放り出される。




 ────()()()()




 ***




 四階非常階段口。ぬるい風が足元から吹き上がるそこで、着物姿の女はケタケタ笑いながら手摺に凭れ掛かっていた。華奢な肢体はあと一つ、加わる手があれば簡単に手摺の向こうへと転落するだろう。とどのつまりは牽制であった。時政は現在、千代瀬の肉体を人質に取られているも同然だった。



「おい、若女将、聞こえてんだろう? そんなもんに呑まれるな、意識をしっかり持て!」


「いやですねえ、お客さんったら。私はちゃあんとここにいるでしょう?」



 うふふ。うふ。可憐で小鳥の囀るような──腐った果実の甘さを思わせる声色が無邪気に時政の耳を撫でる。艶やかに侵食しようとする。嘲笑が無人の廊下に広がる。



「……いい加減にしやがれ。テメェの茶番になんざ付き合ってらんねぇんだよ。──小娘の呪に寄生するしか能のねえ悪霊風情が」



 嫌悪を隠すことなく吐き捨てた時政に、千代瀬──そのなかに巣食う『魔モノ』は心底愉快だとばかりに笑みを深めた。女はどこまでもしたたかな『女』だった。



「悪霊? まあ、なんて非現実的なのかしら。探偵ともあろうお人が。私はずうっと──わたしですのに」



 着物の袖を指先でつまみ、ドレスでも翻すかのように美しく禍々しく舞う『魔』。気を抜けば途端に取り込まれるだろう、甘美な死臭のする女だ。さしもの時政も、女の圧に呑まれまいと血の滴る握り拳に汗を滲ませる。



「──美しい女の念と肉を手に入れられて満足かい?『醜女』の荒御魂よ」


「────ほう」



 時政の精一杯の虚勢に、はたと動きを止めてようやっと『女』は千代瀬の皮を剥がした。



「オマエ、わたしを『視』るか。さては混ざりモノか?」



 ざわり。冷気。瘴気。肌が凍傷したかのようにチリチリと冷たい熱を訴える。増幅する邪気。吸い込む空気の全てがヘドロのように肺へと溜まっていく感覚。

 およそ千代瀬のものとは思えないその声は、しかし確かに千代瀬の口から千代瀬の声を借りて発されていた。



「さて。少なくともただの人間だよ。ただ──ちぃとばかし『普通』より頭がおかしいだけさ。ところで荒御魂の神よ、和御魂の貴女はとうに死んでしまったのかな。それは──望まぬ贄(圭司)を捧げられたからか」



 果たして目の前の女が神であったモノなのか、それとも山に住まう神の善の側面──和御魂を喰らいその神性に肖る別のナニかなのか────実のところ時政に知る術はない。時政は異能者でありながら所謂覡としての質を持たないハズレものだ。だから、対話し、揺さぶり、そのモノの口を持って真相を引きずり出す。



「悪夢なんてまぁ、姑息な手を使って──貴女の目的は山の支配か? それとも──血からの解放か」


「…………」


「確かに、最終目的が海野一族との契約破棄なんだとしたら、海野圭司と繋がりの深い()()である千代瀬は最適な踏み台だ。千代瀬本人の憂いも晴れれば、晴れて貴女は二人目の贄を得る事となる。神サマなんだか、それともこれから神になろうとしているんだか──ともかく悪霊なりに三ヶ月も掛けて涙ぐましい努力をしてきたってわけだ」


「…………」


「だけどこっちも仕事でね──少なくともその女の身体は返してもらいたい。その後のことは……ま、御両家の問題だろうさ」



 千代瀬は沈黙していた。能面の顔を月明かりに浮かばせて、虚ろに時政を見ている。──いいや、その先を見ている。



「──足りぬ」


「……あ?」


「だめなんだ。まだ、だめ。この身では足りぬ。わたしは半分にも満たない。ああ、満つ月であるのに──あなたが足りない」


「────」



 時政は反射的に懐へと忍ばせている数珠玉の連なりを取った。──変わった。空気が。明確に。千代瀬に混ざろうとしている。悪意が。神を騙る腐った伊吹が。

 裂かれた右腕の傷口がじりじりと熱を持ち始めていた。心臓がゾッと脈打って、血を急速に全身へと押し出した。本能が心せよと命じる。────来る。




「圭司さん」




 声は三つ。


 咄嗟に叫んだ名は誰のものだっただろう。霧がかった脳裏に浮かぶ二つの顔。



 ──『時政さん』


 ──『時政先輩』



 ニタリと笑う女の卑しい口元に、彼の日の情景が重なった。


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