参
────だめだ。
わからない。率直にいって、理解不能だ。
だって、僕は時政さんじゃないんだ。特別な人間なんかじゃ、ないんだ。
ただ普通に、平凡に生きてきただけなのに。ただの人間の僕が、どうしてこんな不可思議に巻き込まれなければならないのだろう。
心が腐り出す。普通である僕が、これ以上踏み込んではいけないと警告する。
〝引き返せなくなるぞ〟
「……なんで、気付かれなかったんでしょうね、僕」
「さぁな。めそめそ泣きながら歩いてたからじゃねぇの? 周りを見る余裕なんかなかったんだろ?」
「それは──っ、そう、なんですけど……」
マグカップを置いて、目を伏せた。もはや時政さんの意地悪に噛み付く気力すらなかった。もう──誤魔化せない。
こわいのだ────僕は、この人の傍にいることが、こわい。
これまで知らなかった世界を知るのがこわい。それをとっくに知り尽くした顔で教えてくれるこの人がこわい。──あなたの視るものが、こわい。
皮肉にも思い知らされてしまった。
時政さんを知りたいと思った。時政さんと一緒にいたいと思った。だから、あの日、軽率に手を伸ばして──軽薄にその手を取った。
覚悟が足りなかった。
「…………」
「──……まあ、その反応が普通だよ。だから罪悪感なんぞ持たなくていい。自己嫌悪もしなくていい。そういうものだ。──悪い。急にこんなこと言われてもわかんねぇよな。でも、事実なんだよ。『俺達』にとっては────〝コッチ〟が常識なんだ。俺の近くにいる、てのはそういうことだ」
冷めきったマグカップを取られる。時政さんの背が備え付けのキッチンへと消える。飲み残しを流す音がする。
コップスタンドにかけられた時政さんのマグカップ。まだ出会ったことのない誰かのマグカップ。そして僕のマグカップ──三つ並ぶ光景に、あれほど心躍った事実が今更になって僕を薄情者と責め立てる。
「怪奇は人間が気付かないだけで、本当にすぐ傍にある。誰かがそれを知る限り──ずっと。どこでどんな縁が結ばれるかわからない。常に隣り合わせだ。……特に『俺達』のような人間にとっては」
────あ。
明確な線引きだった。僕と時政さんは〝違う〟のだと。それは当て付けだとか嫌味だとかじゃなくて────だから、引き返していいと、時政さんは傷付いているくせに僕に優しくあろうとしてくれた。
「時政さ──」
「バイト、辞めたいならそれも構わない。むしろ非正規雇用の特権だ、活用しろ。正社だと入社一週間で退職はかなりの問題行動だろうが、今時一日で見切りをつけてバックレるバイトなんざは珍しくな──」
「──時政さん!!」
腹から声を張り上げた。あの時政さんに、怒鳴っていた。全てが無意識だった。自分の声で、僕は怒っているのだと気付いた。
これ以上──この人に『平気』なフリをさせてたまるものか。
「僕──────嘗めてました!!」
「…………は?」
「時政さんのこと、嘗めてました! あと、仕事も──ぶっちゃけ嘗めてました! 探偵事務所っていってもどうせサポートだし、書類整理とか、事務所の留守番とか──僕がドラマみたいな殺人事件現場に行かされるようなことはないだろうなって、張り込みとかそういうのとは関係ないって────だって、子供だから。未成年の僕のことは、大人と法律が守ってくれるから」
「…………」
あらゆる意味で危険な仕事だと理解しているつもりだった。つもりなだけだ。そんなところも、とことん子供だ。
……まぁ、まさか一番初めに出くわす危険の類いがオカルト方面になるとは思いもしなかったけれど。
「正直、ここで働く気なんて初めはまったくなかったんです──て、これは、たぶん、時政さんもわかってましたよね。でも──それでも、あなたの誘いを受けようと思ったのは──────貴方がいたからです。貴方に興味があったからです。あなたの傍に、いたいと思ったからです」
「……で、こうして痛い目を見たんだろうが」
「はい。だから────これからも傍にいたいです」
「────は、」
キッチンの時政さんが唖然と振り返る。あ、珍しい。見えないけれど、きっとレンズと髪の向こうにある彼の目は真ん丸だ。
場違いにも嬉しくなる。僕にもこの人を驚かせることが出来るようになっただなんて──これもある種、成長といえるのだろうか。云ってしまおう。
「仕事も時政さんの本気も嘗めてた僕は、自覚も覚悟も全く足りてませんでした。反省してます。なので──全てが足りるまで、ここにいさせてください。時政さんの隣に──は、おこがましいか。後ろ辺り、立たせてください。────いつか、すべて〝理解〟した上であなたの隣まで行きますから」
「…………」
挑むように時政さんを見つめる。事実、挑んでいる。これは宣戦布告であり挑戦状だ。未知と、危険と、恐怖と、貴方への。
簡単に湯で洗い流しただけのマグカップを二つ、シンクの中へと置いて時政さんは体ごと僕と向かい合う。
「──お前、意味、わかってんのか? 今回はただ運が良かっただけだ。これから先はもっと危険な目に遭うかもしれない。遊びや好奇心じゃ済まねぇんだぞ」
「はい。遊びや好奇心じゃ済まないということを、これから学びます。その上で──判断したいんです」
「その頃にはとっくに手遅れになってるとしても?」
「それは……そうなったら、その時に考えます」
「っそれじゃあ本末転倒だろうが! そうなる前にさっさと見切りを付けろ、て話を今して──ああクソッ、絶対譲らないって顔しやがって、人の気も知らないで────いいか、よく聞けよ。俺はお前が思ってる以上に悪い大人なんだ。お前に満足な説明もせずに、自分の都合だけでお前を俺なんかの傍に置こうとした。結果どうなるか、お前がどんなモノに巻き込まれるか、俺は知っていたし経験してきたその上で、だ。つまり、そこに意図があろうが無かろうが俺と関わるにあたって事前説明が十分に為されなかった時点でお前は俺に詐欺行為を働かれたも同然──」
「~~ッあぁもう、ゴチャゴチャうるさーーーーい!!」
叫んで、立ち上がった。だってこのままじゃずるい大人に丸め込まれてしまいそうだったから。
そうだ。時政さんはずるい。わざとらしく理屈を捏ね回して、大人ぶって、意地の悪い言い方をして悪役ぶって──そうして、今さらになって僕を〝この世界〟から逃がそうとしている。逃げようとしている。僕から。
そんなの、卑怯じゃないか。バカにするのも大概にしてほしい。
僕だって当然、命は惜しいし、自分の身がかわいいし、これ以上は無理だと理解したら逃げる。それができる──筈だ。だって僕は僕の臆病さを知っているから。わざわざ時政さんに逃げ道を示されるまでもないのだ。
だから。
「足りなかったものをこれからアンタを見て学んでいくから、そうする為の覚悟ならできたから、つべこべ言わず僕を傍において面倒見ろって言ってんですよ!!」
絶句する時政さんに怒りのまま詰め寄る。
散々怖い思いをさせられて、怯えることしかできない自分に失望して、この人を徒に傷付けて──失態だけを土産に、このまましっぽ巻いてあなたを置いて逃げ出せるものか。逃がすものか。
茜の世界まで、汗だくになってまで僕を迎えに来たのは、貴方なんだから。
「そして、あなたの隣に立てたその時────もうひとつ覚悟をさせてください」
この先もあなたの傍にいる事を────あるいは、あなたに別れを告げる事を。
どうかそれまでは。
「あなたの視る世界を、僕に見せてください」
────はじめて、時政さんに勝てたと思った。
だって。時政さんの、耳が。
「おまえ──無害な子犬みたいな顔しておいて、実はめちゃくちゃ気ィ強くて頑固だろ。そんでもって天然もブレンドされてるとんでもねぇ劇物」
「そんな評価されたことないので時政さんの勘違いじゃないですか。あと子犬じゃないし」
つい先程まで激しく口論していた余韻をさっさと霧散させて、素知らぬ顔を作って時政さんの横を通る。シンクの前へと立つ。スポンジを手に取り、いつも通りにカップを洗う。二つのカップをコップスタンドへと立て掛ける。持ち主不明のカップと、時政さんのカップと、僕のカップが当たり前の顔をして壁に並ぶ。
そうだとも。これが今の僕の日常だ。やっとここまで来たんだ。──今さら、こんなところで僕を投げ出させるもんか。お人好しめ。
◆◆◆
なんだかんだと有耶無耶になりかけていた遅すぎる夕飯を終えて、そろそろ帰らなければまずいな、と時計を見る。料理をする際、脱いだブレザーは果たしてどこにやったかなと事務所内を見渡せば、ポンッと時政さんからブレザーと鞄のセットを投げて寄越される。言葉なくとも仕草だけで自然と他人の意図に気付ける時政さんって、やっぱり観察眼が異常だよなぁと若干失礼ながらに感心する。そもそも目上に対して感心とか云ってる時点で十分失礼な話なんだけど。
「遅いし今日は駅まで送ってやる」
「うわ、めずらしい」
「珍しいことがあった日だからな」
事務所の明かりを消して、看板も中に仕舞って──ガチャリ。制服とジャージの、一見は学生同士のような二人で夜道を歩く。後ろ姿は勿論のこと、時政さんは多少見た目が不審なだけであって、その実、若い。流石に事務所を構えている点から学生ではないだろうけれど、それでも、案外年齢は変わらないんじゃないかと疑っている。二十代──これは確定だ。
──補導、されないかな。おまわりさん、この人が不審者じゃないって信じてくれるだろうか。
「──あ、そういやお前、名前言っただろ」
「はい?」
突然の話題提示に、反射的に時政さんの方へと振り向く。絶妙なタイミングで街灯が時政さんの野暮ったい髪を照らす。ううん──やっぱり不気味だ。これはもう、そもそもがおまわりさんに見付かっちゃダメな類いの人だ。
「だから、あの顔亡の女に。忠行ちゃん(は・ぁ・と)て呼ばれてたじゃねぇか」
「はあ……。まあ、聞かれたので」
なんだそのうすら寒い(は・ぁ・と)は。
「……お前、本当に何も知らねぇんだな。──いいか。今回は善良なモノだったから良いが、今度からは軽はずみに自分の情報を言うなよ。特に名前」
「妖に──ですか? どうして?」
「それはまた今度教えてやる。いいから覚えとけ」
そう、時政さんが横柄に頭を撫でてくるものだから、とりあえず素直に頷いておく。
妖に自己紹介は禁止──か。やっぱり不思議だ。
「──そうだ、時政さん。そういえば僕も聞きたい事があったんですよ」
今度は僕から、歩みを揃えて時政さんへと伺う。駅が見えてきた。車道にはみ出さないよう隅に立ち止まって、時政さんを招く。
色んなことが起こった所為ですっかり忘れてたけど──
「僕の依頼のお金ってどうなってるんです? もしかしてこう──お給料から天引きシステムですか」
「あ? ──ああ、佐竹のやつか。アレはお前と契約してないから無効だ」
「ああ、なるほど。そういう…………ん? え? つまり?」
「あくまでも個人サービス。本来なら書面を持って依頼状から契約書から同意書から──全部にお前のサインが必要になるし、もっと突き詰めるとお前の保護者の印鑑も要る。ほら、面倒だろ。だから全部おにいさんが初回サービスってことにしてやったんだよ」
「…………」
なるほど、と頷く。そうか、初めから僕は時政さんの客ではなかったのか──待て、頷いていいのか、それ。だって。つまりは。
「──時政さんは仕事じゃないのに仕事って体で聞き込み諸々したってことですよね。────犯罪では?」
「…………探偵ってのはいつだって危険と隣り合わせのつらい仕事なんだよ」
「いやいやいやいや」
何食わぬ顔でいる探偵──若干やはり詐欺師の影が見える、一応、探偵に詰め寄る。どう責め立てようとも飄々と口巧者に躱してしまう時政さんが憎い。なんてダメな方向に大人らしい人なんだ!
「得したんだからそれでいいだろ。それともなんだ、お前、自分から借金したいのか? お前とのあれこれを仕事にするってんなら、正式に支払いの義務も果たしてもらうことになるぞ。物珍しい若者だねぇ」
「借金」
「もしも正式依頼だった場合の、人捜しの相場は──」
ごにょり。ごにょり。
「たッ────!?」
耳元で囁かれた衝撃の数字に飛び上がった。比喩じゃない。文字通り、飛び上がった。高い。物凄く普通に高い。様々な意味で僕の意識は飛んでいた。
「──ま、並みの学生がポンと払える額ではねぇよな。──さて、どうする? 借金するかい? 少年」
「……………………サービスで、お願いします」
「よし、今から俺とお前は一蓮托生の共犯者だ。──自分だけ逃げられると思うなよ、アルバイト君」
────っやっぱり悪徳商法だー!!