◆黄昏
──おや、
そこにおわすはどこの娘さん?
顔が暗うてよく見えん
──はて、
そこに寝るんはどこの子じゃ?
顔が暗うてよく見えん
嗚呼、誰そ彼 誰そ彼
嗚呼、ダレソカレ ダレソカレ
拘束時間終了を告げるチャイムが鳴る。化学の担当教諭が眠たげにプリントを回収していく。瞬間、ダッシュを決める。通りすぎ様、教師の誰かから「廊下は走るなー!」のお叱りをいただく。それに「ごめんなさーい!」と形だけ謝罪を残して──
「やっばい、超遅れた──佐竹のバカー!!」
校門を背に、月と交代の準備を始めている太陽に向かって僕は理不尽を訴えるのだった。
時刻探偵事務所に勤め始めて早一週間。正直に言おう。──物凄く暇だ。
客は全くといっていいほど来ないし、それなのに時政さんったら依頼を選り好みするからペット捜し案件だとかは断っちゃうし。ずっとソファにグータラ寝そべって家事もしないものだから、アルバイトこと僕ってば最近ではすっかり家政夫みたな扱いになってるし。──そういえば勧誘時にそんなこと言ってたっけ。……うん。やっぱりあながち家政夫で間違ってないのかも。
こんな有り様でよく独りで生活していけたなあ、と沁々する。見たところ金に困ってる様子もないわけで。
あれかな? たまにくる依頼でガッポリ稼いでる、とか? ──最低じゃないか! それ悪徳商法だよ、時政さん!
──なんて。早歩きで事務所に向かいつつ恩人である時政さんを悪役に仕立て上げる恩知らずな遊びをしていると、気付いた。
そういえば、僕、何も払ってないな。ただ探偵に助けてー友達を捜してーって泣き付きに行っただけで。……僕の依頼金がどうなってるのか、聞いてみようかな。時政さんが起きていたら。
「…………」
いいやと首を振る。無理だ。寝てる。絶対に寝てる。あの人、超ものぐさだもん。まともに働くところ見たの、あの事件以来ない気すらする。
時政さんに充実的で活動的な生活態度なんてのは期待するだけ無駄なので、頭を切り替え、ともかく事務所へ向かう道すがら寄る予定のスーパーの特売に間に合えと足を進める。
ああ、そうそう。ここからは後日談の話だ。
教頭先生は無事に捕まり、島先生は責任を取って教師を辞め──ようとしたが、そうはならなかった。
各被害者の希望から事件そのものが公にならなかった為に、彼の処遇は厳重注意だけで、結果的に宙ぶらりんへと放り出されてしまったのだ。そこから自主退職までの流れはごく自然であった。
しかしだ。事件は公にならなかった──無関係の生徒達は知らないのだ、島の執念を。当然、島先生を慕う生徒達は彼の突然の退職に納得がいかない。そこで、事情を知る校長と理事長の粋な計らいにより、島は檜垣高校に籍を置き続ける形となった。流石に担任は下ろされちゃったけどね。
さて、島の退職に我慢ならなかった生徒というのが。
「──じゃ、行くよ、佐竹」
「おうよ!」
意気込む友人と息を揃えて──ガラリ。戸を開く。佐竹が大きく一歩を踏み出す。目当ての人を見付けて大口を開く。
「しっつれっしまーす! しーまセーンセ!」
佐竹のワンパクな小学生みたいな呼び出しに、教科準備室にて荷造りをしていた島先生はポカンと無防備に呆けた。レアだ。作業の手を止めて律儀に立ち上がる先生を待つ。
「お前ら、なんで……」
「えーと、けじめつけに?」
苦笑混じりに告げると、まず佐竹が一歩、僕が二歩と島先生の両隣へと並ぶ。そして。
「「ッせぇーのっ」」
──ゴッッ!!
「ッぐぅ!?」
左右同時からの衝撃に、どちらへも勢いを逃がすことができず甘んじて拳を受け止めた──島。そのまま、男は両頬を押さえて呻きながら床へと崩れ落ちた。
ヒリヒリする己の拳を使わずにいた片手で包んで、反射的に騒ぎ出した心臓を宥める。向かいの佐竹も似たような状態らしく、微かに深呼吸していた。
「俺のは、なんかよくわかんねぇけど巻き込んでくれた分」
「僕のは、あなたを想ってたくさん泣いた命さんの分ですよ」
踞る島へとスッキリした心地で突き付ける。この『けじめ』の言い出しっぺは佐竹であり、僕は佐竹に連れられるまま便乗した口だけれど、それでも不思議とやり遂げた気持ちになれた。
そうして、佐竹とドッキリに成功した悪戯っ子のように悪どく笑い合っていると、ポツリと島がこぼした。──すまなかった。と。
「本当に申し訳ないと思っている。俺の私情に巻き込んで──どれだけ謝っても許してなんてもらえないだろうが……もうお前らの前には現れないから。教師を辞めて、いちからやり直──」
「そうそう。そこがムカつくとこなんだよねー」
「──?」
鬱々とそして淡々と謝罪を並べ立てる島に、佐竹が剽軽に、しかし声色には微かに苛立ちを乗せて独りよがりな男の言葉を遮った。
「失礼ながら島先生。それって──逃げてるだけなんじゃないですか?」
続けた僕に、島が顔を上げる。ぎょっとするような、そんな顔。彼の反応を見て思う。──僕は今、どんな表情をしているのだろう。
「やり直すんでしょう? なら、ここでもできるじゃないですか」
「だ、が……それじゃあ、けじめが……」
「だから、それが〝逃げ〟なんじゃないかって言ってるんです。反省とか後悔とかって、結局時間が経てば薄れていくものじゃないですか。でも、ここにいたら嫌でも思い出すでしょう? 佐竹のこと──命さんのこと。本当に悔やんでいるのなら、この学校で、僕等の側で、やり直してください。……ちゃんと、監視してますから」
あんまりにも自分が偉そうで、傲慢な物言いで、どうにもキャラじゃない気がして恥ずかしくなって顔をそらした。佐竹と目が合った。……え、なんでニヤニヤしてるの、こいつ。
「倉橋……」
「と、いうかですね。ウザイんですよ。クラスの連中が。行かないでーやだーって子供みたいに騒いで。あんなクラス纏められるの貴方しかいないんですから、途中で投げ出さないでください。先生が生徒をどう思ってたかは知りませんけど、その、僕達は──た、頼りに……してるんですから……」
……あ、佐竹がニヤニヤしてる意味がわかった。どこのツンデレだこれ! 僕、こんなキャラだったっけ!?
ああ、もう、調子を狂わされる。誰かにお説教なんて、僕の役柄ではないんだ。こういうのは全て時政さんに丸投げ──ォホン、任せてしまいたい。
「倉橋……でも、自分の生徒を利用するようなこんな最悪な教師、許せないだろ」
「──あのさ、センセ。俺、ぶっちゃけこの間のことあんまり覚えてねぇの。だから許すとか許さないとか正直かなりどうでもいいんだわ。でも、センセーがそれで辞めるってんなら許さない。俺、シマセン好きだもん。てかセンセーが担任じゃないと困る。いやマジで。シマセンじゃねぇと俺の担任は無理だから」
「みんな音を上げるもんね。佐竹がバカすぎて」
「おま、うーっせ! ……だから、ここで俺らのこと捨てたら、許さないから」
「──どうする? 先生」「──どうします? 先生」
島は呆然と目を開かせたまま硬直した。奇妙な沈黙が数秒、その場を支配した。そして。
────ハハッ、と。島先生は笑った。
「可愛い生徒からこんな熱いラブコールをされちゃあ──応えないわけにはいかねぇな」
その笑みは苦々しくて、殴られた頬は痛々しくて、だけども島先生の表明に迷いはなかった。説得成功の予感に胸を撫で下ろす。
言い出しっぺは佐竹だ。僕を引きずって、漢なら拳で語り合うしかねえ! なんてバカを言い出したのも佐竹だ。だからこそ──島命に続く真の被害者である佐竹が許すのなら、それでいいと僕は思ったのだ。
「すみません、成り行きとはいえ教師を殴るなんて……」
「いや、おかげで目が覚めたよ。ありがとな、佐竹も」
頬を間抜けに腫らしつつもニッと爽やかに佐竹へ笑顔を向ける島先生は、憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしていた。
きっともう、彼がその手を凶行に染めることはないだろう。命さんへの慈しみも、後悔も、懺悔も──憎しみも、復讐の残火も、消えないまま。佐竹同様に、呑み込んで感情を腹の底にたゆたわせて生きていくしかないのだ。
「纏めた荷物、また戻さねーとなぁ。あー、めんどくせぇの」
「センセ、自業自得ー」
加害者と被害者であった事実など払拭するがごとく朗らかに笑い合う二人に、ふと時政さん──否、命さんの言葉を思い出す。
────伝えなくては。
「島先生、実はある人から伝言を預かっているんですが……」
「ん? 土御門さんか?」
眉を下げてふるると首を振る。時政さんといえば時政さんだけれど──本当に伝えたかったのは別のひと。
「いえ、もっと身近な、大切な人から。『あの日は言い付けも守らずに外に出た自分が悪い。だから恨んでなんてないんだよ。仕返しなんてやめて。これ以上苦しんでる叔父さんを見るのはつらいよ。──こんなに優しい生徒に囲まれてるんだから、復讐に捕らわれないで好きなように生きて。貴方を慕う人はたくさんいるから』」
──ハッ、と。息を呑む音が聞こえた。島先生は誰かを探すように、一度だけぐるりと周囲を見渡した。
誰もいやしないのだ。僕と、佐竹と、あなたの他には────時政さんが居ると示さない限り、僕等に〝彼等〟はわからない。けれど。
「誰の言葉か、わかりますよね?」
「……ああ」
痛みを堪えるような表情だった。そこに苦しみはなかった。──良かった。もう、大丈夫だ。
「──さ、佐竹。行こう」
「……おう! シマセン、ちょっとは寝ろよな! 隈、すんげぇことになってんぜ」
ニカッとたっぷりの愛嬌をお見舞いして佐竹が戸を閉める。その一瞬。ポツリと聞こえた言葉に、こちらも返事を落とす。
「どういたしまして」
──〝本当に、ありがとう……っ〟
なお、後日談のさらなる蛇足だけれど、時政さんに島先生の処遇の落としどころを報告したところ、「せっかく新しい就職先を探しておいてやったのに」なんて全然残念じゃなさそうに言われた。
時政さんのことだから本当に用意自体はしていたのだろうけれど──やはり、なんとなくこうなる事を予期していたように思える。だって、まるで驚かなかったし。
この人、未来でも見えてるのかなぁ──なんて。だんだんと僕の中の時政さん像がとんでもないことになっていってる気がした。
あと、仇討ちの名分があるとはいえ正当防衛以外の暴力は法廷での勝率を大幅に下げる悪手だからやめておけとこんこんと諭されました。ハイ、ゴメンナサイ。